2025/6/30月曜日
5時過ぎに起床。
5時半に畑へ。
フェンネルに害虫一杯居て、オバチャンびっくりよー。
何せ初めてのフェンネル栽培。



調べると、害虫としてアゲハの幼虫とかがあると書いてあった。
それにしても大量だったな。
害虫駆除して、草取りして、水遣りしたら6時45分に帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
やる事やったら9時過ぎから読書と調べ物。
昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」
徳川昭武一行は11/6, イギリスに上陸。
9日にヴィクトリア女王に謁見。
10日から新聞社、銀行、造幣局、兵器廠を視察。
軍事施設は砲台、軍艦、造船所などを見学。
昭武の評判は高く、造船所を訪れた折の記事は「この若い殿下と接した造船所の技師達は通訳(シーボルト)を通じて殿下が発した質問の鋭さに感嘆した」と記した。
↑ありゃー!
あんまり優秀だと奴らに目付けられて暗殺されるで。
11/22にパリに帰着し一行の各国巡歴は全て終了。
昭武は留学生として勉学に専念。
留学生として洋服を着、丁髷も切り靴を履き断髪。
随行の者達も水戸藩士を除いて全員髷を切った。
昭武身辺護衛の任に就いていた彼らのうち井坂、加治、皆川、服部らは、山高から今後は帯刀を一切許さぬという指示に憤激し帰国願を提出。
受理された。
凌雲はオテル・デュウ(パリ市民病院)という医学校を兼ねた病院への入学許可を得た。
向山は博覧会と各国巡歴も果たしたので外国掛の箕作貞一郎、日比野清作らと帰国の途に。
12/15に向山らの帰国の送別会で御傅役の山高とヴィレット中佐との対立が表面化。
山高は食卓の上席を日本人に占めさせヴィレット中佐を末席に座らせた。
宴席は異様な空気に包まれ、中佐は怒りに堪え切れぬように視線を落とし食事にも手を付けなかった。
↑人の送別会を台無しにするとか、信じられんわ。
送別会後に中佐は席の事で山高に抗議。
フランス国王の命を受けた教育掛として上席に座る資格があると主張。
山高は日本人の向山の送別会であるのだからとやかく言う筋合いは無い、と譲らなかった。
向山の帰国決定と同時に駐仏日本全権公使は痔で入院中の栗本に交替。
栗本は事情を知っていたが昭武に関する事は自分の権限外であると返答。
その後、幕府から栗本に昭武の御傅役も兼ねるよう命令書が送られ山高は御傅役を罷免され留学生取締に任じられた。
慶応4年1月1日、幕府から書状が。
去る慶応3年10月14日、将軍慶喜が政権を朝廷に返還した事が記されていた。
1/5, 凌雲と木村宗三は山高の部屋に呼ばれ、留学生としてのお手当金二百フランを毎月御下賜下さる故、館外に居住し勉学に励むようにと、言われた。
2/28, 現地の新聞で「日本カラノ情報ニヨルト、大君(将軍)ハ、大名達ト戦ッテ大敗シ、江戸二逃ゲタ。」と知らされた。
4/24, 凌雲らは帰国の途に。
凌雲は江戸に居る兄古屋佐久左衛門の事が思われた。
佐久左衛門は凌雲が一橋家に医師として仕えている間に江戸下谷御徒町に転居し英学塾を開き数百人の塾生に教授。
イギリスの兵術に興味を抱き沼間新次郎、益田徳之進と共に「英国歩兵操典」「歩兵操練図解」を翻訳。
彼は歩兵指図役に任ぜられて歩兵の調練に当る傍ら、故郷の久留米藩の依頼を受けイギリス商人ハリソンに交渉し、軍艦購入の斡旋もした。
5/17, 横浜港に到着。
帰国団は江戸の情勢が判らない。
船にやって来た幕府の正規軍である騎兵伝習隊に属す細谷安太郎に上陸しても危険は無いかと尋ね、波止場に近いフランス公使館に行く事を勧められた。
が、公使はロッシュからウートレーに替わっていて協力的では無かった。
そこで仏蘭西語学伝習所へ身を落ち着けた。
そこでの話し合いで、そこで解散する事に。
翌日凌雲は木村と官軍の兵を警戒しながら神奈川宿の宮元河岸、川崎宿と移動。
江戸で木村の青山南町の家に泊めてもらい、次に目付役の白戸石助の家へ。
そこで、帯刀していると官軍に訊問されると忠告。
そこを辞すると田安家へ出向き仏蘭西からの帰国の届けを提出。
主君にも報告したいと、慶喜が穏退する時、水戸へ送って行った浅野美作守(氏祐)を尋ね、慶喜公へ医師として仕えたいので斡旋を宜しくお願いしたいと伝えた。
浅野の家を出た凌雲はこれで公務の報告を終えたので、兄古屋佐久左衛門の消息を確かめる事に。
兄の家に向かうと出てきたのは末弟の六郎。
六郎は凌雲が日本を離れて間もなく佐久左衛門に招かれ江戸に来て英語を学んでいたと言う。
家族は郊外に避難中。
佐久左衛門は8月に軍艦役並に任命され軍艦役榎本釜次郎(武揚)ともとで築地の海軍伝習所に勤務。
イギリス海軍の書物を参考に伝習生に教授。
慶応4年正月3日の鳥羽・伏見の戦いの時には江戸に居た。
が、敗走した幕兵が続々と引き返してきた。
彼らの規律は乱れ、収容する場所は少く食料も不足がち。
2/4, 三番町歩兵屯所の伝習隊員四百余名が脱営。
高田馬場で集合の上、八王子へ。
続いて7日夜、第十一、十二連隊を中心とした諸隊の兵約五百名が、江戸火消しの小頭藤吉の扇動で下士官を殺害し脱走。
千住方面へ走った。
↑まーた、薩摩藩が陽動作戦やってないか?
調べる!
彼らは会津へ赴き徳川家の再興を計ると称していた。
これを知った佐久左衛門は彼らを追う事にし野州佐久山(栃木県大田原市)で追いついた。
その地で脱走兵達は真岡代官山内源七郎配下の者の激しい攻撃を受けていた。
山内は脱走という不法行為を犯した彼らが良民を殺傷し、略奪、暴行を働く恐れがあると考え、一人残らず討ち取ろうとしていた。
佐久左衛門は山内に暫しの猶予を求め、脱走兵を説得。
降伏するよう説得したが脱走兵の指揮者藤吉は拒否。
家老の西郷頼母が家臣を遣わし説得。
これにより藤吉は佐久左衛門に身柄を託す事を承諾。
しかし、藤吉は脱走時に下士官を殺害した首謀者でその罪は重く、斬首してその首を差し出さなければ真岡代官は承服しない。そのうち脱走兵の中で佐久左衛門達を口汚く罵る者が居た。
佐久左衛門は斬りつけ首を落とした。
佐久左衛門はその首を藤吉として代官に渡す。
佐久左衛門達の勢いに藤吉達は恐れをなし、帰順の態度を示した。
佐久左衛門は藤吉に書かせた謝罪状を首と共に携え真岡代官の元へ。
彼らは会津に行って旧幕府の為に戦おうとしている真情を訴え、彼らの身柄を任せて欲しい、と要請。
佐久左衛門は脱走兵達が食物に事欠き、良民から金品を奪う恐れもあるので、代官から千両を借り受け兵達に分け与えた。
更に、厳しい軍規を定め、違反する者は容赦なく死罪に処すると伝えた。
帰順したのは370名。
鉄砲三百余挺を押収した。
佐久左衛門は彼らを従えて道を引き返し、武州忍藩に預け、天野と横山を取締役として残し2/24江戸へ戻った。
その足で幕府陸軍局に赴いて経過を報告。脱走兵を組織し信州・上州方面の鎮撫を行いたい、と請願。
陸軍局は佐久左衛門の功を賞し歩兵頭に任じ、新たに第六連隊の歩兵約六百名と大砲三門を与え、信州中野(長野県中野市)の幕府直轄領(二十四万石)の確保を命じた。
佐久左衛門はこの成果を喜び、同志の今井信郎、内田庄司と共に六百の兵を率いて3/1に江戸を出立した。
※佐久左衛門は天野新太郎、楠山兼三郎、柳原三郎と共に脱走兵を追い掛けた。
真岡代官山内源七郎は諒承し首を佐久山陣前に晒し、捕えた七名を釈放。
↑凌雲のお兄ちゃんの佐久左衛門のリーダーシップ、凄ないか!?
時勢を見て英語を学び、凌雲にも英語の習得を勧めていたのが、一転、旧幕府兵を纏める武将になった。
人によって、医師高松凌雲より武将古屋佐久左衛門の方が有名だと思うわな。
この時まだ30代の若さよ。
このあと、箱館戦争で37歳で戦死するから残っている写真の佐久左衛門は若い。
素晴らしいお兄ちゃんよ。
今日はここまで。
12時に蕎麦を調理。
自分も蕎麦を食べたくなったので久し振りに夫と一緒に昼食。
競うように食べた(笑)
午後も読書と調べ物。
17時から夕食作り。

縞ホッケ、焼き芋、わらび舞茸炊き込みご飯、黄金たもぎ茸の味噌汁、ミズの昆布漬、キュウリとミョウガのQちゃん漬風、おからサラダ、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
これに納豆も食べた。
良く呑み良く食べた。
昨日直売所で買ってきた黄金たもぎ茸の味噌汁、味がしてめっちゃ美味しかった。
後片付けを゙済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は6214。
充実した一日だった。