arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1392日目と畑と高松凌雲⑦

2025/7/1火曜日

4時に起床し皆の朝食作り。

4時50分に畑へ。

 

すると、里芋の畝でデッカイイモムシが待ち受けていた。

 

【閲覧注意】

 

 

里芋の葉を食べ尽くしていた。

昨日に引き続き、フェンネルと今日は更に人参にデカいアゲハの幼虫が。

小学校とかで配った方が喜ばれるで。

6時15分に帰宅後、シャワーと洗濯。

9時45分に買い物へ。

10時半に帰宅後、食材の仕分け。

11時から読書と調べ物。

12時に夫が帰宅し、昼食の冷やし中華を調理。

13時から読書と調べ物。

昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」

 

凌雲は兄の不在の理由を知り、兄は幕臣として崩壊したに等しい幕府の再興を期して動いていると悟った。
思わぬ大変事が起きた時人間の真の姿が浮かび上がると言う。

幕府から恩義を受けた者達の大半は薩長両藩に媚を売り、それは時流に乗る、自らの身を守る最善の方法である。

それとは対照的に存在すら失われた幕府にあくまで忠誠を誓えば必然的に不運に見舞われ生命すら落としかねない。

愚かしい道ではあるがその道を敢えて進むのが人間なのだ、と凌雲は思った。
六郎は江戸市中の状態を説明。
薩長両藩を主力とした諸藩の兵は略奪、強姦の不祥事をしばしば起こし、その為、婦女子は近在に避難。

人心は激しく動揺。

治安は乱れ夜盗が横行。

富める者は襲われ金品を奪われるのみならず家族も殺害されている。

六郎の家にはこれといった財は無いが夕刻には固く戸を閉ざし、刀と槍を抜き身のまま備えてある、という。
凌雲は5/23, 田安家へ水戸行きの願書を提出した。

が、それは却下された。
彼は田安家への往復の途中、官軍の兵が錦旗を掲げ連れ立って歩いているのをしばしば見かけた。

彼らは商家に入って酒を出させたりするらしく、酔いに顔を染め、道一杯に広がって歌をうたい、わめき、大声で笑う。

通行する男を突き飛ばしたり、髷を掴んで囃し立てたりもする。

彼らがやってくると、人々は家の中や露地に逃げ込んだ。
江戸の町民は彼らを田舎者と陰口を叩いたが、江戸は官軍の兵の意のままに。

横暴極まりない彼らに凌雲は激しい怒りを抱いた。
慶喜の身辺に仕える望みを絶たれた凌雲は旧幕臣として幕府再興に身を捧げるべきだと考え、官軍に抵抗する組織の中に入る事に。
目付榎本対馬守(亨三)の家を訪れ仙台に行くことに。
7/14に品川に行き海軍副総裁榎本釜次郎(武揚)に仙台への乗船を依頼。

承諾された。
そんな中、田安家から水戸へ行って慶喜の身辺に仕えることを命じる、という書状が届いていた。
凌雲は迷ったが、既に榎本艦隊に乗船の手筈が整っている。
田安家の使者にそのように説明。
旅支度をしていると弟の六郎が来て、自分も連れて行って欲しいと懇願。
凌雲は承知し、外科器具、短銃などの入った行李を六郎に背負わせ築地の渡船場へ。
凌雲達は小舟で「開陽」丸へ。

そこで、榎本釜次郎と対面。

榎本からは兄の古屋佐久左衛門の消息を尋ねられた。
凌雲は艦内を見学。

甲板に上がり、品川宿の家並みに眼を向けると、陸上には官軍が充満しているのに、榎本率いる艦船に幕臣達が居るのか不思議だった。
↑確かに。

官軍は捕まえないんか?


翌日は激しい雨で船室に閉じこもっていると、長身の男が現れた。

中島三郎助と名乗り「開陽」の機関長に任じられていると言った。
中島はペリーが嘉永六年(1853)浦賀に来航した際、浦賀奉行所与力だったのを偽り、副奉行として、アメリカ艦に通詞と小舟で乗り付け、談判を繰り返した。

その話は広く知れ渡っている。
その後、中島は、長崎に派遣され海軍伝習生となり、幕府海軍に貢献。海軍頭取出役に任じられていた。
中島は榎本釜次郎から凌雲の略歴を聞いた事を口にし、兄佐久左衛門とも親しく交流していた、と言った。
凌雲は浦賀奉行所同心柴田新助と同室に。
↑で、柴田が中島の浦賀奉行所時代の配下だったので訪れた、と。


中島は「この男を可愛がって下さい。馬鹿正直な男で、それがこの男の取り得です。」
と言った。
凌雲は気さくな中島に榎本が今後どのような行動を取るのか尋ねた。
「艦隊を率いて蝦夷〈北海道〉へ向かいます」と答えた。

そして、榎本が軍艦奉行安房守(海舟)を通じて官軍側に「徳川家臣大挙告文」という檄文を送ったと捕捉。
その趣旨は次の通り。

王政復古は一、二の雄藩(薩摩、長州両藩)の私意によるもので、将軍慶喜は朝敵の汚名を負わされ、僅か七十万石の駿府の地に封じられる事になった。

八百万石によって養われてきた幕臣は路頭に迷う以外になく、これら家臣救済の為、蝦夷の地を幕府に賜りたいと願い出た。

しかし、それに対する返事は今もって無く、その為、我らは蝦夷に赴いて開拓に従事し、同時に南進を企てているロシアに対する防備につく。

蝦夷という言葉に、凌雲は、自身は仙台に行くつもりで蝦夷に行くつもりは無いと答えた。
すると、中島は、仙台藩領の松島湾に立ち寄るので、そこで上陸なされば良い、と教えてくれた。
品川を出港した榎本艦隊は嵐に巻き込まれ曳航索が切れたり舵が壊れたりその船の多くが漂流しながらも、次々と松島湾に到着。
開陽、長鯨、千代田形、神速丸、回天、蟠龍。
開陽に曳航されていた美嘉保丸は曳航索が切れ漂流した後、観音崎岩礁に乗り上げ座礁

一度は離礁したがその後、再び犬吠埼北方の黒生(千葉県銚子市)附近の岩礁に吹き付けられ座礁

乗っていた614名は陸に逃れたのち、美嘉保丸は沈没した。
悲惨だったのは、咸臨丸。
回天に曳航されていたが嵐により観音崎岩礁に乗り上げた。

一度は離礁するも、曳航索が切れ漂流。

同じく嵐により伊豆の下田港、更に清水港に入港した蟠龍はそこで咸臨丸と邂逅。

そこで機関を修理した蟠龍は11日夜に出港。

大破し航行不能の咸臨丸は官軍により拿捕されそうになった。

が、それに抵抗した副長春山弁蔵以下十余名は殺害され海中に投棄された。
↑哀悼。
あれか、清水次郎長親分が埋葬してくれたやつか。


9/3, 榎本釜次郎は仙台の青葉城内で開かれた奥羽同盟列藩の会議に出席し徹底抗戦を唱えたが9/12に藩主伊達慶邦は全藩に降伏謝罪宣言。
9/8, 慶応から明治に改元
9/14, 西軍は会津若松城を総攻撃。
榎本艦隊と仙台藩は敵同士に。
仙台藩は早いとこ松島湾から去って欲しいと、開陽の舵を作るのに必要な資材を提供。
更に、燃料の木炭十万俵、薪五万本を提供。
また、米千俵、味噌二百樽、塩150俵、鯣三万枚、鶏卵三万個等多量の食料と十匁蝋燭三万本、漆器一万人分などの生活具も提供した。
松島湾には思いがけず幕府の輸送船「長崎丸」が碇泊。

船将古川節蔵は西軍と戦う事を決意し6月に品川沖を単独で脱出し松島湾に入っていた。
榎本は古川に戦意を確認。
長崎丸を榎本艦隊に編入した。
更に松島湾口の寒風沢には仙台藩が幕府から借りた大江丸と鳳凰丸も碇泊。
仙台藩はこれらの船の返却に異存は無く、榎本は二隻を加え、艦隊は九隻となった。
同じく官軍に徹底抗戦をしていた庄内藩から榎本艦隊へ援軍の依頼が。

榎本は長崎丸に陸兵70余名を乗せ千代田丸を護衛艦として出発させた。
直後、艦隊は停泊地を牡鹿半島の基部の牧ノ浜に移動。
仙台の周辺には仙台藩の降伏で行き場を失った会津等の戦場で敗れた幕兵らが参集。
まず、歩兵奉行大鳥圭介率いる旧幕府正規軍の伝習隊825名が開陽に乗艦。
次に衝鋒隊400余名、彰義隊残党185名、遊撃隊、新撰組(残党)、会津脱藩兵によるに会津遊撃隊、仙台藩高田藩の徹底抗戦を唱える額兵隊、神木隊が各艦船に分乗。

総数は2361名に達した。
また、フランス軍事顧問団の歩兵下士官マルラン、ブッフィエ、砲兵下士官フォルタンの3名も乗艦。
伝習隊員が開陽に乗ってきたのは10/10。
その日の夜、凌雲は同室の柴田の次男の死を知った。
2人の息子が伝習隊に属し会津方面に向かった事は知っていた。
乗ってきた隊員の中に長男の真一郎の姿を発見。
彼から弟が6/28に奥州泉の戦いで戦死した事を聞いた。
柴田は、「老妻に、私は言いました。この息子たちは、私一人の子ではない。お前との間に出来たのだから、一人だけはお前のもとに残しておきたい。しかし、御公儀にお仕えしてきたわれら父子にとって、今は命の捨てどころだ。よくよく考えた上でのことだが、どうか私に二人の子をくれろ、と言いました。老妻は、もとよりその覚悟だと言って承諾してくれましたので二人の息子を連れて家を出たのです」と語った。
柴田は浦賀奉行所同心という軽輩の身でありながら榎本艦隊に投じて死地に赴こうとしている。

↑今日はここまで。

 

16時に雷雨の為、呑み会に行く夫を駅まで送迎。

帰宅後、早く帰宅した長女と残り物で夕食。

昨夜以来の食事をウォッカ梅酒ロックと共に美味しく頂いた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は7822。

充実した一日だった。