2025/7/28月曜日
4時に起床。
4時半に畑へ。
ずーっと雨が降っていないので一通り水やり。

ズッキーニとゴーヤを収穫したら家路に。
5時半に帰宅後シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水やりとおやつの平らな焼きおにぎり作り。
8時半に買い物へ。
10時に帰宅後、食材を収納したら米麹作り。

気温が高いので発酵機無しで製作。
が、冬と違い品温はなかなか下がらず。
暫く放置。
その間、もう1回分のお米を鍋で蒸す作業。
麹蓋は4個あるので、2回分を一挙に作る事は可能。
合間に昼食と夕食の下ごしらえ。
隣で寒天を熱湯で煮てフルーツゼリーを製作した。
更に、夫の昼食の麺用のネギと自分の納豆用の紫蘇等をザクザク。
12時半に帰宅した夫は冷や麦をチョイス。
生姜と茗荷も追加した。
自分は納豆ご飯と残り物の中華スープメインでお腹を満たした。
午後は読書と調べ物。
昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争」
越後に敵が侵入したのに兵を出さない長岡に痺れを切らした佐川官兵衛が長岡城へ出向き河井継之助と押し問答に。
河井は「我が国、小なりといえども兵を率いて我が長岡領に入ることを聽さず。我は中立を守って不変不動の内にあり。君迅速、退去すべし」と参戦を拒否した。
薩長軍は小千谷を難無く手に入れ長岡城を射程距離に。
衝鋒隊が小千谷を死守せんとしたが、会津藩総督一瀬要人は若干の抵抗は試みたものの小千谷の陣屋を放棄。
この戦いで会津藩総督一瀬要人と衝鋒隊の間に亀裂が生じた。
〈鯨波の戦い〉
薩長軍の別働隊は27日、桑名藩士が守る柏崎も急襲。
ここには主君松平定敬と共に海路柏崎に着いた藩兵二百数十人が拠っていた。
関東に転戦していた御側役町田老之丞、御小姓立見鑑三郎兄弟ら数十人が会津経由で到着。
早速、新たに軍を編成。
雷神隊の隊長には勇猛で知られる立見鑑三郎が、致人隊隊長には松浦秀八、神風隊長には町田老之丞が就任。
この過程で恭順派の家老吉村権左衛門は誅殺された。
両軍は閏4月27日早朝、鯨波(柏崎市)で激突。
季節は梅雨。
連日の雨で泥土の中を這い回る戦争に。
鯨波の集落を挟んで討ち合いに。
民家は黒煙に包まれた。
『戊辰役戦史』によると「官軍は鯨波の南北に展開して攻撃するが高地に急造された構築陣地があって攻略出来ない。遂に攻撃を断念し退却した」とある。
しかし、小千谷が占領された為、鯨波を放棄せざるを得なくなり結局柏崎から長岡近郊に撤退を余儀なくされた。
第二章 平太の参戦
一 「八幡大菩薩」の旗を押し立てて
〈威風堂々の行進〉
五月一日 高田城下方面の戦争、我が会津方の不利なる旨、急報追々到来せしかば、陣屋に於いて取扱いに掛かる全ての事務は郡奉行清水作右衛門氏に託し、隊長右兵衛氏には部下、士卒総勢三百余人、これを撤兵隊、大砲隊に分かち付属として兵糧係、武具係、勘定方、小荷駄方、病院など従軍せり。
この日は奥羽列藩同盟が結成され士気が高かった。
列藩同盟盟約書は「会津征討、庄内征討は薩長の私怨であり、天皇の意志によるものではない」とした。
↑その通り。
睦仁親王は父孝明天皇の薫陶を受けて育ち、孝明天皇が信頼する松平容保公を饗す場面でも同席している。
本物の睦仁親王を知っている松平容保公にすり替わった明治天皇は絶対会わせたくないわな。
抹殺するしかないわな。
五月二日 加茂町(加茂市)泊まり。
加茂は桑名藩の領地。
中国筋の者らしい不審な2人を桑名藩士が察知。
主人は逃亡。
従者は口を割らず斬首された。
2人が借りていた家には白木の長持が数個あり武器などが入っていた。
菊の紋を染め抜いた旗もあった。
密かに先乗りし情報収集活動を゙していた密偵と想像された。
〈蒼龍起つ〉
五月三日 同所に滞在。種々協議あり。
前日の二日、河井継之助が抗戦に踏み切った。
五月一日に河井は従者一人を連れ薩長軍参謀に会談を申し入れた。
会場の慈眼寺に来たのは土佐藩岩村精一郎、長州藩杉山荘一、白井小助、薩摩藩淵辺直右衛門の四名。
河井は「弊藩主、もとより恭順して決して異志ある者に非ず。ただ藩内議論分かれて一定せず、種々の内情のやむを得ざるあり。しかるに会津、米沢、桑名の諸兵、城下に来たり、薩長は私心を挟める者、真の官軍にあらず、ゆえにこれに抵抗すべしと迫り、やむをえず朝命には応ぜず今日に至りしなり」とこれまでの経緯を述べ、更に、「まず、藩論を一定し、会津、米沢、桑名などの諸藩を説得して無事にその局に至らしめん。いま直ちに軍兵を進めるは大乱を惹起し、人民塗炭の苦しみを受けるに至るべし」と戦いの中止を訴え、嘆願書を差し出した。
しかし、四人は冷淡。
「今更掛かる言い訳の相立つべきに非ず。ただ、兵馬の間に相見るのほかはなし」と岩村が言い放ち、会談は間もなく終わったと伝えられる。
かくして、河井は五月四日、新発田(え?)、村上、黒川、三根山、村松などの諸藩と共に奥羽と越後の連帯に同意。
奥羽越列藩同盟が誕生した。
五月五日 見附町(見附市)で宿営。
この日、平太の父虎之助は三条で北越細見絵図を発見。
これを写した。
土地勘の無い会津兵にとって貴重な収穫である。
六日 信濃川を渡河し上除村(長岡市上除)に至る。しかし猛烈な大暴風雨に。
戦況は連日の豪雨で膠着状態。
尾張、松代、松本の藩士が六日町村で長岡藩の巡邏隊に遭遇、「我々は長岡藩に参戦致さぬよう説得に参った」と語った証言がある。
彼らは「いわゆる官軍なるものは真の官軍にあらずして実は一、二雄藩の私欲を逞しゅうするものなり」
と土地の庄屋に漏らしている(稲川明雄『長岡城燃ゆ』)
↑京都に居た者達は皆知っている。
京都で何が起きていたか。
薩長は江戸騒擾作戦の前に京都騒擾作戦をやっていた。
尊皇が聞いて呆れる。
14時半から夕食作り。

カレー、鶏ハムサラダ、中華スープ、フルーツゼリー、平らな焼きおにぎり。
長男が16時半に受け取りに来る予定。
自分らは19時に食べる予定。
それまで、読書と調べ物をする事に。
歩数計は8762。
充実した一日だった。