arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1401日目と畑と高松凌雲⑯

2025/7/10木曜日

4時に起床し皆の朝食作り。

4時45分に畑へ。

里芋の葉っぱが食べられていた。

収穫と液肥を施肥していると通りがかりの仲良しお散歩軍団が「今日雨降るよね〜」「雷雨だってね〜」と会話をし通り過ぎて行った。

(へぇ~今日雨降るの知ってるんだ〜。凄いね)←わいの心の声。

 

6時に帰宅後、シャワーと洗濯。

合間に収穫してきた野菜を水洗い。

ベランダガーデニングの水やりも済ませたら、9時から藍染め。

Tシャツを盗まれたり、穴を開けられたりし、激減。

先日、藍染体験をしたので藍染Tシャツを作ってみる事に。

昨夜、上の孫と輪ゴムや洗濯ばさみを使って模様の仕込みは済ませてある。

40度のお湯に藍染めの素を溶かし、よーくかき混ぜたら、イザ藍染

 

10時から読書と調べ物。

昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」

 

村橋と数名の薩州隊員が伊那と高橋に付き添い病院の門を出て行った。
2人は一刻後、村橋と共に戻って来た。
弁天崎台場に近づいた2人は村橋から渡された白旗を手にし台場に入り陣営に赴いた。
箱館奉行の永井玄蕃と会斗奉行の川村録四郎が姿を見せた。

2人は書状に眼を通すと暫し話し合い。

永井が筆を執り返書を認めた。

返書には

「御書面之趣ハ五稜郭総裁トモ打合ノ上及決答可申」

榎本総裁と打合せの上返答すると書いてあった。
五稜郭にも同じ文書を送り届ける事になったが、使者の高橋は疲れ切っていたので板根杢之丞を伊那に同行させた。
夜になり村橋と池田以下薩州隊員達はそのまま病院に留まり使者の戻るのを待ったが深夜になっても姿を見せなかった。
村橋らは近くの民家から寝具を借り講堂の床に敷いて寝た。
翌14日朝、伊那と板根が五稜郭からの返書を手に薩州隊の永山友右衛門に付添われ戻って来た。
「来書拝見致候」という書出しのもとに「今更 別段申上」げるまでもないことだが、として、艦隊を組んで江戸を離れて蝦夷に来た理由について記されていた。

幕府の崩壊によって生活の手だてを失った多数の旧幕臣を救済する為、蝦夷を開拓し、同時に南侵を窺うロシアに対して防備の任に就こうと念願し、蝦夷を下賜して欲しいと朝廷に繰り返し嘆願した。

しかし、それは朝廷に達する事が無かったらしく、やむを得ず艦隊を率いて品川沖を離れ蝦夷に至った。

蝦夷守備の官軍に武力を行使したのは本意ではないが、我らはあくまでも目的を貫く為あらゆる手段をとる覚悟である。

蝦夷の一部でも下賜して下さるというのならば、蝦夷の防備に死力を尽くし、朝廷の御意にお報いするつもりである。
それが許容された折には総裁である私と副総裁である松平太郎はいかなる苛酷な処分も甘んじて受ける。以上の次第であるが、もしもそれを御許可下されなければ

五稜郭並弁天崎台場其外他所出張ノ同盟一同、枕ヲ共二シテ潔ク天戮」

をお受けいたす。
右の事を村橋殿にとくとお伝え頂きたい。
五月十四日
松平 太郎
榎本釜次郎
小野権之丞様
高松 凌雲様


と記されていた。
また、追記として、病院の傷病者に対して温かく扱ってくれている事に感謝している旨を「ドクトル(凌雲)」より村橋殿にお伝え頂きたい、と記していた。


ついで、榎本がオランダ留学中に入手した2冊の海律書は誠に貴重な物で、兵科によって焼失するのは誠に惜しく、ドクトルより官軍艦隊の提督に贈って欲しい、と書かれていた。
↑海律書、ちゃんと読んどけよ!て事か。
榎本釜次郎はオランダ留学中に国際法も学んでいる。

海律書とは海上国際法の事で、著者はフランスの海軍大佐オルトラン。
返書は明らかに和議申し入れを拒否したもので、「一同、枕を共にして」という文章に、死を賭して徹底抗戦する決意が示されていた。
本営のある五稜郭は官軍の艦隊から放たれた夥しい砲弾で建物は飛散し砲台も壊滅。
弁天崎台場の榎本軍の永井は総裁とも打合せの上と回答してきたがそれぞれ孤立状態にあり打合せは不可能。
凌雲は村橋に榎本の返書を永井に知らせて欲しいと伝え、承諾された。
再び伊那と板根が使者に。
翌15日、村橋と池田は旧津軽藩陣屋の千代ヶ岱砦守備の榎本軍に降伏勧告の使者を送ったが、それも拒絶された。
隊長は中島三郎助。
翌17日、村橋は弁天崎台場が陥落と知らせてきた。
千代ヶ岱砦も激戦の末占領。
中島三郎助は2人の息子と共に討死したそうだ。
五稜郭ではまず、官軍の捕虜10数名を解放。

そして、大手門を開けさせ、去る者は自由、という態度を取っているそう。
翌五月十八日、榎本総裁以下が全員降伏。
凌雲は村橋に負傷者達の消息を尋ねた。
村橋は調査中で不明だが双方に多数の戦死者が出て官軍の死者は収容されたが榎本軍のそれは放置されたまま至る所に転がっている。
村橋は更に元新撰組副長の土方歳三も戦死したと告げた。

↑凌雲先生、降伏勧告書で貢献している。

中島三郎助と2人の息子達は凄い。

彼は浦賀に現れた外国船と度々交渉。

何が起きているのか、かなり前から誰よりもよく知っていた。

哀悼。

 

11:45から昼食の用意。

12時半に夫と長男と孫達が帰宅。

本日は昼食に蕎麦を用意。

自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

午後は交代で孫達の相手。

病院は面会は入院中2回までなんだそう。

午前中は夫と長男で七里総合運動公園へ孫達を連れて行った。

孫達は帰りの車でも寝なかったそうだが、帰るまでお昼寝無し。

もうすぐ3歳になる上の孫は勿論のこと、1歳の孫もお昼寝無しで帰った

17時半から夕食作り。

ニョクマムフェンネルサラダ、枝豆、ミズの昆布漬け、豚と厚揚げのサワークリーム生姜焼き、味噌汁、納豆、ご飯、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

お皿は長男が洗ってくれた。

20時過ぎに帰って行った。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は8773。

充実した一日だった。