arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1415日目と畑と平太の戊辰戦争➁

2025/7/24木曜日

3時半に起床し大量のごみ捨てと畑に行く準備。

21日の祝日に捨てるのを忘れたゴミと、家を出た長女のゴミと。

そして、ゴミを捨てたら次は畑に。

先日しゃくとり幼虫が湧いた2022年産の古米を撒いた。

鍬で漉き込んだら汗が噴き出てきた。

ゴーヤとズッキーニを収穫したら6時に帰路に。

 

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水遣りと味醂粕クッキー作り。

やる事やったら9時半から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争

 

この頃の会津藩のリーダーは27歳の梶原平馬

アーネスト・サトウの日記にもしばしば登場。

平馬は周辺に京都以来の外交方である秋月悌次郎、南摩綱紀、小野権之丞、永岡敬次郎(久茂)、広沢富次郎(安任)、柴太一郎らの他に新たにヨーロッパの視察から帰ってきた山川大蔵、横山常守、海老名郡治、田中茂手木の4人を参謀に加えた。

山川大蔵と田中茂手木は幕府外国奉行小出大和守に随行して日露国境交渉のためロシアを訪歴した経歴を持っていた。

また、横山と海老名は徳川昭武随行しパリの万国博覧会に出張。

語学や軍事の研鑽に励んでいたが政変近の急報で帰国。

直ちに戦闘準備に投入された。

特に山川と横山は家老職の出でいずれは若年寄から家老に就任するものと嘱望されていた人物である。

武闘派からは佐川官兵衛が登用された。

部隊編成は

①白虎隊(16-17歳)

②朱雀隊(18-35歳)

③青龍隊(36-49歳)

④玄武隊(50歳以上)

の四隊に分け、身分によって士分、寄合、足軽の三つに分けた。

中核は佐川官兵衛が指揮する朱雀隊。

これに砲兵隊、遊撃隊などを加え約三千で正規兵を編成。

更に農民兵や修験隊、力士隊など、また、他藩からの義勇兵を含めると総兵力は七千に達した。

本書の主人公の平太ら本郷の人々は混合兵団に投入されてゆくが当初は予備兵の扱い。

参戦に意欲的だった平太らを悔しがらせた。

〈和戦両様の構え〉

梶原平馬の戦略は軍の近代化と近隣諸藩との提携による発言力の強化。

兵器の調達は平馬自身が横浜に出向きオランダ二番館の武器商人スネル兄弟を顧問に迎え新潟港から陸揚げする段取りを付けた。

会津藩に海は無いからね。

 

梶原は江戸で仙台、長岡、庄内、米沢などの奥羽越諸藩の外交方と会い支援を要請。奥羽越が一丸となって薩長に対抗する軍事同盟の結成を働きかけた。

同盟結成の折には上野寛永寺輪王寺宮公現法親王を盟主に仰ぐ工作も密かに進められた。

これには旧幕府海軍の榎本武揚も賛同。

輪王寺宮会津に入る際には船を用意することを確約した。

また、大鳥圭介ら旧幕府陸軍の首脳も薩長に屈するのを潔しとせず会津支援の動きを見せ奥羽列藩同盟の構想に弾みをつけた。

 

一 萱野右兵衛隊

〈三十六人〉

平太ら本郷村の人々の血書志願が認められ36人が越後水原奉行萱野右兵衛の番頭隊に編入されたのは2月下旬。

会津藩は3月早々から国境の日光口、越後口、白河口、大平口、米沢口などに派兵。防備を固めていた。

その間、平太らは会津鶴ヶ城三の丸に出掛けては戦闘訓練。

平太の父遠藤虎之助を世話人とする、本郷村の人々の顔ぶれを見ると、虎之助と平太の他に柏村親子、進藤兄弟のように一つの家から2人が出役しているところもあった。

最年長は虎之助、最年少は平太より一つ下の柏村孫作。

後年の事になるが柏村の一族から財界人五島慶太の懐刀と言われた東京急行電鉄専務柏村毅が出て在職当時の昭和32年に「明治戊辰戦役萱野隊記念碑」を寄進している、

36人は会津鶴ヶ城に於いて毎日のように旧幕府歩兵指図役の畠山五郎七郎、砲兵指図役布施七郎、騎兵指図役梅津金弥らから指導を受けた。

「アン・ドウ・トゥルアー・カール、小隊止まれっ!」というフランス語の号令が響き、洋服に身を固めた白虎隊の少年達の行進は特に目を引いた。

同年代の平太は眩しい目でこれを見つめ「負けるもんか」と心に期するものがあった。

 

〈萱野右兵衛隊〉

大正六年に立てられた「萱野隊長之碑」によると萱野隊の構成は、甲士組50人、寄合組60人、大砲組50人、物頭組90人、兵糧方その他50人とあり、この部隊は甲士と呼ぶ会津藩の正規兵と平太らの志願兵の混成兵団だった。

隊長の萱野は天保11年(1840)生まれの29歳。

家禄は五百石。

物頭、町奉行、番頭などを務め、出兵にあたり越後の会津藩預り領六万石の水原奉行と番頭隊長を命ぜられた。

平太達の出兵先は越後水原ー新潟県北蒲原郡水原町と決まった。

父虎之助は寄合組作戦部、平太は隊長付きと決まり、会津城を出発したのは3/12。

 

〈大穀倉地帯〉

3/12 野沢駅福島県耶麻郡西会津町)泊

3/13 津川駅新潟県東蒲原郡津川町)泊

3/14, 阿賀野川を船で下り小松村で休息を取ったのち、百津村で上陸。

一行は行列を整え威風堂々と水原陣屋に入った。

そして、到着早々、御蔵入役所、郡役所、御用部屋、御勘定所、武具役所、目付方などの諸役所を設置。

人員を配備した。

陣屋は現在の水原町外城町、旧水原村と外城村の境界に置かれた。

↑水原と書いて「すいばら」と読むそうだ。

隊長の萱野右兵衛氏は水原奉行として地域の人々と良い関係を構築しようと努力していた様子が平太によって書き留められている。

会津藩の領地として越後にある水原は本拠地の会津若松から92kmと遠い。

良い関係を作って置かないと戦いになった時困るのは自分達。

余り知られていないが、ここ越後でも壮絶な戦いがあちこちで繰り広げられ家々も焼かれ、戦死者も多数。

これから紹介していこうと思う。

 

11時にハロワから帰宅した夫に外食を誘われた。

それは嬉しい。

長女に教えてもらった居酒屋でランチ営業もしているゴチやさんへ。

バラエティ丼にした。

久しぶりに食べたお刺身が美味しかった。

 

14時半に帰宅後、夕食の下拵え。

17時過ぎに長男と孫達が来訪。

今日は家で一緒に食べた。

キュウリの浅漬け、ゴーヤ炒め、茄子とズッキーニとソーセージの焼き浸し、梅奴、ウォッカ梅酒ロック。

意外にも梅奴が一番人気だった。

上の孫はゴーヤが無理だったが下の孫は普通に食べていた。

長男達は20時に帰って行った。

静かになった自室で読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は11462。

充実した一日だった。