2025/7/17木曜日
4時半に起床し皆の朝食作り。
5時12分に畑へ。
連日の雨で絶好の草取り日和。

だというのに、地域の危険人物認定のわいに長時間畑で作業して欲しくないのか、指向性浣腸エネルギーを駆使しわいのウンコを動かしてきた。
途中で、目的がわかった。
わいが、ビーツの種取り用の株を引っこ抜いたからだと。
去年はこれを畑に忘れ、変な物を雨に紛れて撒かれ種が採取出来なかった。
が、今年はウンコを我慢しながらキチンとリュックに収納。
しっかり家に持ち帰った。
モンサントのまわし者かよ。
帰宅後、シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水遣りとオートミールココア棗クッキー作り。

9時半から読書と調べ物。
昨日に引き続き吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」
東京に護送され禁獄された榎本らに対し反逆の罪は許し難いとして極刑に処すべしという声が高まった。
しかし、北海道開拓使長官代理になっていた黒田は早くから榎本ら有為な人材を失う事は国家の損失で死一等を減ずるべきだ、と主張。
岩倉具視右大臣や三条実美太政大臣に直訴状を提出したりしていた。
条約改正の為、岩倉、木戸、大久保利通、伊藤博文が海外に派遣される時、黒田は彼らに、アメリカの南北戦争で勝利をおさめた北軍が南軍将兵をいち早く放免した事を口にし、榎本らを拘禁しているのは野蛮国だというそしりを受ける、と述べた。
この言葉は欧米先進国に倣おうとしていた岩倉達に衝撃を与え、それが榎本らの赦免に繋がったのだと言う。
正月下旬、箱館病院の医員だった赤城信一が凌雲を訪ねてきた。
北海道に設置された開拓使の御用掛に内定したそうだ。
2/20, 赤城は正装して開拓使東京出張所に赴き御用掛の辞令を受けた。
月給50円で札幌詰を命じられた。
3月下旬、新聞に「榎本釜次郎出仕」の見出しの記事を見出した。
「今般特例ヲ以テ親類預ヲ免ゼラレ、開拓使四等出仕仰付ラレタ」とあった。
明治政府は北海道開拓の為明治2年7月8日に開拓使を設置。
開拓使長官代理の黒田が実質上の責任者として積極的に開拓事業を推し進めていた。
四等出仕とは次官に次ぐ判官任命を意味し、オランダ留学の経験と旧幕府海軍副総裁でもあった榎本の豊かな識見を高く評価した黒田が赦免と同時に高官に推挙したのは明らかである。
凌雲は小川町に住む榎本の屋敷に赴いた。
凌雲は榎本が無事に赦免され開拓使四等出仕に任ぜられた祝の言葉を述べた。
榎本は箱館病院頭取として尽力してくれた事に感謝している、と言った。
凌雲は「箱館の戦の折、私は講和なされるよう仲介を致しましたがそれは貴殿の御心に反したものと存じます」と言い更に「官軍の兵が病気に乱入し、入院の傷病者を殺すという険悪な空気になりましたところ、一将校が大いに私達に同情し危機を脱する事が出来ました」
凌雲は官軍の村橋直樹と池田次郎兵衛が病院の為に尽力してくれた事を具体的に説明。
「その為、彼らの依頼を拒む事が出来ず、講和の書状をお届けした次第です。まず、この事をお詫びいたします」と続け手を付き頭を深く下げた。
榎本は「顔をお上げ下さい、顔を………」と言い凌雲に「私は貴殿に感謝している。官軍が病院をどのように扱ったか詳細を耳にし、その為に降伏勧告の書状を貴殿が書いた事情も十分に理解していた。いずれにしろ、戦を停止出来たのは貴殿の仲介の賜で感謝のほかありません」と言った。
この言葉に凌雲は長い間悶々として悩んできた気持が一時に晴れるのを感じ眼を潤ませた。
その後、榎本は札幌の開拓使本庁に赴任。黒田に凌雲の事を話したらしく開拓使東京出張所から所員が来て開拓使に出仕するよう申入れた。
また、福山県、土佐県の各知事からも雇い入れたい旨の申入れが。
凌雲はこれらを尽く拒絶。
彼は官から禄を手にする気は無く、市井の一医師として自由に生きる事を固く心に決めていた。
診療を請う患者は増し、待合室に入りきれぬ者が外で待つように。
8/29に米沢町1丁目の元桑名藩主松平定敬の下屋敷を借り、転居した。
彼は一室を手術専用室にして村井を助手に手術も盛んに行った。
医書生を住み込ませて診療を手伝わせ看護夫も雇った。
彼は37歳になっていた。
11/9,太陰暦を廃し太陽暦採用が布告され12/3が明治6年1月1日と定められた。
↑いきなり正月来たけど、みんな大丈夫だったんか?
太陰暦は旧暦、太陽暦は新暦と称された。
人々は月の満ち欠けによる旧暦の廃止に戸惑い、「十五夜も圓(まる)くはならぬ新暦の有明の月をまちいつる哉」という和歌や、「盆は新旧、亡者はまごまごし」という川柳が新聞に載ったりした。
新橋、横浜間の鉄道が開通。
明治六年が明けた。
正月下旬に寿が生れそれを故郷の父与吉に伝えた。
与吉は68歳で健在。
12/9、神田東福田町から出火した火が神田、日本橋の五千戸を焼く大火に。
凌雲の借りていた屋敷も類焼。
火が迫ってくる前に、治療器具、薬品類をはじめ家財を書生、看護夫、下男らが大八車その他で運び出し無事てあった。
2日後には適当な家を見出し浅草区向柳原町1丁目39番地に転居。
それを父に伝えると返書が来て、そこには末弟の六郎が故郷へ戻っていることが記されていた。
生きていて良かった、と凌雲は思った。
明治七年正月、榎本武揚(釜次郎)が海軍中将に任じられロシア全権行使を命じられた、と新聞に載った。
黒田清隆も陸軍中将になり、参議兼開拓使長官に栄進。
凌雲が自宅で西洋医学を教えていた塾生の中からは凌雲の医院で働く者も居て多くの患者の世話をした。
凌雲は手術もしばしば行い、助手の医学生達に手術の実技を教授。
彼はパリの医学校兼病院だった「神の館」に勉学した折の事が頭から離れなかった。
「神の館」はフランス最高の医療機関であったが、同時に医師に厳しく精神教育も行い、医師は、人の生命を救う尊い職業であり、清らかな人格の持ち主であらねばならない、と説く。
その為には患者に貧富の別なく接し、最良の治療を施す事を心掛ける。
それを「神の館」では積極的に実行し貧しい者に対し無料診療を行っていた。
凌雲もその精神に基づき貧しい者からは診療代を一切取らぬようにしていた。
↑フランスてなんなん?
めっちゃ日本の有識者に影響与えてる。
12時に夫にラーメンを調理。
自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
14時半から夕食を調理。
16:45に長男宅へ牛すじストロガノフ、ゴーヤキュウリツナ塩昆布サラダ、スイカ&キウイ寒天ゼリー、ビーツスープを届けると既に納豆ご飯で夕食を食べ始めていた。
デザートのスイカゼリーを喜んで食べてくれたのは嬉しかった。
孫達と遊び、赤ちゃんを抱っこしたら17:45に帰路に。
夫は19時に夕食を希望。
夕食後は読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は6566。
充実した一日だった。