2025/7/23水曜日
4時に起床し夫の朝食と昼食の下拵え。
昨日、クローゼットの土鍋付近のしゃくとり幼虫の駆除をしたのに、まだ、虫がそこここに。
朝っぱらからクローゼットの大清掃。
長女も次男も居なくて良かった。
掃除機使いまくったからね。
ついでに、醤油仕込瓶のチェック。
こちらはカビは生えてなかった。
が、チェックついでに撹拌。
本当なら、撹拌も必要ないけれど、自分は悪魔君若しくは指導霊にストーカーされているから定期的にチェックしないとだ。
仕事してないからいくらでも付き合うで。
味噌は結局、冷蔵庫保管にする事に。
長女のお弁当作りが無くなったのでスペースがある。
しかも、今は次男が研修中。
更に余剰スペースが。
嫁の出産後の床上げが終わったら長男一家のご飯作りも終わるかも。
そしたら、更にスペースが出来る。
今は常温保存の梅干しも全て冷蔵庫にイン出来る。
味噌も梅干しもわいのお宝食材。
わいにとっては金銀ダイヤモンドより価値のある食べ物。
大事にしないと。
9時に長男宅へ。
国の政策の令和6年度物価高騰対応重点支援地方創生臨時交付金に関して長男宅は住民税非課税世帯にも拘らず通知が来なかった。
そして、さいたま市の申請期限は5/31。
通知が来ないのだから、このような救済措置がある事も知らず申請期限が過ぎた。
国は、各自治体に、令和6年12月13日時点で資格を満たしていれば支給するよう通達している。


長男一家は住民税非課税世帯にも拘らず通知が来なく、結果、支給されていない。
この制度に気づいた長男がさいたま市に問い合わせるも申請期限が切れたの一点張り。
いやいや、その前に資格を満たしている長男宅に何故給付金確認書を送らない?
前住所の四日市市は口座に直接振り込みしてるそう。
国は低所得世帯に迅速な対応を、前倒しで支給しても構わない、と通達している。
国の委託で自治体が給付を行う。
が、その自治体が給付しない。
しかも、電話口で説明するのはコールセンターの派遣社員(笑)
上司の市の職員に繋ごうとしない。
これじゃあ、貰える人も貰えない。
内閣府の通達によると、国の申請期限は7/31。
市が給付してくれないから国に直接申請したいのだが。
10時半に浦和区役所に到着。
ジジババと孫達は区役所前の段床の水遊び場で遊ぶ事に。
そこへ、長男から電話。
職員は申請期限切れの一点張りだそう。
その前に、対象世帯なのに給付確認書を送って来ないミスは?
夫が助っ人で向かった。
自分は孫達に持参したサンドイッチを食べさせながら待機。
上の孫が「パパは何処?」と何度も聞いてくる。
サンドイッチを食べ終わったら、役所の中で交渉中の長男を゙探しに。
ベビーカーを押して、2階に行き探し回るも見つからず。
電話を掛けても長男にも夫にも繋がらない。
一階の浦和レッズコーナーで遊びながら待つ事に。
11時半に合流。
帰路に。
12時半に長男宅に送り届け帰宅後、夫と昼食。
夫は朝自分が作ったサンドイッチ。
自分は納豆ご飯と残り物の中華スープメインでお腹を満たした。
そのまま、夕食作り。
まずは、グラタン作り。
朝ヨーグルトメーカーに材料をセットしたサワークリームが完成。
それを利用した。
次に、お米をセット。
そして、ブロッコリーの茎のガレット、サラダ作り。

14時半に長男と孫達が再訪。
夕食は16時に完成。
そこから、自分はローストしたナッツをツマミにウォッカ梅酒ロックタイム。
孫達も一緒にナッツを食べた。
16時半に帰って行った。
夫も同伴。
自分はその後、ブログ編集に入ったが寝落ち。
18時50分に夫に起こされた(笑)
19時15分から夕食。
グラタン、トマトサラダ、ブロッコリーの茎のガレット、ミズの昆布浸し、ご飯、中華スープ。
ブロッコリーの茎のガレットがめっちゃ美味しかった。
ブロッコリーは実家の母から。
何でも雨が全然降らないので作物が固いそう。
一緒に送られたササゲ豆もそうだが前日から水に漬けてから調理するよう言われた。
夕食の後片付けを済ませたら営業終了。
漸く、読書と調べ物。
昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」
8月の大水害に同愛社は本所、浅草、下谷、深川の四区に水災臨時救療所多数を設け医師達は舟に乗ったり濁水の中を腰まで浸かったりして避難所に行き診療。
診療回数587回、患者数1万3千838名という報告が本社に寄せられた。
明治45年4月27日、凌雲の喜寿を祝う集いが上野の精養軒で催された。
男爵の渋沢栄一と石黒忠悳が祝辞を述べ、凌雲は謝辞を口にしたあと妻久をはじめ家族を傍らに立たせ揃って頭を深く下げた。
その年の7/30,明治天皇が崩御。
元号が明治から大正に。
その頃から凌雲は体に異常を感じ微熱が続くように。
聴診器を自ら胸にあててみた彼は肺臓に疾患を認めた。
次男の静は東京帝国大学医学部を卒業して医師となり凌雲の仕事を手伝っていた。
凌雲は肺結核が進行しているのを自覚。
大正5年に入ると同愛社の例会も欠席が多くなり診療も静に任せるようになった。
凌雲は病床に臥したままになり10/12.、息を引き取った。81歳だった。
次はこの本。

星亮一著「平太の戊辰戦争」
〈鳥羽・伏見の戦い〉
幕府と薩長の対立が決定的になったのは慶応四年(1868)正月三日の事であった。
鳥羽伏見の戦いの勃発である。
慶応三年十月、土佐藩士後藤象二郎、福岡孝悌の大政奉還の建白書に乗った将軍徳川慶喜が会津藩主松平容保を伴って幕府正規軍が調練して待機していた大阪城に京都から移ったのは12月暮れ。
江戸で薩摩藩による騒擾作戦が展開され、幕府方は煽られまくった。
慶喜が認めた討薩の表を懐中に入れた幕府大目付の滝川具挙が使者として御所を目指す途中、会津藩と警備を交代した薩摩藩兵が「朝廷の許可なく入る事はまかりならん」と通せんぼ。
滝川が押し入ろうとしたところ、薩摩兵が発砲。
「徳川内府上奏の為上京する旨にて、遂に申の刻(午後五時)に至り、薩兵より発砲す。これぞ戊辰戦乱の第一砲声なりき」ー『会津戊辰戦史』
↑おおかたどの史書も薩摩藩がおっぱじめた、と書いている。
幕府軍のもう一方の陸軍奉行竹中重固率いる幕府軍は伏見街道にいた。
この中に林権助率いる会津大砲隊が。
鳥羽街道からの砲声を聞くや、通せんぼしていた長州藩に向けて砲撃を命じた。
しかし、時を置かず「敵より大砲を我に向って発射す。我が隊もこれに応じ、大小砲を発して応戦す。彼我の距離、僅かに数間、隊長、奮って槍を入れるべきの号令を下す」乱戦となった(『会津藩大砲隊戊辰戦記』)
この戦いに於ける会津藩の損害は甚大。
組頭の中沢はじめ高橋金兵衛、横山源蔵ら19名が戦死。
隊長林権助、組頭佐藤織之進、小原宇右衛門ら24人が重軽傷。
林ら4名は後日死亡。
林の部隊132人中43名が死傷。装備の大砲を全て失った。
〈幕府瓦解〉
この鳥羽伏見の戦いでの敗戦後、幕府本陣の大阪城では慶喜が「事すでにここに至る。例え千騎戦歿して一騎となるといえども退くべからす。汝らよろしく奮発し力を尽くすべし。もしこの地敗れるとも関東あり。関東敗れても水戸あり」と徹底抗戦を訴える演説をした慶喜は松平容保らと共に大阪城から逃亡。
艦長の榎本武揚が作戦会議で不在の開陽丸に乗船。
副長の沢太郎左衛門に江戸へ向けての出航を命じた。
大阪城に取り残された会津藩兵の多くは紀州に逃れ和歌山に集まった1858人の藩兵は89艘の船に分乗し由良の港に向かったという記録が残っている。
更に由良でも船を調達し江戸に戻った。
一足早く江戸に戻った慶喜は恭順の姿勢を示すだけで保身に走った。
会津藩は朝敵の汚名を一手に引き受けたまま帰郷。
〈国難に立ち向かう若きリーダーの登場〉
会津追悼令が発せられる中、松平容保は2/15,江戸和田蔵藩邸の馬場に全将兵を集め「東帰を全隊に告げざりしは余、大いにこれを慚づ」と謝罪。
家督を養子の喜徳に譲り引退すると表明。
薩長軍は会津藩に対し開城、城領地没収の断固たる処分方針を示し、容保の斬首をも要求。
会津藩に恭順などあり得なかった。
↑薩長軍は何故に慶喜ではなく容保の首を要求?
会津藩を煽ってただ戦争したかっただけやろ。
が、まだ14歳である為実権はあくまで容保が握った。
↑同じく明治天皇も14歳であったので実権は岩倉具視らが握ったのであったーーー。
勅令出し放題よ。
今日はここまで。
歩数計は8276。
充実した一日だった。