2025/7/19土曜日
4時に起床。
4時45分に畑へ。
昨日の強風でトウモロコシが倒伏。
と言うか半分辺りからポッキリ折れて落ちていた。
まだ小さいヤングコーン3本は回収した。

雨が降った後なので雑草の量が半端ない。
雑草を抜いていると体にビリビリと電磁波を知覚。
指向性浣腸エネルギー兵器で照射してきた。
ワイに畑で作業して欲しくないからて、軍事兵器使うんよ。
作業を止めないとウンコ漏らさせるで!と言うメッセージよ。
無視して草取りしていると、ウンコを出口まで動かしてきた。
めっちゃウンコに固執するタイプよ。
7時に畑を後に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
そして、収穫したヤングコーンを剥いてみた。

思ったより粒が着いていた。
夜、焼いて食べる事に。
更に、一仕事。
梅雨が明けたので、今日から梅干しの天日干し。

ちょっと目を離した隙に悪魔君が梅干し1個を下に落とした。
なので、赤紫蘇で胸壁を作り、対策。
他に、ザルにも。


ベランダは勿論、部屋の中まで梅の良い匂いに包まれた。
パン生地も捏ねて、一次発酵。
10時から読書と調べ物。
昨日に引き続き吉村昭著「夜明けの雷鳴〜高松凌雲」
凌雲は凄惨な箱館病院での傷病者の治療に従事した蓮沼が貧民救済の仕事に参画したいと考えたのも当然であると思い幹事達の諒承を得て発起人の一人とした。
これで発起人は14名となった。
規則について熱心に討議。
貧民救済と言っても、医療費は同盟員各自の持ち出し。
持続させる為には無理をしてはならないという凌雲の意見が尊重された。
まず、設立の趣旨が綴られ、治療費を払えぬ者を救済するのは医師の義務。
もとより売名の意志は無い。
貧しい患者にも富貴の患者と同じように接し、診療も処方も決して粗略にはしない。しかし、診療を請う者が多い場合は同盟員も経済的に限界があるので全てを救済する事は出来ない。
その為、暫くの間は地区を定め患者数も限定する。
将来は同盟員達が資金を蓄積し事業を発展させ患者が多くても十分に、こなせるようにする。
この前提のもとに
◯施療する貧民患者はこの同盟に参加している医師の住居区内、また近くに住む者に限る。
◯医師の毎月施療する患者は暫くの間15名程度とする。
◯患者の薬価は一日金七銭と定める。
という規則をはじめ十箇条の定款を定めた。
この組織を同愛社と名付け本社を凌雲の鶯渓医院に置き、14名の発起人を社員としてそれらの医師の自宅を分社とすることも決定した。
同愛社の創立を東京都に届け出て認可を受ける必要があった。
社員14名の連署で東京府知事楠本正隆宛に提出。
程なく認可の通知が。
3/3, 社員を招集し貧民救済を行う事を議決。
各社員の医師のの家に同愛社社員という門標を掲げ毎月1円の社費を出し駅逓局(郵便局)に預金する事などを決めた。
同愛社の設立は新聞にも報じられ、その年の末までに社則に従って施療した患者は437名。
翌13年には837名。
14年には1097名と年を追うごとに増加。
その間、社員峯千尋の施療した肺結核患者八木彦太郎が死の直前、死後の解剖を希望。
大学医学部助教授桜井郁次郎の執刀により解剖。
社員一同剖見した。
また、岸浪敬司の扱った患者雨田磯吉も死後の解剖を望んだ。
海軍大医監高木兼寛が執刀した。
地道な同愛社の活動に好意を寄せる者が増え進んで協力をする著名人も多くなって凌雲はこれらの者達と親しくなった。
その中に東京日日新聞社主筆兼社長福地源一郎(桜痴)、四十四銀行頭取熊谷武五郎らが居て、明治十四年、福地の意見を入れて社則の改正を行った。
改正の主なものは、社員を救療社員、慈恵社員に分けたこと。
救療社員は貧しい患者の診療にあたる医師。
慈恵社員は同愛社に寄附をする篤志家。
この規則はこれまで自腹を切って施療に当たっていた医師達にとって歓迎すべきものだった。
凌雲はパリの「神の館」所属の貧民病院が富裕な人達からの寄付で維持されている事が日本でも実現するのだ、と思った。
凌雲は同愛社の趣旨書を作って各方面に配布。
共鳴者は多く、海軍中将榎本武揚、松本順陸軍軍医総監らも慈恵社員に。
翌十五年、3/18, 改正規則に基づく総会が東両国の中村楼で盛大に催された。
来賓は榎本、松本をはじめ、内務省衛生局長長与専斎ら70余名。
凌雲は同愛社設立以来の経過を報告。
改正規則に基づく慈恵社員の更なる加入を要請した。
来賓の東京府知事松田道之は同愛社の事業を美挙だと讃え、福地が規則改定の趣旨説明を行い、一同乾杯した。
その席に榎本に誘われ榎本軍の副総裁だった松平太郎が姿を見せ凌雲は感激して話し合った。
旧幕府時代、陸軍奉行並だった松平太郎は東京の獄に繋がれ赦免された後、一切の世事を絶って日を過ごしていた。
幕臣であった彼は明治時代に入っても旧幕臣としてのみ生き、官に仕えることを頑なに拒否していると言う。
凌雲はそこに一人の男の生き方を見、深い共感を覚えた。
その年の8月、東京府庁から金杯一個が贈られ、翌16年9月に明治天皇より金千円が下賜された。
これにより同愛社は社会的に認められた事になり凌雲達は寄附を各方面に求め支援者は増した。
その中に渋沢栄一も居た。
↑今日はここまで。
11時半から昼食の用意。
夫は希望により熱いラーメン。
自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後も読書。
15時から夕食作り。

三色丼。
具は卵、ひき肉、スイスチャード、ささげ、茄子などを用意。
それに、フライパンで焼いたヤングコーンも。
上の孫がむしゃむしゃ食べていた。
皆は17時過ぎから着席して食べ始めた。
自分はまだパン作りの仕事が。
今回は、小豆・棗入りと海老粉・チーズ入りのパンを焼く事に。

孫達は焼きたてのアッツアツのパンを次々と食べていた。
長男達は20時に帰って行った。
天日干しの梅は自室に回収。
いつ雨が降るかわからないし、いたずら・嫌がらせされても困るから。
読書と調べ物をしてから寝ることに。
歩数計は13157。
充実した一日だった。