2025/7/5土曜日
4時に起床し夕食の下ごしらえ。
先週に引き続き、今日も次男の運転練習に付き合う事になったので夕食を作ってから行く事に。

ミートローフ用のゆで卵を茹で終わり、殻を剥いていると1個だけ一部が剥けず。
同じ条件で茹でているのに。
「カリメロ」を彷彿させるので記念撮影。
https://youtu.be/8B2xpHoAAG0?si=t5-mVc13htb27J45
「カリメロ」の主題歌は自分が小学校低学年の時のお楽しみ会で出し物として親友と振り付きで披露した思い出深い歌。
今歌っても結構難しい歌。
良くまあ歌ったよ。
テンションマックスで次のラタトゥイユ作り。

最後に、ミートローフ作り。

この時までにカリメロの殻は綺麗に剥けた。
ずーっとループ再生でカリメロの歌を歌ってたから嫌になったんだろうね。
合間に洗濯とシャワー。
10時に次男の運転練習へ。
わいが行きたい所に行ってくれるので、今日は道の駅おかべへ。
12時半に到着。
ここの道の駅に隣接する史跡公園を見学したかった。

蓮の花が咲いていた。

この高床式倉庫は奈良時代の物で稲籾などを保存していたそう。


道の駅では特産の深谷ねぎを使ったネギフライや焼とうもろこしの屋台が。


次男がネギフライを、自分は焼とうもろこしを食べた。
更に、ネギ味噌󠄀オニギリととうもろこしオニギリも。
めっちゃ美味しかった。
遠くまで来たかいがあった。
次に花園の直売所へ。
買い物を済ませたら帰路に。
帰宅後、夕食作り。
17時に長男一家が到来。
夕食を食べたあと、暫し団らん。
七夕飾りの提灯を折り紙で作ると孫は喜んで、お土産に持って帰った。

19時過ぎに帰って行った。
後片付けを済ませたら、読書と調べ物。
昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」
土方隊は江差方面に逃れた松前藩兵を追い、松岡四郎次郎指揮の一隊約二百も江差方面へ進撃。
江差は松前藩にとって唯一残された要地で蝦夷の経済に大きな意味を持つ港町だった。
多量の商品を運ぶ北前船の発着地で廻船問屋や大店が軒を連ね繁栄。
江差を占領し豊かな経済力を持つ商人の協力が得られれば蝦夷は確実に支配出来る。
榎本等首脳陣は江差攻略を絶対に必要と判断。
旗艦開陽に乗って江差に向かった。
そのような情報が伝えられると共に福山戦攻防戦での負傷者が続々と病院に後送され凌雲と蓮沼は忙殺された。
既に町中の高龍寺を分院とし
少数の軽症者をそこに移送。
それでも収容しきれなくなった。
その為、寝台を急造し講堂に並べ負傷者を横たえたが間に合わず、廊下に寝かせるまでになった。
凌雲は箱館奉行の永井玄蕃に新たに病院くの建設を要請。
永井は承諾し洋風建築の経験のある建築業者中川源右衛門の棟梁大岡助右衛門に請負を指示した。
負傷者に隊付きの医師が付き添ってくる事もあったが彼らは病院の入り口に掲示された凌雲の、病院の全権を委託すという貼紙を眼にし治療に口出しする事なく去るのが常だった。
その中で一人の医師が凌雲の施療を見守り、凌雲の回診の後について、視線を捉えているのに気づいた。
凌雲が診察室に戻ると、その医師が「額兵隊付き医師伊東友賢」と名乗った。
伊東は仙台藩士佐々城正庵の四男として生まれ医学を修業。
同じ藩医の伊東家の養子となり昨秋横浜に出て英学所に学び鳥羽・伏見の戦いの後、仙台に戻り、徹底抗戦派の藩士星恂太郎によって組織された額兵隊の一員となり榎本艦隊に投じた。
伊東は凌雲の元で働き新しい医術を身につけたいと言い、「なにとぞ助手としてお使い下さい」と頭を下げた。
既に隊長の諒解を得ていると言うので、採用した。
その日の夕刻、悲報が。
江差湾に入った開陽が天候悪化で激浪に押し流され浅瀬に激突。
乗り上げて傾いた。
開陽救出の為、回天と神速丸を緊急出港。
11/19に榎本ら全員が座礁した艦から陸岸に上がる事が出来たと報告が。
凌雲は安堵したが開陽の座礁が危惧された。
11/22, 降雪の中、棟梁大岡助右衛門によって新病院の建築が開始された。
2階建ての病院二棟の計画で。
凌雲は11/24, 救援に向かった神速丸が波浪で浅瀬に乗り上げ大破した事を知った。
更に、開陽の浸水は激しく12月に入って沈没した事も。
江差から退却した松前藩主徳広以下の首脳は津軽に逃れる為、熊石村の関内に到着。
19日に兵70余名と共に長栄丸に乗り、途中、風浪が激しくなった為、徳広は祖先伝来の兜を海に投じ海路の安全を祈願。
船中で前藩主の五女が死亡するなどの苦難を味わいながら11/22に津軽藩領の平館に到着。
徳広は津軽藩に保護されたが持病の肺病が悪化。
11/29に喀血し死亡した。
25歳であった。
榎本軍は予てから松前藩兵に対し、降伏した場合は自由行動を許すと布告。
それを実行に移した。
また、榎本軍が福山城その他で押収した什器、宝物などを全て返却。
一物たりとも私有を許さず軍律を厳守させた。
榎本軍の指揮系統が定っていなかったので、アメリカ方式に倣って入れ札(投票)で総裁の選出を行った。
投票総数856票
榎本釜次郎156
松平太郎120
永井玄蕃116
大鳥圭介86
松岡四郎次郎82
土方歳三73
という結果に。
↑尚、不正選挙は無い(笑)
この結果を参考に
総裁 榎本釜次郎
副総裁 松平太郎
海軍奉行 荒井郁之助
陸軍奉行 大鳥圭介
同 並 土方歳三
箱館奉行 永井玄蕃
同 並 中島三郎助
開拓奉行 澤太郎左衛門
松前奉行 人見勝太郎
江差奉行 松岡四郎次郎
が決定。
凌雲の兄古屋佐久左衛門は歩兵頭に任命された。
翌日、兄が隊長をしている衝鋒隊付きの赤城信一という医師が箱館病院に凌雲を訪れた。
赤城は五稜郭を出撃した衝鋒隊と共に福山城に入り、その主力が土方歳三指揮の諸隊と共に江差に進撃後、福山に留まり負傷者を箱館病院に移送する事に努めた。
12/14に五稜郭に帰城。
赤城は会津の町医で会津藩砲兵隊付きの医師として鳥羽・伏見の戦いに従軍。
敗れて江戸に逃れ、更に会津に戻った。
彼は会津藩に加わった西洋医学所頭取松本良順のもとで負傷者の治療に努めた。
漢方医の赤城は松本の西洋医学に基づく手術を始めとした治療法に驚嘆。
その後、松本が会津を去り、赤城は傷病兵約30名を米沢に移送せよ、という藩命を受け米沢藩との国境に。
しかし、米沢藩は既に官軍に降伏。
入国を許さず、同じように米沢に入ろうとしていた衝鋒隊と大鳥圭介指揮の伝習隊も足止めを食っていた。
赤城はそのまま衝鋒隊に属し福島から仙台に入り、負傷者達の世話を仙台藩側に頼み自らは衝鋒隊員と共に榎本艦隊の長鯨に乗った。
佐久左衛門は赤城の治療法が松本良順の教えを受けただけに他の医師とは異なった西洋流で人間的にも信頼が置けると賞賛。
凌雲は赤城を採用する事に。
↑今日はここまで。
歩数計は9124。
充実した一日だった。