arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1406日目と赤ちゃん初抱っこと高松凌雲㉑

2025/7/15火曜日

5時に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず、夫の昼食の焼きそば作り。

雨が降ったり止んだりなので畑はお休み。

8:45に長男宅へ。

朝のお弁当の残りと乾いた洗濯物をお届け。

そして、先日生まれた3人目の孫を抱っこ。

写真や動画ではデカいと思っていたが、実際抱っこすると軽い。

そして、小さい。

上の孫達に比べ鳴き声も小さい。

自分が抱っこしている間、すっとお目々を開いてガン見された。

そして、ハイチェアに下ろし上の孫達とブロックで遊んでいる間も手足をバタバタさせて元気に動いていた。

9時半に買い物へ。

行きも帰りも土砂降りの雨に。

想定内なので、カッパ持参。

10時過ぎに帰宅するとテニスに行った夫も中止になったようで帰宅していた。

食材を゙冷蔵庫に仕分けしたらシャワー。

さっぱりしたら、読書と調べ物。

 

 

昨日に引き続き吉村昭著「夜明けの雷鳴〜高松凌雲」

 


徳川昭武は家臣達と協議し水戸でアワビ漁の潜水に熟達した者達を呼び寄せこれらの巨木を取り除く事に。
直ちに使者が函館に派遣され書状が水戸に急送された。
それらの手筈を終えた昭武は一旦水戸に戻る事に。
8/5苫前を離れ凌雲も随行
8/25に函館に戻り翌日アメリカ汽船に乗り8/29に横浜へ到着。
小石川の水戸藩邸に戻った数日後任務を解かれ静岡藩邸へ。
彼には為さねばならぬ事があった。
一橋家に抱えられた凌雲は主君徳川慶喜が将軍になると同時に幕府の医官に。

パリ滞在中に幕府は消滅。

慶喜は恭順謹慎して静岡に閉居の身に。

パリから帰国した彼は慶喜の元に行くよう命じられたが榎本艦隊に投じ箱館戦争の渦中に巻き込まれた。

謂わば命令に違反したわけで静岡に行って慶喜に抗命した事を詫び許されれば慶喜に仕えたかった。
東京を離れ東海道を静岡に向かい、慶喜が住んでいる紺屋町の元代官屋敷に赴き来意を告げた。
奥座敷に通され暫くすると慶喜が現れた。
凌雲は平伏し手を突いたまま、命令に背き榎本艦隊に投じた罪を謝罪した。
慶喜からは「そのことはもうよい。箱館では苦労したと聞いている。無事であって何よりだ」と声を掛けられた。
元代官屋敷を出た後は浅間神社前の元新宮兵部の屋敷に向かった。
そこには静岡藩徳川家達が住んでいて静岡に転居した兄古屋佐久左衛門の家族の住所を知ろうと思ったのである。
応接に出た藩士は古屋家の者が大工町の借家に住んでいる事を教えてくれた。
彼は粗末な家の入口の戸を開けてみると、そこに佐久左衛門の養母と妻せいが座っているのが見えた。
凌雲の姿を認めると彼女たちとせいの妹の久が小走りに出てきた。
仏壇に兄の遺髪と砲弾の破片が供えられていた。
彼は兄が重傷を負い死に至るまでの経過を彼女達に説明。
更に、兄が浄玄寺に葬られ徳川昭武随行して函館に赴いた際、墓に詣でた事も告げた。
養父は既に亡く、凌雲は生活の事について質した。
せいは手持ちの金がまだ残っていて切り詰めながら暮らしている、と答えた。
兄には9歳と6歳の2人の遺児も居る。

凌雲は兄の家族の面倒を見なければならぬと思った。
東京の静岡藩邸に戻った彼は旧主君である慶喜に仕えたい旨の願書を藩に提出。
自分が医師として生活出来るようになったのは慶喜に召し抱えられたからで、慶喜の側近として終生奉公したいと思った。

公用人はすぐ凌雲の願書を静岡に送った。
その翌日、藩邸に衝鋒隊改役をしていた梶原雄之助が凌雲を尋ねてきた。
梶原は以前は藤吉と言い江戸の火消しの小頭をしていたが幕兵となり、官軍が江戸に入る前に幕兵500名を扇動し江戸を脱出。
佐久左衛門はこれを追い鎮撫し幕兵600を加え衝鋒隊を組織し会津で転戦後、榎本軍に加わり有力な一隊として奮戦。
凌雲は彼の語る兄の負傷時の事を黙って聞いた。
五稜郭が官軍によって包囲され、兄は、牛を殺して得た牛肉を鍋で煮させて、それを肴に他の隊長や隊員達と酒を飲んでいた。そこに軍艦から放たれた砲弾が炸裂。
↑悪魔が牛鍋と酒に嫉妬した。

 

 

佐久左衛門の腰に砲弾の破片が食い込み、手の甲が飛び失せた。
梶原は弟の六郎や隊員と佐久左衛門を戸板に載せて五稜郭を脱出。
湯川に運んだ。
かなりの重傷で医師は死は免れないであろうと梶原に告げた。
その地で梶原は降伏人として官軍に拘束され箱館の寺院に拘留された。
その後、佐久左衛門の死を知ったと言う。
梶原は自分が隊長の代わりに死ねば良かったと肩を震わせて泣いた。
凌雲は彼が泣き止むのを待ち実弟の六郎の消息を尋ねた。
隊長を湯川に運んだ時には居たけれどその後姿を見ていないそうだ。

凌雲が旧主君の慶喜に仕えるには所属する静岡藩の認許を得なければならない。

その返信は一ヶ月後に漸く到着。
水戸藩から凌雲を雇い入れたいという強い要望があり、それを慶喜に伝えたところ、自分への忠誠心をもって水戸藩に仕えて欲しい。

東京の水戸藩邸には慶喜の母君である有栖川宮家の王女だった貞芳院が居て、慶喜は凌雲が貞芳院をはじめ水戸家一族の為に医師として尽くしてくれる事を強く望んでいる、と言う。
凌雲は水戸藩に仕える事に。
これにより、彼は静岡藩藩医の職を解かれ小石川の水戸藩邸に行き雇い入れに応じる事に。
水戸藩では既に凌雲の処遇を決めており、籾四十俵と毎年七月と十二月に金五十円を下賜する旨を記した書面を渡した。
また、藩は、凌雲を拘束する事をせず、必要があった折に藩邸に来て医療行為をすれば良い、と指示した。
水戸藩に籍を置きながら自由の身になった彼は一人の医師として生きてゆこうと思った。
彼は下賜された籾を換金し、借家を物色し、浅草新片町に家賃三円の家を見出し、そこに開業医の看板を掲げた。
次に、静岡から兄佐久左衛門一家を呼び寄せ凌雲宅に住まわせた。
転居の荷物も一応片付いた頃、兄の未亡人であるせいが、妹の久を嫁に貰って頂くわけには参りませんでしょうか、と躊躇いがちに言った。
凌雲はヨーロッパに赴く前、古屋家に寄寓していた頃、久に関心を寄せていた。
先日久しぶりに再会した折、驚くほど美しくなっているのを知り是非とも嫁に、と考えていた。

↑凌雲先生、偉いな。

兄の古谷作左衛門一家の面倒を見るとか。

でも、兄の佐久左衛門も乞食同然と身なりで上京してきた弟を食べさせ、英語を学ばせ、自身も蘭学や英語を学び、最後は武将として戦い果てた。

古屋佐久左衛門の一生も凄いと思う。

中身が濃い。

享年37歳。

若すぎるな。

 

12時半に納豆ご飯とお味噌汁メインで昨夜以来の食事。

 

夫は11時に焼きそばを食べている。

 

午後も読書と調べ物。

 

16時からクッキー&夕食作り。

棗とアーモンド入オートミールクッキー、鰹の塩タタキ、ゴーヤと人参の炒め物、ローストナッツ、三分米ご飯。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

歩数計は6064。

充実した一日だった。