arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1411日目と畑と高松凌雲㉖

2025/7/20日曜日

5時に起床し、梅の天日干し2日目。

5時45分に畑へ。

フェンネルを初収穫。

良い匂いに包まれ7時に帰路に。

 

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間に、ベランダガーデニングの水遣りと今夕の長女の送別会の下拵え。

9時45分に投票へ。

投票所では10名程並んでいた。

10時半に帰宅後、読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」

 

徳川昭武の渡欧に随行した渋沢篤太夫江戸開城後、昭武と帰国。
明治新政府に仕え大蔵省三等出仕となった。
しかし、財政改革の主張が入れられず退官。
栄一と改名し実業界に踏み出した。
第一国立銀行頭取、商法会議所、東京商工会のそれぞれの会頭に推され、大阪紡績会社も興し実業界の指導者の一人になっていた。
同愛社の事を知った渋沢は寄金を申出、

凌雲は渋沢に慈恵社員幹事になる事を要請。

快諾された。
また、松平太郎にも幹事への就任を依頼。
明治18年2月中旬、故郷の古飯村から父の訃報が。

80歳で病没した。
凌雲は26年ぶりに故郷へ帰郷。
父の墓参をした。
水戸家との親密な関係は続き、徳川昭武をはじめ家族の往診も行い、昭武は同愛社の事業に賛意を表し慈恵社員に加入。
六月に入り、静岡から東京に移住した旧静岡藩徳川家達から使いの者が。
慶喜の12歳の四男厚と慶喜が相次いで麻疹に感染。
往診して欲しいとの事だった。
助手の村井に医院を任せ横浜から汽船に乗り清水港へ。
静岡の紺屋町の元代官屋敷に赴き、2人を問診。

すると、既に平癒の段階だった。
快癒を見届けたあと、帰京。

同愛社の事業は順調に発展。
明治19年末には創設以来施療した患者は12952人。
寄附金は総額13182円に。
この金は慈恵社員四百余名が提供。
徳川昭武はじめ大隈重信勝安芳伊達宗城陸奥宗光安田善次郎、益田孝、福地源一郎、岸田吟香らで高倉泰子はじめ女官12名、フランス人ギョルシュ、ボアソナードらも加入していた。
また、東京日日、郵便報知、朝野、毎日、時事新報の各新聞社から計412円56銭9厘9毛の寄附も。
妻の久は多産で三男五女を産んだ。次女、三女、次男が夭折。5人の子の父になっていた。
明治24年5月初旬、千駄ヶ谷の屋敷に住む徳川宗家の家達から使いの者が。
慶喜の美賀子夫人の往診を頼まれた。
地元の医師に乳癌と診断され慶喜と家達で打ち合わせが繰り返され凌雲に手術を依頼し、幕末に慶喜の侍医であった柏原学而に補佐を頼む事に。
凌雲はこれまで癌の手術を多く手掛け乳癌の摘出も行っていたので直ちに承諾。

柏原とも打ち合わせた。
凌雲は手術具をはじめ治療具と薬品を整え三人の助手に持たせ新橋駅で柏原と落ち合った。
鉄道は前々年の7月に新橋ー神戸間が全通。
汽車に乗って静岡に行き慶喜の屋敷に入った。
5/19に手術。
慶喜に手術の結果を報告。
美賀子夫人は3年後に再発。治療を受けるのに便利な東京千駄ヶ谷徳川家達公の邸に移って療養したものの、肺水腫を発し7/9に逝去。

享年60.歳だった。
凌雲は同愛社を更に発展させる為に社長を退任。
幹事達は後任に子爵榎本武揚を挙げた。
榎本は薩、長閥の支配する政府部内で、豊かな西欧の知識に対する高い評価を得て逓信、農商務、文部、外務の各大臣を歴任。2年前には天皇の諮問機関である枢密院の顧問官に任ぜられていた。

同愛社社長として余りにも高位にある人物に思えたが、創設以来、総会には必ず来賓として出席し、慈恵社員にもなって基金の寄金の勧誘にも積極的に勤めてくれている。
榎本は凌雲が社長に留まるのが望ましいと辞退したが、同愛社を一層社会的に認めて貰うためには榎本の就任が必要と説き、榎本は受諾した。

↑今日はここまで。

 

11時半に長男から今日はジジババんち家でお昼を食べたいとだった。

冷や麦を茹でた。

自分は納豆と味噌汁メインでお腹を満たした。

後片付けを済ませたら、そのまま夕食の下拵え。

まずは、じゃがいもとフェンネルのポタージュをミキサーを使って作成。

サワークリームを混ぜ、生春巻き用の海老やアサリの茹で汁も投入した。

次に、生春巻きに入れる野菜達を茹でた。

冷ましている間にタレ作り。

午前中のうち鶏手羽元をチューリップ型にし、中華麹に漬け込んでおいた。

それを天板に並べオーブンへ。

16時からは生春巻き作り。

24個を作成した。

 

17時半から送別会。

生春巻き、チューリップ、茄子とキュウリの漬物は実家の母から送られてきた。

長男一家は20時に帰って行った。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は10921。

充実した一日だった。