2025/7/11金曜日
4時に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず、嫁の出産&退院祝いの冷やし中華作り。

9時半に冷やし中華が完成。

下の孫が好きな味噌汁と朝のお弁当のおかずの残りもプラス。
10時に病院に迎えに行き、帰宅後、夫が届ける事になっている。
わいは、10時から読書と調べ物。
昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」
5/19, 薩州隊の村橋が病院を訪れ、湯川に旧榎本軍の傷病者多数が集められているが明日、負傷者69名、病者19名を箱館病院に移し、二十一日と二十二日も傷病者を移送する予定だと言った。
病院には既に二百名近い傷病者が居て寝台は全て埋まり床に畳を敷いて横たえている者も居る。
凌雲は村橋に事情を説明。
箱館大町にある浄玄寺を仮病院として借り受け、そこにそれらの傷病者を送り込んで欲しいと頼んだ。
二十日に村橋から書状が届き予定通り浄玄寺を仮病院に指定し湯川から傷病者88名を送り込んだとあった。
その直後、2人の医者が訪れてきた。
湯川で旧榎本軍の治療にあたっていた隊付医師室岡同直と濱尾最一郎で凌雲に挨拶に来た。
浄玄寺の仮病院は箱館病院に所属しているが運営は独自に行う定めになっている。
凌雲は2人を仮病院の専属医員に任命。
凌雲は兄の古屋佐久左衛門の消息を聞いてみた。
すると、浄玄寺に収容された、と返答が。
兄が生きていた事を知り体が熱くなった。傷の具合を聞くと、砲弾で腰に破片が食い込み手の甲が飛ばされかなりの重傷とのこと。
ついでに弟の高松六郎の事も尋ねたが二人とも知らないと言った。
21日にも湯川から箱館に40人の負傷者が移送されてきた。
凌雲の指示で旧会津藩屋敷に収容された。
凌雲は彼らに付き添ってきた菅野慎斎、根田昌賢、菅野秋水を専属医員とした。
その日、凌雲は降伏した榎本釜次郎、松平太郎、永井玄蕃、荒井郁之助、相馬主計、松岡磐吉の七人が箱館の寺から出されて「ヤンシュー号」に乗せられ、箱館を離れた事を知った。彼らの護送先は青森を経て東京だと言う。
22日には湯川に残されていた傷病者50名が浄玄寺に。
23日、官軍の大病院出張所の医師8名が長身の外国人と共に病院を訪れてきた。
「これより回診を行う。こちらはイギリス軍艦軍医クエン殿で官軍雇いの御医師である」と告げられた。
通弁は薬品名や処置法などを通訳できずに居た。
凌雲は短い英語でアシスト。
クエンから英語を理解するのか、と聞かれ、英語は暫く使っていないがフランス語ならば、と答えるとクエンはフランス生まれだ、と言い、そここらはフランス語でやり取り。
6/14, 浄玄寺仮病院医員濱尾最一郎から書状が。
兄古屋佐久左衛門の死を伝えるものだった。
悲しみに浸る間もなく医員の蓮沼が重傷者の手術の準備が整ったと告げに来た。
夕方、濱尾から遺体は浄玄寺の墓地の外れに埋葬したと連絡が。
榎本軍の降伏将兵三千名のうち半数は箱館の寺に拘禁され、半ばは一部が東京へ、残りは津軽、秋田、松前の三藩預けとなっていた。
明日、アップする。
7月に入ると傷も病も癒えた者が増し、彼らは退院後、降伏将兵の居る寺へ送り込まれた。
その下旬、官軍の運営する大病院出張所医師3名が薬品の目録を手に訪れた。
薬品不足に悩んでいた官軍は香港で開業していたフランス人医師がフランスに帰るため残していった大量の薬品を購入。
箱館の大病院出張所に送り込んできた。
が、フランス文の説明文を理解する者は無く、クエンに尋ねたがクエンの口にする病名や薬品名を通弁は通訳できず、それで凌雲の元へ訪れたそう。
しかし、その態度は横柄。
凌雲は忙しいと断った。
沈黙が続いたが、若い医師が「なにとぞお力をお貸し頂きたい」と口を開いた。
勝者と敗者。
官軍の中には薩州隊の山下喜次郎や軍艦の村橋直衛や池田次郎兵衛のような人物も居るが、多くは勝者としての驕慢さを露骨に表出。
↑しかも、160年経って、イギリスに勝たせて貰った事がばればれ。
自分らだけ高性能の軍艦や大砲、銃を与えられたという。
どんどんボロが出てくる。
勝敗は戦の結果で、個人とは一切関係が無い。
特に、戦闘に関与しない医師が何故勝者の意識を持つのか。
医師は傷つき病んだ者の手当てをして平癒させるよう努めるのが使命。
若い医師を除く大病院出張所の医師達が愚かしく思えた。
凌雲は半分を和訳し下男に届けさせた。
すると出張所の責任者である安藤精から、フランス文の目録を理解し難いので「御多忙中御気毒ニ存候得共、品名、員数等御調相願度 宜敷御願申上候」とあった。
程なく若い医師が「クエン殿がお会いしたいと申しております」と言いクエンの宿所に案内。
しかし、クエンの姿は無く、薬品の目録を手にした数名の医師が居て凌雲は彼らがクエンをだしに自分を呼び寄せたのを知った。
↑恥ずかしいね。
医師達は「なにとぞ和解下さいますように………」と揃って頭を下げた。
↑最初からこうすれば良かったんよ。人に物を頼むんだから。
その後、大病院から翻訳の謝礼が書面と共に届けられた。
凌雲に7両、翻訳と関係無い病院、仮病院の医員全員に3両ずつ。しかも、名目は病衣の洗濯代、とあった。
公式文書で翻訳をしてもらったと書くのを恥じ名目を洗濯代としたのである。
↑最後まで恥ずかしい人達。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
夫には冷やし中華を用意。
自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後は夕食の下ごしらえ。
15時半まで掛かった。

ピザ、サワークリームディルサラダ、夏野菜トマトスープ、寒天ゼリー。
16時半に長男と孫達が到来。
これらをリュックとベビーカーに載せ17時半に帰って行った。
夫は嫁の了承を得て、長男宅で夕食を食べる事に。
わいも誘われた。
が、わいは、嫁を休ませたいのでパス。
床上げまでは養生せんと。
そのうち、いつでも会えるようになるからの。
昔と違い、今は画像や動画がバンバン送られて来る。
全然寂しくない。
このあと、夕食を食べたら、読書と調べ物の続きをする事に。
わいにとっては、幕末に何が起きたのか、知る事が大事。
今の植民地日本は、軍事政権の江戸幕府が倒された事によって成立。
何で倒幕クーデーターが実現したのか、その経緯を知り、奴らの手法を学ばないと。
次また何仕掛けてくるか。
歩数計は8204。
充実した一日だった。