2025/7/25金曜日
3時半に起床し読書と調べ物。
昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争」
平太達一行の到着する一ヶ月程前に水原入りした白虎隊士宗川虎松(16歳)が両親に送った絵を添えた手紙に越後の豊かさが報告されている。
「先便にも申し上げ候通り歩法、剣術の芸は毎日隙もなき位にご座候。その間に地の理、見分のため処々へ罷り出でおり申し候。当十六日(二月)水原と申す処に罷り越し申し候処、城に似てよろしきにて驚き入り申し候。そのうちにも大尽市島、和泉屋様と申して金持の家掛りは驚き入り申し候。門の屋根などは銅にてくるみ置き申し候。この市島と申すは越後にて名高き金持の由にご座候」(『水原町編年史』)
ここに出ている市島邸は豪農の館として今では一般公開されている。
3/20 当地神社仏閣等参拝。
3/21 水原町町役人数人陣屋に招待しご馳走せり。
3/23 水原七人衆を招待し饗応。
3/26 隣接する各陣屋奉行を数人招待し当所への赴任の披露あり。
平太の日記には水原奉行萱野右兵衛の低姿勢ぶりを記している。
今後、水原の人々には多額の資金提供と労力奉仕を求める事になる。
また、寺社参詣には地理を把握する意味もあった。
この地は阿賀野川右岸に広がる豊かな穀倉地帯で七人衆の中でも市島徳次郎、佐藤伊左衛門、佐藤友右衛門らは千町歩地主と称された。
その他、幕府御用の廻船問屋市島次郎吉といった大商人も居た。
〈越後の会津藩領〉
会津藩が多くの領地を越後に持ったのは万延元年(1860)である。
会津藩は安政六年(1859)から蝦夷地の警備と開拓に当たっており、蝦夷地への人員、物資の輸送の為越後に輸送拠点を開く事を幕府に申請。
越後の岩船、蒲原、三島、魚沼の四郡に五万石の領地を得ていた。
その後、藩主容保の京都守護職就任に伴い、元治元年(1864)に23万石から28万石に加増されたが、その際も越後で二万五千石を受領している。
この時の新領地は水原代官所領地の蒲原・岩船郡の領地八千四百石、出雲崎代官所領地の蒲原・三島郡に領地一万三千八百三十五石、桑名藩預かりの蒲原郡領地三千三十石であった。
この為、会津藩の陣屋や代官所は早くから設置され役人も派遣されていた。
最初は当時蒲原郡の小松村(安田町)ついで福岡村(水原町)に移り、魚沼郡は遠隔地の為、小出島(北魚沼郡小出町)に陣屋を置き、慶応三年六月には阿賀野川の支流小阿賀野川と信濃川が交差する物流基地の酒屋村(新潟市)に代官所を移した。
酒屋は古くから船運の舟着場で遊郭もあり賑わっていた。
この時期、会津藩は重要会談をしばしばここ酒屋で開いた。
山国の会津藩はこうした形で越後に海を持っていた。
二 越後の情勢
〈北方政権の夢〉
幕府が恭順した今、新政府の薩長首脳の目標は佐幕派の拠点、会津攻略。
その為には会津藩の補給路である越後を何としても占領しなければならなかった。
その前提となるのは越後諸藩の恭順による会津の孤立化。
会津藩の若きリーダー梶原平馬は和議も胸中にあったが薩長にその気が無いと知ると戦いは必至と判断。
抗戦の準備を進めた。
長岡藩家老河井継之助は表面は中立を示しながら、会津藩に武器商人スネル兄弟を紹介。
彼らから購入したライフル銃や大砲、弾薬などを長岡藩と会津藩で共同でチャーターした蒸気船に積み込み、3/9に横浜港から出港。
太平洋を北上。
箱館経由で新潟に向かっていた。
会津、越後提携の布石は慶応三年九月に始まっていた。
2/2に会津藩酒屋陣屋に会津、長岡、村松、新発田、村上の五藩が集まり会津、越後の連携強化と、新潟港の共同管理が話し合われていた。
↑新発田藩………。
平太の日記にも「河井継之助という家老ありて会津方へ荷担せしは同氏の尽力の賜なり」とある。
〈越後諸藩の動向〉
・高田藩15万石(上越市)三河以来の譜代大名で徳川四天王の一人、榊原家。
鳥羽伏見戦に於ける慶喜逃亡を見て薩長軍に帰順を表明。
・糸魚川藩一万石(糸魚川市) 近隣の高田藩に右ならえで薩長軍に付くと思われた。
・椎谷藩一万石(柏崎市椎谷)藩主堀之美は江戸にいて恭順。
・与板藩二万石(三島郡与板町)近江・彦根藩の支藩。彦根も徳川四天王の一人だがとうに幕府を見限って薩長軍に付いている。
・三根山藩(西蒲原郡巻町)長岡の支藩。当然佐幕派。
・村松藩三万石(中蒲原郡村松町)佐幕派、勤王派が事あるごとに対立。勤王派を処刑し藩論は佐幕。
・新発田藩十万石 藩内に勤王派多し。
・三日市藩一万石(新発田市三日市)会津に味方し列藩同盟に加わる。
・黒川藩一万石(北蒲原郡黒川村)列藩同盟に加わるが兵は少ない。
・村上藩五万石 藩論は2つに分かれたが庄内からの圧力もあり会津支援に。
・長岡藩七万石 会津支援。
・柏崎陣屋 桑名藩の飛び地が柏崎にあり藩主松平定敬が船で来て上陸。
立見鑑三郎や桑名の主戦派が会津支援に向かっていた。
↑海に面していない藩にとって、越後新潟港は武器等の重要な荷揚げ港だったんよ。
更に、ここに上陸されると自国が危うくなる藩も多数。
皆で共同で新潟港を守った。
そこへ、薩長軍が上陸した後は北陸は阿鼻叫喚の様相を呈した。
これから紹介していく。
6時から納豆作り。
納豆用小粒大豆を圧力鍋で蒸している間に夫の朝食作り。

一段落したらシャワーと洗濯。
9時過ぎに自転車でスーパーへ買い物に。
10時半に帰宅後、食材を仕分けたら、再び読書と調べ物。
12時半に夫が帰宅。
一緒に昼ご飯を食べた。
午後も読書と調べ物。
16時から夕食作り。
画像は撮影し忘れた。
酢豚、じゃがいもとキュウリのシーザーサラダ 、なめこの味噌汁。
16時40分に長男と孫達が来訪。
17時半に一緒に食べた。
19時45分に帰って行った。
ウトウトしながらブログ編集。
投稿が終わったら寝ることに。
歩数計は7346。
充実した一日だった。