arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1390日目と畑と高松凌雲⑤

2025/6/29日曜日

4時に起床し皆の朝食作り。

4時40分に大を催しトイレへ行くと、そこで生みの苦しみを味わされた。

工作員がウンコを出させてくれない。

奴らは人の排泄をコントロールする変態だと知ってはいるものの、すんでで止める。

それを電磁波攻撃でやるものだから、こちとら汗びっしょり。

奴らの目的はわいを早朝から畑に行かせない事。

何故かと言うと、地域の危険人物が毎朝早朝から畑で農作業するて、色々と設定がおかしいわな。

だから、行かせたくない。

その為に、ウンコが出る出ないの瀬戸際で留めるんよ。

凄いテクノロジーよ。

よく、創価学会が、これをやる、て言うけど、宗教法人がこんな、ウンコを瀬戸際で止めるハイテクノロジー所持しているんか?

もし、そうなら、それは最早宗教法人やない。

軍事法人よ。

これ、軍事兵器やで。

Militaryが供給してるに決まってるやろ。

 

5時半に畑へ。

嫌がらせを受けつつもアメとムチの政策で収穫はさせて貰っている、

6時15分に畑を後に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

ベランダガーデニングの水遣りも済ませたら、昼食と夕食作り。

まずは、昼食に焼きそばと炊き込みご飯とスープを用意。

そして、夕食用のミズの炒め物、ミズの昆布〆、紫蘇つくね、キュウリとミョウガのQちゃん風漬物、タタキゴボウを調理。

 

夕食の準備が終わったら12時から次男の運転練習にお付き合い。

自分が行きたい所に連れて行ってくれるというので、直売所をリクエスト。

レンタカーを借りたら出発。

先ずはときがわ町の直売所へ。

次に、小川町の直売所へ。

新鮮な野菜や特産品を購入したら帰路に。

 

16時45分にレンタカーを返却。

急いで帰宅するとお孫ちゃん達は入浴中だった。

急いで、夕食の配膳。

17時半から夕食。

お皿は長男が洗ってくれた。

そして、19時に帰って行った。

ありがたく、読書と調べ物。

 

昨日に引き続き吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」

 

教育に先立って昭武の各国歴訪の予定が組まれていた。
多額の旅費を要するので向山は世話役のフランスの日本名誉総領事エラールとフランス帝国郵船会社のクレーに十万ドルの融通を依頼。
クレーは前年の6月に経済使節として日本を訪れ、勘定奉行小栗上野介との間で日本の生糸を独占輸入する事を条件に、六百万ドルの借款契約を結んでいた。
↑これって、何気に重大情報じゃね?
幕府が倒された後、この契約はどうなったのか非常に気になる。
あと、フランスとの契約たけど、ドル建てなのな。
向山は小栗からフランスに渡って資金が必要になった場合、エラールを通してクレーに申し込めば、借款の一部を渡してくれる、と告げられていた。
しかし、意外にもエラールは申し出に応じられぬと回答。
驚いた向山は会計担当の渋沢篤太夫(栄一)をエラールの元に行かせて交渉させた。

が、結果は同じ。

クレーは借款契約は既に破棄されていて融通は一切出来ぬという。
↑びっくりしちゃうね。
いつの間に破棄されたんだか。

 

困惑した向山は幕府と取引のあるオランダの貿易会社に5万ドルを、イギリスの銀行に5千ポンドの融資を申込み、了承された。
歴訪は旅費節約の為、随員の数を限定し、通訳としてシーボルト随行
向山は博覧会での薩摩藩の工作や旅費の捻出で苦労した事を記した書簡を随員の杉浦愛蔵と山内六三郎に託し幕府へ送った。
スイスへ向けて出発する前日に、勘定奉行に昇進した栗本鋤雲がパリに向かっていると電報が届いた。
幕府は薩摩藩側の工作で新聞に将軍が日本の支配者ではないという記事が載せられた事を重視。

それを修正する為、随一のフランス通である栗本を至急パリに派遣。

また、昭武一行が旅費調達に苦しんでいる事を知り、栗本に託した書簡で各国への巡歴中止を指示していた。
8/6の夕刻、昭武一行はスイス領ベーツ(バーゼル)に着き、翌日首都ベルンに。8/8, 大統領に謁見。
翌朝は蒸気車でツーロンに行き3千人の兵による軍事演習を見た。

11日にジュネーブで著名な時計工場を見学。

その工程に感嘆した昭武は時計1個を購入。
その旅行中、イギリス外務次官ハモンドから随行の通訳シーボルトへ秘密の書簡が。
昭武一行がフランス不信に陥っているのをシーボルトの内報で知ったイギリス外務省は離間工作をしイギリスに強く引き付ける作戦に。
8/13夜、首都ベルンで栗本と面会。
書簡には各国歴訪を中止せよ、という指令があった。
が、向山と山高は「既に歴訪予定の国々は旅程その他を書面によって伝えてあります。先方での都合とこちらの予定を引き合わせて決めた事であり、それらの国々では受け入れ準備を整えて待っております。それを当方の勝手で突然中止といたしますれば、これまでの各国との友好関係に亀裂が生じる恐れがあると考えられます」と言った。
栗本は「この御直書は五月二十七日に公方(慶喜)様がお認めになられたもので、既に2カ月が経ち、昭武様に届けるのが遅れ過ぎた感がある。事情は良くわかった。旅費の件も一応解決しているとのことであり、予定通り各国を御巡歴なされたら良い」と言った。
栗本は次に幕命を口にした。

万国博覧会での薩摩藩側の工作によって国体が誤解されたのは許し難い重大事。

幕府はフランスを初め西欧諸国に幕府が日本の唯一の主権者であるのを周知徹底させるよう栗本に厳命。
栗本は向山に「旅中ではあるが、向山殿は日本の全権公使であり、パリに行ってこの問題解決のため私と共に御尽力頂きたい」と告げ向山は即座に承諾。

16日に一行を離れ栗本と向山はパリへ。

昭武一行は山高を引率者とし次の訪問国オランダへ向け出発した。
オランダは鎖国時代に唯一貿易が許された国であるだけに国王との謁見は和やかな雰囲気に。

ダイヤモンドの研磨工場を見学したり、海軍施設、軍艦を視察したりした。

その間に渋沢篤太夫はオランダの銀行から五万ドルを借り受けていた。
8/27, ベルギーの首都ブリュッセルへ。
国王レオポルド二世の謁見が行われた。

昭武一行は連日、要塞を始め鉄砲鋳造場、硝子板製造場を視察。

硝子板製造場について凌雲は「数百の工夫工女は工場外に整列し、役員は礼服を着し、奏楽ありて歓迎せり。工場に入れば、我為に製造を始めて縦覧せしむ。其製造の巧妙なること幅五尺長九尺許の硝子板を僅々十分間余にして製す。且其琢磨する装置の軽妙なる実に感服に堪えざるなり」と驚きを日記に記している。
9/12夕方パリへ帰還。
そこではフランスに好意を抱く栗本と不満を持つ向山が通訳になっていないカションと通訳になっているシーボルトを巡り激論を交わしていた。
向山と山高はカションが薩摩藩側と結び付き幕府に不利な投書を新聞に行ったことや、シーボルトが数ヶ国語を話せる事を主張し栗本を黙らせた。
シーボルトはイギリス政府に今後も情報を報告出来ると伝えた。
9/24, イタリアの首都フローレンスに到着。
↑首都ローマじゃ無かったのな。

 

3日後に国王に謁見。
9/29の夜にイタリア駐在イギリス公使館の一等書記官がホテルに山高を訪れイギリス領マルタへ来て欲しいと口頭で伝えた。
10/3にはイギリス公使が自ら訪れイギリス女王の命令により一行をマルタ島に招待したいと言う公式文書を山高に手渡した。
軍艦を迎えによこすという。

山高は昭武の諒承を得た上で公使の申出を受諾。
↑何でマルタ島

もしかしてマルタ騎士団に入れようとしてる?

フリーメイソンの!


10/11(笑)朝、軍艦「エンデミーヨン号」はマルタ港に入港。

10/13にはマルタ島駐屯の兵4千による観兵式が行われ昭武は陣羽織、烏帽子姿で閲兵。

その夜は大パーティ。

凌雲は日記に「真に天涯万里の客(旅)情を慰むるものと云(う)可し」と記した。シーボルトはイギリス外務省にマルタ島への招待が一行を親英派にさせるのに著しい効果ごあったと内報。
一行がマルタ島を旅している間に栗本と向山の対立は激化。

結局、向山は上司の栗本の主張に屈服。

イギリス訪問を終えるまでシーボルトを残す事を条件に、その後はカションを受け入れる事に。

随員の削減には賛成。

凌雲は医学修業に、大御番格砲兵差図役頭取勤方の木村宗三も砲術修業に専念する事に。

↑ネットが無い時代の海外視察は大変だったのな。

今日はここまで。

 

歩数計は8011。

充実した一日だった。