arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1420日目と梅干しの黒焼き作りと平太の戊辰戦争⑦

2025/7/29火曜日

3時半に起床し米麹の品温をチェック。

発酵機無しで44度をヒット。

麹蓋に分け入れた。

4時半に畑へ。

この時間は涼しい。

サーッと水やりし5時には帰宅。

シャワーを浴び洗濯。

ベランダガーデニングの水やりも済ませたら、梅干しの黒焼き作り。

土鍋に梅干しを並べたら蓋をし、小麦と水で練った小麦粘土で隙間を埋めた。

これで8時間弱火で焼く。

やる事やったら読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争

 

〈雨の戦争〉
越後の戦争は別名「雨の戦争」と言われ両軍ずぶ濡れになっての戦いだった。
◯五月五日、大風雨。妙法寺刈羽郡西山町)辺にて大砲の音聞こゆ。
◯五月七日、信濃川満水、会津様七十余人、宅へ御宿陣。
◯同八日、なお出水や土手いっぱいなれども船人足増し、会津勢様御出立……。
◯同九日、雨、なお出水、土手危うく高張出す。
本大島(長岡市)庄屋長谷川三男三郎ら土地の庄屋の記録(『長岡市史』資料編)も雨一色。
平太は信濃川の大増水を目の当たりにして自然の脅威に愕然。
悪魔くん達も大喜び〜!

 

五月八日 敵軍にも襲い来たらずといえども不安の内に夜は早くも明けたれども、暴風雨は依然として止まず。
今日こそはいかにしても長岡町へ渡らんものと同所出立。

渡船方を促したるに、水勢強烈なれば到底出船するかなんずとして承諾せず。
中島にありし家屋の二階より船にて物品を持ち出しおりたる。

みるみるうちにその隣家は平屋なるゆえ、直ちに流失。

川近くの数十戸、流失せる凄惨な光景。

憫然の極みというべし。

五月九日 朝に至り風雨も止み船手にも出船なるべしとなれば、朝食後、信濃川を渡る事を得たり。

長岡城下に至るに市街一円の水にて市中を船にて通行。
この日列藩同盟軍は大会議。

敵は信濃川を渡河し長岡から南に三里の三国峠の険要榎峠まで進出。
朝日山、金倉山、浦柄村などを占領。

列藩同盟軍の初攻撃は、荻原要人指揮の長岡藩兵四小隊と会津佐川隊は本道から妙見村に進み、近郊妙見村の敵を掃討する。
川島億次郎指揮の長岡藩別働隊と平太の属する萱野隊と桑名兵、衝鋒隊、遊撃隊などか金倉山を攻略。

平太は戦闘を前に緊張した。


二 砲声遠雷のごとし
〈榎峠攻防戦〉
五月十日 長岡城下出発、村松村を経て金倉山を越し小栗山村に至る。

同所は金倉山に次ぐ高地にて小千谷地方を眼下に見下ろす高地なり。

栗山村寺院にて憩いおりたるところ浦柄村方面に当たり砲声しきりに起こり、すわ戦争始めたりと、直ちに中山村、寺沢村など数ヶ村を経て浦柄村方面に進軍せり。
平太の日記によるとさほど苦戦した様子は無いが榎峠の古城跡の攻防戦は両軍死力を尽くす激しいものだった。
険阻な山間での戦いであり大砲を山に運び上げる事も容易でなく、敵の正確な銃撃の前に長岡藩兵は多くの死傷者を出した。
対岸の三仏生からは丸見えで砲撃を加えられたことも痛かった。
衝鋒隊戦記』によると「十日の払暁より総攻撃を開始せしが、数時間に及んで何ら戦局の発展を見ざるより、衝鋒隊は一気に勝敗を決せんと、降るがごとき弾丸の下を潜りて城山に強襲を行い、肉弾を飛ばして激烈に奮闘、格闘せる後、遂に城山の守兵を走らせて確実に占領」と記されているように、衝鋒隊の奮戦と会津藩大砲隊の三仏生への反撃で遂に榎峠の奪還が成った。
↑えがったな、凌雲のお兄ちゃん、大活躍や!

 

平太の父、虎之助の「懐中日記帳」によれば、小栗山に辿り着いた辺りで敵兵らしい数名を目に。

また、砲声が聞こえたのは未下刻(午後三時)頃。

撃ち合いは数時間に及んだ。

虎之助は斥候の一人としてその夜浦柄に潜んだと記している。

 

〈朝日山決戦〉
翌五月十一日(笑)、敵は夜明けと共に榎峠に反撃。
精鋭の薩摩外城隊と長州奇兵隊が渡河。
霧が深い為発見が遅れた。
↑DS悪魔得意の霧アシスト。

母成峠でもやっとった。

 

霧が晴れるや対岸から猛烈な砲撃。
数百メートルの射程距離を持つ敵の新式銃の威力は凄まじく、会津藩兵も忽ち苦戦。榎峠を見下ろす朝日山からの銃撃も加わり防戦一方に。

胸壁を築き、塹壕を掘って防御を施し、これを防いだ。

しかし、朝日山を奪取しなければ再び榎峠を失う。
長岡藩槍隊、田中小文治の銃卒隊、会津萱野隊、桑名雷神隊が榎峠を下りて朝日山への登攀を開始。
この日も雨。
泥土の中を這いずり回る戦闘に。
朝日山には薩長側軍も僅かしか居なかった為急遽援軍を要請。

弾丸が飛び交う中での激烈な奪い合いに。
現在、標高340mの頂上の朝日山古戦場まで車で行ける、
実に見晴らしが良く、ここに立つと対岸の監視と砲撃も含めて司令塔の役割を果たす要所であった。
↑立見鑑三郎の本でも言ってたな。


この激戦を『衝鋒隊戦史』は次のように記している。
「朝日山の奪取を企てるも長州兵頑強に守備して抜けず、死屍は山脚に満ちて骨山血河の惨状、目も当てられざるに至りしが、北軍(同盟軍)においては損害をかえりみず未明より強襲を行い、長岡兵を初め会津佐川隊、桑名雷神隊など交々その任にあたりたるも南軍(薩長軍)また要地を知るかゆえに死力を尽くして力戦し、容易に抜くこと見えざりしが、午後三時頃に及んで衝鋒隊の一個中隊は疾風の如く敵背に出て死屍を踏み越え、躍越え、稲麻の風に戦ぐが如く山上目掛けて攻め上りたるに守兵も遂に一目散に退却、ここに漸く朝日山の要害を我が手に収るを得、山上山下期せずして歓呼起こり、士気天に沖せり」
衝鋒隊戦記』はこの時期から自らを北軍、敵を南軍と記載するように。
戦闘の激烈さは平太の日記にも出てくる。

味方に於いて寄合組武田富松という少年、前歯二枚を打ち折り耳下へ貫通せり。

阿鼻たとうるにものなし。

このころに至りては連日の雨天なるに足袋にワラジをはき、昼夜野に伏し、山に寝み、陣営もなきゆえ、終始はき通しなれば、足の指と指の間、腐爛し苦痛はなはだしかり。

↑15歳やで。

 

〈時山直八の死〉
五月十三日早朝、敵の奇兵隊司令で長州軍参謀時山直八が自ら先頭に立って未明、朝日山に攻め上がってきた。

前夜密かに渡河。

濃霧のなか(笑)を登攀。
↑まーた、悪魔アシスト。


時山達の隠密行動を援護する為の見せかけだったのだろう。
対岸から激しい砲撃が始まった。
怪しみながらも応戦していると、突然、敵が出現。
この時、平太は最前線に。

朝霧の晴れ始めしにより四方を凝視するに、我が隊の本営なる朝日山の麓を四方より蓑笠着たる人足体の数人登り来たりければ、敵には変装し朝かけせしものと察し、一令のもとに各持場の塁壁につき狙撃に努力せり。
敵には軍旗を先頭に進め、もはや五、六間の処まで進み来たりければ、本隊にてここ打ち破られては一大事なりと熾烈に防戦せり。

また西方より登り来たる数十人、先頭に立ちたる者、大刀を打ち振り胸壁間近く進みたれば、味方より片桐氏の組の銃卒柳下竹次郎なる者、大刀を引き抜き、胸壁を乗り越え躍り出て打ち合う事数回にして斬倒し、首級を揚げたり。
これまで、吶喊し来たりたるもこの猛威に危惧せしにや、敵軍総崩れとなり敗走せり。
我が軍隊にもただちに追撃せんとせしに、弾薬は打ち尽くしたれば追撃することかなわず。
戦後、各自所持せし弾薬を取り集め、各自に平均に配当せしに、一人当たり四発ずつにてありしと。

↑臨場感溢れ過ぎで読んでてドキドキしたわい。

 

危なかった。もし敵が引くことなく攻撃を続けていたら間もなく弾が無くなり肉弾戦になるところだった。

会津藩にもかなりの犠牲者が。
一の台場の河瀬重次郎が組頭を務める甲子及び寄合組の兵士三十余人は未明の敵の侵入に気付くのが遅れ、一斉射撃を受けて、応戦も出来ず狼狽して四散。
組員の辰野平太は斬殺され、岸伝蔵は負傷。

堀田内蔵助は一旦逃走したものの逃げ切れないと観念し腹を切ったが気を失い滝壺に転落。
口に入った水で蘇生したものの再度自刃しようにも刀を失っていた。
敵の弾丸が飛来する中3日後に朝日山の陣営に辿り着き、小栗山の野戦病院へ。
平太は隊長の萱野と見舞ったが危篤状態。長岡に転送されそこで死去した。

時山直八は桑名藩雷神隊三木重左衛門の狙撃によるものとされている。
参謀時山直八の死は長州軍に衝撃を与えた。
時山は山県と同じ31歳。萩の下級武士の出で松下村塾で共に学び、奇兵隊参謀、軍監として戦ってきた。
奇兵隊がこれ程完膚なきまでに敗れた事は無かっただけに薩摩藩も恐れを為し黒田清隆は一旦後退して陣容の立て直しを主張したほど。
山県が土佐の岩村精一郎を罵倒したのもこの時である。
朝日山の戦いは同盟軍の圧勝であった。
↑悪魔の霧アシストあったのにね。

会津藩衝鋒隊と雷神隊が活躍。

衝鋒隊の事はもっと知られても良いのにね。

今日はここまで。

 

11時に夫が帰宅したので昼食作り。

今日のリクエストは素麺。

自分は納豆ご飯と中華スープメインでお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

長男からは残り物が一杯あるので夕食は要らないと連絡が来た。

久しぶりに唐辛子を効かせたサラダを作る事に。

春雨とゴーヤのレモンニョクマムサラダ、梅奴、枝豆、鯖、ビーツのスープ、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

輪切り唐辛子入りのサラダは大好評だった。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は5252。

充実した一日だった。