2025/7/12土曜日
6時に起床し夕食の下ごしらえ。
洗濯とベランダガーデニングの水やりを済ませたら10時から読書と調べ物。
昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」
8/5夜、43人の病者が運び込まれた。
榎本軍降伏後、松前藩預けとなった旧榎本軍の兵達だった。
ランプの光に浮ぶ彼らの姿を眼にした凌雲は体が凍りつくような驚きを覚えた。
彼らの体は顔から足先まで膨れ上がっていて、ことに腹部は太鼓のようになっている。
眼や唇の周りが赤くただれ、皮膚は荒れていて土左衛門(水死者)さながら。
苦悶の声を上げている者も多く、凌雲は一見して彼らが一人残らず重症の水腫病に冒されているのを知った。
「何故、このような病に冒されたのだ」
彼は眼を怒らせて病者に尋ねた。
片眼が潰れかかった中年の兵が紫色にはれ上がった唇を動かし、弱々しい声で事情を口にした。
降伏した彼らは松前に護送され、重刑の者を収容する地下の水牢に投じられた。
苛酷な環境の中で日を送る間に便の排泄が滞り、足の甲に浮腫が生じて腰にも及んだ。
そのうちに手足や顔のむくみが激しく、全身がみずふくれになり、甚だしい苦痛に襲われるようになった。
しかし、藩は医師に診療させることはなく、薬も与えず放置した。
その為、病に冒された者の大半は死亡して、それらの遺骸は野に捨てられた。
↑これじゃあ、松前藩送りの降伏兵は降伏後も罰ゲームやないかー!
松前藩はさ、榎本が送った降伏勧告の使者で松前藩士の桜井をぶった斬るし、高龍寺の入院患者もぶった斬って、火を付けて焼死させるし、頭おかしい奴ばっかやないかー!
わいは、これを読んでから一日一食を中止。
体が冷えると奴らの仕込んだ毒や寄生虫に蝕まれる、と。
巡回してきた官軍がその扱いにづき病者43名を水牢から出し和船で箱館に送ってきた。
兵の説明が終わると病者達の間から弱々しいが、憤怒の声が所々から起った。
「このまま死んだら魂は鬼となって松前の者どもを一人残らず殺す」
「この恨みは必ずはらす」
松前藩の降伏兵への苛酷極まる扱いは藩主以下を松前から駆逐した旧榎本軍に対する怨念によるものに違いなかった。
その報復の為とは言え、降伏した兵をこのような悲惨な状態に追い込んだ松前藩の所業は人間のそれではなく、凌雲は憤りというより空恐ろしさを覚えた。
↑悪魔と連携した事になるからの。
水腫病は寄生虫が原因。
水牢という環境はその原因となる寄生虫が好む場所。
寄生虫を放流したのは悪魔。
松前藩は悪魔に水牢という環境を提供。
水腫病に治療法は無い。
原因の一つは寒気。夏ではあるが水牢に投じられていた為体が冷え切ったのか。
野菜を摂らぬ事によって発病するとも言われている。
彼らには食物らしいものも与えられていなかったのだろう。
↑榎本釜次郎が贈った海律本読んでないやろ!捕虜に対する扱いについても書いてあったと思うで。責任者は処分されるべき。今からでも、被疑者死亡のまま、やれ。
凌雲は病者達を浄玄寺仮病院に移送するよう命じた。
仮病院では平癒、退院する者も居て広い座敷に彼らを収容する余地があった。
↑何せ体が膨れ上がるからな。
https://youtu.be/cneA4VaLLOA?si=f7C5NXwMGZS9D0Sc
水腫病は蝦夷地特有のもので西洋の医書にも見られない。十分に滋養のある食物を与えるように、と指示を書いた。
仮病院から退院者と死者の報告が書面で届けられたが、松前藩預けの病者は浄玄寺に送り込まれた翌日5名が死亡。
次の日は退院者2名の報告があっただけだが、その翌日には7名の死が伝えられた。
病名は尽く水腫病と記されていた。
↑預け先が松前藩 でなければ生き延びたかもしれない人々よ。罪深きは松前藩。
予測通りその後も浄玄寺から水腫病者の死が続いて伝えられた。
8/14、凌雲は大病院出張所から出頭命令を受け出向くと官軍の医務担当官が居た。
彼は元青森口総督の清水谷公考が部下と共に3日後に汽船で東京へ向かう事になったと口にした。
その汽船に箱館病院と仮病院収容の傷病者を同乗させ、東京に運ぶ事が決定したと述べ、凌雲をはじめ医員も送還するので準備をするように、と言った。
病院でも仮病院でも薬品不足が常のことになっていて、官軍に依頼しても届けられるのはごく僅か。
食料やその他生活必需品の調達も箱館の町が戦火で焼き払われた為思うようにならず、病院としての機能は不満足な状態にあった。
病院へ戻った凌雲は病院掛の小野をはじめ蓮沼、赤城、伊東を呼び寄せ医務担当官からの指示を伝えた。
東京へ送る傷病者を重症者に限定し、その選定から行う事に。
箱館病院にいる傷病者の重症者は判明しているが、浄玄寺と旧会津藩屋敷の仮病院の傷病者は凌雲が直接診断し判定する事に。
凌雲にとって、重症者の選定は箱館での最後の仕事。
まず、浄玄寺へ。
専属医員の室岡同直と濱尾最一郎の説明を聞きながら一人ずつ入念に問診。
その中に水腫病に冒された者も居たが僅か18名。
他は全て死去していた。
診断終了後、濱尾が兄古屋佐久左衛門の埋葬地へ案内してくれた。
彼によると、佐久左衛門に終始従っていた亀吉が佐久左衛門の遺髪と腰部に食い込んだ砲弾の破片を遺族に届ける為東京に向かったそう。
凌雲は浄玄寺の住職に仮病院として使用させてくれた礼を述べ病院に引き返した。
翌日は降雨の中、会津藩屋敷に行って傷病者を診断。
これにより81名の重症者が選定された。
今日はここまで。
11時40分から昼食の用意。
ヤロー共にラーメンを調理。
自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
13時から次男と夫とテニス。
次男がテニスの練習をしたいと言うので1時間付き合った。
ラスト5分頃、長男が孫達と自転車で来訪。
孫達が球拾いを手伝ってくれた。
帰宅後、シャワー。
いつもより早い時間からウォッカ梅酒ロックを呑みながらローストナッツとチーズを摘んでいると孫達も参加。
上の孫が15時に、下の孫が15時半にお昼寝を開始。
自分は夕食づくりの仕上げに。
16時半に目覚めた上の孫は長女と一緒に出来たおかずをつまみ始めた。

焼きナスのポン酢浸し、高野豆腐と大根の煮物、わかめとキュウリの酢の物。
17時には下の孫も目覚め、皆で夕ご飯。

じゃがいもと豚肉と深川ねぎの炒め物と味噌汁とトマトスープが加わった。
ウォッカ梅酒をおかわり。
長はの男がお皿を洗ってくれた。
食後、上の孫は長女と一緒にシャワー。
下の孫は夫とシャワー。
19時過ぎに長男と孫達は帰って行った。
嫁には夕食のお裾分けをタッパーに入れお土産に持たせた。
このあと、読書と調べ物をする事に。
歩数計は8651。
充実した一日だった。