2025/7/4金曜日
4時に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず作り。
豚汁を作ろうとしたら味噌が無い。
去年仕込んた味噌󠄀は使い果たした。
昨年12月に仕込んだ味噌󠄀を使おうと味噌樽を開けると、まーた、カビか発生していた。
その部分を取り除き、当座使う分を容器3つに入れたら、前回のようにクッキングシートを貼り、周囲に塩。
今回は真ん中らへんにも塩を撒いた。
ついでに、梅干しの樽もチェックすると、梅酢の中にポツリと白カビが。
今年のわいの梅干しは塩分28%だが。
挑戦してきた。
あと数週間で天日干しをする。
上がっている梅酢が少ないような気がしたので重しを増やした。
やる事やったら、7時過ぎに畑へ。
今日は追加の生姜を植えた。
ついでに、じゃがいもの収穫と水やり。
ズッキーニの株が一つ死にかけていた。

帰宅後、じゃがいもを陰干し。
そして、シャワーと洗濯。
9時半に買い物へ。
11時半に帰宅後、夫に蕎麦を茹でた。
午後は読書と調べ物。
昨日に引き続き吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」
箱館の町の者に場所を尋ね、戸板の列は一路医学所へ。
半年前に箱館府の所属になり箱館府民政方病院と改称されていたが、医師達の姿は無く凌雲は箱館病院として接収。
凌雲は各隊の医師と共に負傷者を運び入れた。
ことに遊撃隊副長杉田金太郎25歳と砲兵指図役諏訪部信五郎19歳の傷は重く、杉田はその日の夜に死亡した。
負傷者を収容した日から混乱が。
負傷者の中には自分の隊の医師の治療を望み、それらの医師は他の隊の負傷者を
診る事が無い。
所属する隊から届けられる薬品はその負傷者のみに使われる。
医師達は漢方医で刀槍による傷の治療は出来ても銃創の手当ての知識に欠けていた。見かねた凌雲が助言をすると不快さを顕にしたり怒声を上げたり。そんな中、榎本から五稜郭に来るようにと書状が。
榎本は凌雲に箱館病院の頭取として治療に從事して欲しいと告げられた。
凌雲は即座に断り、辞退する理由として病院内の混乱を説明。
それでも就任を要請され、引き受ける条件として全権委任を提示した。
榎本は諒承し一筆認めた。
更に会計・事務を担当する事務長として会津藩士小野権之丞を、更に小野の補佐として館山藩士木下晦蔵が配された。
3人で話し合い、小野の提案で病院規則を定めた。
それにより、医務心得、傷病者の取り扱い、看病人心得、違反した折の処置を定め、診療所内に掲示した。
これにより、治療は凌雲を始め専属の医師が治療に当たり、各隊所属の医師の治療は一切厳禁。
隊付きの医師の診療を望む傷病者が居た場合は病院から退去させ隊に引き取って貰う事になった。
各藩所属の医師の中で凌雲の施療を受け入れ助言を求める者も居た。
その者を病院の専属助手にする事に。
会津藩遊撃隊の蓮沼誠造である。
11/6, 農民が6名の負傷者を戸板で運んで来た。
負傷者は箱館府側の守備兵だった。
それは、権判事として箱館府に赴任していた長州藩士堀真五郎の家臣山田梅吉、福山藩士の若江忠平、中島忠三郎、島田吉太朗、天野利忠太、田頃栄之助で、ことに天野は片足が断たれていて重傷。
彼らは農民に助けられ手当てを受け、病院の治療再開を知り農民達によって運び込まれた。
蓮沼は敵方の負傷者である事に途惑いの色を見せたが、凌雲は直ちに病人寄宿舎(入院施設)に運び込ませた。
直後、寄宿舎は騒然。
収容されている負傷者達は敵方の負傷者達が運び込まれた事に憤り。
「戦死した者の仇だ」と刀を手に寝台から離れる者も居た。
凌雲が口を開いた。
「私はこの病院の頭取であり、全権の一切を任されている。患者の入院、退院は全て私の一存で決める。例え敵であろうと負傷者は負傷者だ。私がこの者どもを入院させる必要があると考えたから入れたのだ。この傷ついた者達と一緒であるのが嫌だと言うなら、勝手次第、直ちに退院せよ」
↑凌雲先生、カッコええな。
現代は当たり前だけれど、当時の日本に赤十字の精神なんて無いからな。
やがて彼らは自分の寝台に戻って行った。
凌雲は蓮沼を助手に最も傷の重い天野利忠太の治療に手を付けた。
砲弾で片足が太腿けら千切れていて既に意識は無く喘ぐ様に息をしているだけであった。
その日のうちに呼吸は停止。
福山藩士の中からすすり泣く声が漏れた。
病院の小使い達が棺桶を運び入れ、納棺。その夜は棺桶の前に灯明が灯され線香が立てられた。
翌朝、近くの寺に運ばれ仮埋葬された。
病院掛けの小野が昨日敵方の負傷者を入院させ天野が死亡したと記録した書面を榎本釜次郎宛てに送った。
榎本からは何の異議も寄せられなかった。
五稜郭に動きが。
箱館府守備の諸藩の兵が清水谷公考知事と共に青森に逃れた後、蝦夷に残るのは松前藩の居城福山城(松前城)に籠る600の藩兵のみに。
榎本は武力を使わず交渉で松前藩を降伏させようと使者を立てた。
使者に立ったのは、たまたま横浜から箱館に入港したアメリカ汽船に乗船の桜井怨三郎という松前藩士。
捕虜となっていた桜井に書状を持たせ送り込んだ。
しかし、藩主松前徳広は桜井を節度が無いと憤り、斬殺。
抗戦の姿勢を示した。
それを知った榎本は福山城攻略を決意。
土方歳三指揮の彰義、陸軍、額兵の諸隊700余を10/27に五稜郭から松前に向かわせた。
一方箱館病院ては静かな日々が。
負傷者は徐々に回復。
寝台から離れて歩く者も。
食事は雇った女看病人が整え、負傷者達の食欲も増していた。
凌雲を喜ばせたのは榎本軍の負傷者達が敵方の福山藩士らと打ち解けるようになった事。
凌雲の元には松前に向かった土方隊の戦況が。
兵力、装備共に優れた土方隊は松前藩兵が陣を構える福島を抜き、吉岡峠の要害を撃破。
土方隊にはフランス軍人カズヌープとプーへが加わり戦術の助言。
また、回天、蟠龍の2艦が箱館港を出撃。やがて、海上の回天、蟠龍からの砲撃を得て福山城に殺到。
城代蠣崎民部は城に火を放ち江差方面へ退却。
11/12に松島湾から長崎丸と共に庄内藩応援の為、酒田港に向かった軍艦千代田形が単艦で箱館に入港。
艦長森本弘策によると、酒田港入港時既に庄内藩は官軍に降伏。
その為、千代田形は長崎丸と共に数里離れた飛島の近くに退避し、燃料、水を補給。
積み込み作業中、天候が激変。
長崎丸は錨鎖を切断され押し流され岩礁に触れ大破!
↑まーたDS悪魔(悪魔)が暴れた。
千代田杉は辛うじて沖合に逃れ箱館に帰還。
凌雲は長崎丸は多くの死傷者が出たに違いないと思った。
↑真冬の海やで!
↓このブログによると死傷者は出なかった模様。
えがったー。
武器、弾薬等積み荷も運ひ出したて。
https://enokama.exblog.jp/30124839/
九死に一生を得たな。
17時から夕食作り。
長女の知人からと叔父から茄子を大量に頂いたのでメインは茄子。

焼きナス、茄子の焼きびたし、もろきゅう、梅奴、豚汁、納豆、ローストナッツ、朝の残り、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計の記録は、スマートウォッチが充電されなかったので無し。
昨夜からずーっと充電。
やっと半分充電された。
歩数計の記録が無くても、充実した一日だった。