arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1404日目と畑と高松凌雲⑲

2025/7/13日曜日

5時に起床。

5時半に畑へ。

草取りと収穫をしたら液肥を施肥。

緑色の液体を撒かれても大体2週間で復活。

里芋の葉っぱもやられまくり。

しかーし、植物の再生力に期待する事に。

7時に帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水遣り。

10時から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」

 

凌雲と共に重症者に付き添って東京へ行く医師についても話し合いが行われた。
病院の医員は初めから東京へ行くことに定められていて、浄玄寺、会津藩屋敷仮病院の医員は残された軽症者と共に箱館病院に移って治療に従事することに。
しかし、浄玄寺の濱尾と会津藩屋敷の根田は東京行きを望み、少し前から凌雲の書生となっていた村井時之助も凌雲に随行を懇願。

凌雲はこれら3名を同行させることに。
小野は病院掛として残留する事に。
翌8/17,重症者は戸板に載せられたり体を支えられたりして乗船場へ。
診療器具や手術道具は箱に納められ大八車で運ばれた。
凌雲は蓮沼等と病室を周り「早く良くなって故郷へ帰れ。元気でな」と声を掛けた。
船は速度を徐々に上げ箱館の町が遠ざかっていった。
東京に行けば自分は榎本軍の病院頭取として処分を受け、それは蓮沼ら医員も例外ではない。
8/20に横浜に到着。
傷病者と共に上陸した凌雲達は品川に一泊後、芝に行き、傷病者達を通玄員の舜成寮に入れ、隆榮院を宿所とした。
舜成寮の仮病院は明治政府の兵部省の管轄下で薬品その他の供給を受け凌雲達は舜成寮に通って治療に努めた。
兵部省から派遣されてきた監督官は堀龍太という医師で初めは傲慢だったが凌雲がヨーロッパに滞在していたと知り洋楽の教えを請うように。

堀は凌雲の求めに応じ傷病者の為に滋養のある食料を集め薬品等も豊富に提供。
傷病者の経過は極めて良く平癒する者が増した。
傷病者は赦免される事になっていて退院を許された者は明るい表情でそれぞれの故郷へ戻って行った。
9月中旬になると傷病者は10名に減少。
彼らの症状は軽かったので兵部省は舜成寮の仮病院廃止を決定。
傷病者達を一般病棟に移した。
その夜、彼は箱館を去るまでの箱館病院の記録に眼を通し整理。
一、銃創者380人 
内97人死亡
一、罹病者958人
内34人死亡
仮病院でも数百人が入院していたはずだがそれについては不明。

約10ヶ月の間にそれほど多くの者の治療に当たった事が信じられない思いだった。
旧榎本軍所属の医師であった凌雲達は勾留される身で番兵の監視の元に院内に閉居。
やがて兵部省から通達があり、蓮沼誠造、赤城信一、伊東友賢は島原藩に、濱尾最一郎、根田昌賢は久留米藩にそれぞれ預けられる事に。
凌雲の書生村井時之助は旧榎本軍とは無縁である事が認められ自由の身に。
凌雲は東京在住の親しい医師田代基徳に村井を書生として使って欲しいという手紙を書き村井に渡し田代の元へ赴かせた。
10月下旬、兵部省の役人が来て凌雲を徳島藩預けにすると伝えた。
徳島藩からの申出でそれを認可したと言う。
やがて、徳島藩の者が数名やって来て凌雲を取り囲みながら日比谷御門に近い藩の中屋敷へ連行。
その屋敷は一橋家の旧邸だった。彼は表長屋の二階の部屋に引き入れられ4,50畳敷の広さで畳は取り除かれ中央に古い畳が六枚置かれてあるだけ。
藩の者は「定法に従い謹慎閉居するように」と厳しい口調で言い部屋を出て行った。
夕刻になると40年輩の下僕が食事を運んで来た。
飯と梅干2個、沢庵2切れのみだった。
運んてきた布団も薄く粗末で枕は無かった。
明らかに罪人扱い。
食事は朝は飯に味噌汁、沢庵2切れ。

昼と夕刻は飯と梅干2個、沢庵2切れと決まっていた。
彼は終日畳の上に座って過ごした。
↑え?本も読めない?
劣悪やな。

 

夜になると広間には騒がしい物音が。
夥しい数の鼠で布団の上を走り、そのまま立ち止って動かないものも。

顔の近くに来る鼠も。
↑悪魔👿鼠🐭到来。嫌がらせで死なせようとしとる。

 

成すこともなく座っている彼は日が経つにつれ鼠に親しみを感じるように。
時たま飯を投げてやると鼠が走り寄って群がる。
寒気が厳しさを増し障子の破れ目から冷たい風が容赦無く吹き込む。
夜は寒さで眠る事も出来ず布団の中で体を震わせた。
体を清める事が出来ないので湿疹が湧き日を追って広がった。
下僕は流石に気の毒に思ったのか馬盥に湯を満たして運び込んでくれた。
凌雲は礼を言い手拭いを湯に浸して体を拭った。
或る日の朝、食事に鮭の塩引き一切れが添えられていた。
下僕に目を向けると「元旦ですので………」と言った。
明治三年正月一日か、と胸の中で呟いた。
その日から矢立の筆で床に月日を記すようになった。
寒気は更に厳しさを増し、手の指の関節が腫れて痛みが起るように。

朝起きた時は指が疼いて動かない。
明らかにリューマチの症状。

その病は激しい寒気によって起る事が多く、保温に努める必要があったが、広間には暖を採る物など無い。

一度発症すると慢性になるのが常で彼は憂鬱だった。
彼は痛みをこらえなから指をこすり、動かす事に努めた。
その後、下僕がまた盥に湯を入れて持ってきてくれたが、湿疹は治らず体中が痒い。指の痛みは更に激しくなり、藩の仕打ちが腹立たしかった。
が、その度に松前藩預けとなって水牢に入れられた者達の事を思い出し、自分の方が遥かに恵まれていると考えた。

水ぶくれになった彼らの体と比べれば痛みも痒みも何のことはない。

↑水腫病もリウマチも寄生虫由来じゃないんか?

奴ら得意の。

で、寒さで憎悪するという。


2/11(笑)、夕食後、2人の下級武士がやって来て部屋から出るようにと言った。
屋敷内の役宅の一つに連れていき座敷に導いた。
藩の公用人下役伊月平一郎の家だった。
姿を見せた伊月は兵部省からの書面を手に凌雲の謹慎を免ずる旨の通達があった事を告げ「これは藩よりの贈り物である」と大小刀と袴を凌雲の前に置いた。
更に伊月は「貴殿が仕えられていた徳川家は一昨年五月家名の存続を許された徳川家達様が静岡藩主として七十万石を賜っている。将軍であった慶喜様も既に昨年謹慎を解かれ静岡にお住まいになっておられる」と続けた。
伊月は言葉を続け「貴殿は静岡藩に所属する身であるので定法通り静岡藩へお渡し致すか実は我が藩より兵部省に願い出て貴殿をお預かりしたのは、赦免に成った後は我が藩で雇い入れる心積もりがあったからである。近々のうちに静岡藩へその旨を申し出るので貴殿も予め承知しておいて頂きたい。静岡藩がその申し入れを受託した折には我が藩の為に御尽力ありたい」
↑出来るわけねーだろ(!!)

こんな仕打ちをする藩で働ける訳が無い。

 

凌雲はぬけぬけとよくそのような事が言えると思った。
雇い入れるつもりがあるなら人並みの扱いをすへきであるのに鼠の群が走り回る広間に入れ、粗悪な食事と薄い布団しか与えず厳しい寒気でリューマチにも冒された。
凌雲は「私は主君慶喜様の元に行くよう命令を受けながらそれに叛いて榎本釜次郎殿の艦隊に身を投じた者です。
慶喜様には誠に申し訳なく何としても詫びを入れて再びお仕えしようと思っております。従って貴藩にお仕えする気持は毛頭ありません。」と強い口調で言った。
赦免されたというのに、その後も扱いは変わらず彼は粗末な食事をし寒さに身を震わせながら鼠の走り回る姿を眺めて過ごした。
↑もう罪人では無いのに、罪人扱い続行。

徳島藩な。

何でこんな嫌がらせしたんだろうね。

嫌がらせしない藩もあったというに。

 

12時半にヤロー共に冷や麦を調理。

自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

 

13時に長男と孫達が到来。

30分後に夫と遊びに行った。

14時半から夕食の下ごしらえ。

合間に、棗とアーモンド入りオートミールクッキーとせんべいをオーブンで調理。

せんべいは平らな焼きおにぎりとなった。

孫達は16時に帰宅後、おやつを食べ、意外にも平らな焼きおにぎりが大人気に。

17時の夕食前に完食された。

じゃがいもとサツマイモのサワークリームディルサラダ、キュウリのQちゃん漬け、サワークリームサンド、サワークリームサンドとタラコのクラッカー、蒸しナスと豆腐と蒸し鶏に味噌ダレ、コチュジャンを添えた。

ウォッカ梅酒ロックと共に美味しく頂いた。

お皿は長男が洗ってくれた。

食後、夫と長女と孫達でスイカを買いに行った。

帰宅後、皆でスイカを食べた。

孫達も美味しそうに頬張っていた。

長男達は19時半に帰って行った。

有り難く読書と調べ物を続行する事に。

 

歩数計は8275。

充実した一日だった。