arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1405日目と孫守りと高松凌雲⑳

2925/7/14月曜日

4時半に起床し皆の朝食と長女のお弁当作り。

雨予報なので洗濯は薄手の物のみ。

6:50に長女を駅まで送迎。

帰宅後、読書と調べ物。

昨日に引き続き吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」

 


2/15、静岡藩から身柄引き取りの使者が来た。
凌雲は袴を付け大小刀を帯び医療器具を納めた包を持って階下に。
まず、小川町の静岡藩邸に赴き、藩の公用人に赦免の挨拶。
その夜は藩邸に泊まり、体を清め、久しぶりに魚や豆腐を口に。
翌日、公用人に招かれ、水戸藩徳川昭武随行し北海道と改称された蝦夷地に赴くよう命令が。
昭武は凌雲が帰国後もフランスのバリに留まり勉学に励んでいたが、水戸藩主徳川義篤の死により帰国命令が。

明治元年十一月(笑)に帰国し水戸藩主となっていた。
水戸の前々藩主で昭武の父でもある徳川斉昭蝦夷地開拓に強い情熱を抱き、その後の藩の変わらぬ姿勢になっていた。

朝廷は北海道の開拓を推し進める方針を定め、それを知った昭武は諸藩に先立って天塩国苫前、天塩、上川、中川の四郡の開拓を願い出て許された。
まず岩間金平、西丸帯刀、川崎縫殿介を先発させ、自ら天塩国に赴いて現地で開拓計画を練る事を決定していた。
水戸藩から是非高松凌雲殿をお借りし昭武様に同行させたい、と本藩に請求があった」公用人は言った。

パリ滞在中は随行員でありながら下宿を許され学費も出してくれ医学修業をする事が出来たのは昭武の好意によるものだった。その恩義に報ゆる為にも北海道行きに随行したい、と思った。
しかし、彼は余りにも疲れ果てていた。箱館病院での息もつけぬような治療行為と心労についで、徳島藩の苛酷な扱いに体調が悪化。

気力も衰えている。

到底長旅の出来る体ではない。

十分な休養を取りたかった。
凌雲は「お引き受けしたいのは山々ですが、体調が思わしくなく……」と即答を避けた。
彼は藩邸でぼんやりと過ごした。
昼間も身を横たえている事が多く、外に出ることはしなかった。

湯を沸かして行水を取るよう心掛けたので湿疹は消えた。
が、手にリューマチの痛みは残っていた。
更に、兄古屋佐久左衛門の妻子の事が気がかりであった。
彼は3月に入って間もなく、御徒町の古屋家へ向かった。
人の気配は無かった。
隣家の女に尋ねると古屋家の家族は一旦戻って来たが家財道具一切が掠奪され住める状態では無かったので親戚の家に厄介になりその後、静岡に行ったと聞いている。
凌雲は藩邸に戻ると体調の回復に努め昼寝を日課とし食物も薬と思って口にした。

その間、病気に罹った藩士やその家族の治療にも当たった。
4月に入って公用人に呼ばれ屋敷に。
再び昭武の北海道行きの随行医に、と言われた。
漸く体調も回復し体の肉付きも増している。
「承知致しました。参ります」と答えた。
公用人は喜び水戸藩から伝えられた北海道行きの予定を口に。
藩士藤田健長、長谷川允迪ら数十人が昭武に随行し水戸から陸路出発。

凌雲は水戸に行って合流。

水戸藩江戸屋敷に居る藩医橋玄逹も随行するので本橋と共に水戸に向かう。

出発日は4/16。
その日は雨で蓑、笠を着けて東京を離れた。

水戸街道を進み2日後に水戸入り。
しかし、昭武一行は既に出発。

翌日夜明け前に起きた凌雲は本橋と共に浜街道を急ぎ、5/1に高萩で追いついた。
昭武が休息を取っている茶屋に入った凌雲は昭武の前で平伏。

パリで医学修業を許してくれた厚情に対し感謝の意を述べた。

昭武は背丈が伸びて体もがっしりとしていた。昭武は懐かしそうに声を掛け箱館戦争での労を労った。

一行は仙台を経て奥州街道を進み青森から下北半島の大間に至り船に乗って函館に到着。
前年の九月に箱館は函館と改められた。
函館の町は戦火の痕が生々しく所々に焼跡が広がっていた。
彼は仮病院の置かれた浄玄寺に行き住職に改めて感謝の言葉を丁寧に述べ住職と共に墓地へ。
兄佐久左衛門の墓標の前に立ち住職の読経を聞きながら詣でる者も居ない墓標の下に眠る兄を哀れに思った。
しかし、函館の地には共に戦った多くの男達の霊魂が住み着いている。
住職は寺に泊まるよう勧めるのでその好意に従った。
降伏兵の事が気がかりで住職に彼らの消息を尋ねた。

降伏兵は函館と松前(!!)、津軽秋田藩にそれそれ勾留されていたが前月に全て赦免され釈放されたという。
翌日、凌雲は一行と共に函館を発し北海道の西岸を徒歩又は船に乗って進み6/9に天塩国苫前に辿り着いた。
昭武は健脚で山野を歩いたり川を渡ったりして踏査し開拓の計画を練った。
漁業を大々的に発展させ、その利益により山野の開拓に注ぐのが効果がある、という結論に。
主たる漁獲物は鮭、鰊だが、それが群来する天塩川河口には古くから倒れた巨木が折り重なって水底に埋もれていて網を入れる事が出来なかった。

↑凌雲先生、回復して良かった。

凌雲先生が苦難を乗り越え長生きしてくれたからこそ、凌雲先生の伝記が書かれ、箱館戦争の事を始め、幕末の事がよーく分かった。

逆境を乗り越え、生き延びた凌雲先生に感謝。

 

8:45に孫達をお迎えに。

今日は長男が役所に出生届を出しに行ったり、各種手続きをする、と言うので孫達を預かり白岡の支援センターへ。

9時過ぎに到着。

11時過ぎまで遊んだ。

11時45分にお家にお届け。

帰宅後、夫にラーメンを調理。

自分は納豆ご飯と朝の残りメインでお腹を満たした。

14時半から夕食作り。

長男が16時までに夕食を受け取りたいと言うのでいつもより早い時間に調理を゙スタート。

バンバンジーと蒸しナス。

バンバンジー用のタレと蒸しナス用の甘味噌を添付。

あとはキュウリのQちゃん漬け。

サワークリーム使用のマセドアンサラダも追加した。

家の者には味噌汁もある。

18時半に夕食を食べたいと言われた。

それまではウォッカ梅酒ロックを呑みながら読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は6989。

充実した一日だった。