2025/6/27金曜日
4時に起床し皆の朝食作り。
5時半に大分出張の長女を駅まで送迎。
帰宅後、シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水遣りとサワークリームの材料をヨーグルトメーカーにセット。
8時半に買い物へ。
10時に帰宅後、食材を仕分け。
10時半から読書と調べ物。
昨日に引き続き、吉村昭著「夜明けの雷鳴〜医師高松凌雲」
幕府は条約を締結した諸外国の中でフランスと固く結びつきそれを不動の政治方針としている。
その為に万国博覧会参加への勧めにも応じた。
↑それは、幕府を貶める罠だった、と。
フランス側の冷淡な態度は許し難かった。
2ヶ月に渡る船旅でもお世話係として長崎フランス領事デュリーが同行したが随員に近づく事もせず少しの世話もしない。
↑長崎フランス領事デュリーは給料泥棒。
対照的にイギリス公使館付通訳官のシーボルトは随員達の身辺の世話を小まめにし凌雲達も向山も深い信頼を寄せていた。
外国人として唯一信用出来たシーボルトはパリ到着と同時に解雇の予定だったが、イギリス政府の了解を取りその後も随行する事に。
向山も幕府にデュリーが少しの世話もしないがシーボルトは手足のように働いた。
彼は英仏語以外にスイス、オランダ、ベルギー語も心得ているので役に立つので解雇しない事にしたと伝えた。
↑裏ではみんなお手々繋いでるんだけどね。
デュリーの行動も、シーボルトの行動もこのように仕向ける為の工作活動。
3/19, 徳川昭武一行の筆頭外事担当者である向山隼人正はフランス外務大臣ムスチエと面談。
その際、3/24の午後2時に国王ナポレオン3世が昭武に謁見する用意がある、と告げられた。
これは昭武が国賓として待遇される事を意味する。
向山は昭武の御傅役山高石見守と話し合い、通訳は保科の担当とした。
それをムスチエに伝えると昭武一行の随行者としてシーボルトを加えたいと返答が。シーボルトの父フランツ・フォン・シーボルトは日本にオランダ商館医官として滞在中、日本地図を持ち出そうとしてシーボルト事件を起こし国外追放された。
帰国後、屈指の日本通としてヨーロッパ諸国の首脳と交わりナポレオン三世の信頼も得ていた。
その日、一便遅れで日本を出発した駐日フランス公使館付通訳官のカションがパリ入り。
彼は公使ロッシュから昭武一行の各国との公式協議一切の通訳にあたると共に昭武の教育にも從事するよう命じられ、その意向は幕府へ要請され老中達も承認していた。
カションはなんにも仕事をしないデュリーから解雇予定だったシーボルトを改めて雇入れ謁見の儀にも参列(←これは仏政府の意向な)謁見の通訳は保科が担当するのを知り激怒。
↑来るのが遅いからやろ。
カションは田辺に猛抗議。
それを聞いた向山と山高は不快感を顕に。薩摩藩の博覧会問題でフランス側の冷淡さを知って機嫌を損ねた向山達は会場を見学し幕府の展示所が極めて狭く日本から運んで来た品物の半ば近くが展示出来ない事に不満を抱いていた。
更に、カションは日本に居た時からその言動は傲慢で、本来は宣教師で、昭武の教師となればキリスト教を吹き込む恐れがある。
↑宣教師で傲慢とか。
謁見の儀でも通訳をカションに任せたくは無く、しかし、フランスとの友好関係を損なう恐れもあるので、話し合いの結果、昭武の言葉は保科がフランス語でフランス国王に、国王の言葉はカションが日本語に訳すことに定めた。
謁見の儀に関してもう一つ難題が。
ヨーロッパでは功績があった者に勲章が与えられる。
早目にヨーロッパに乗り込んだ薩摩藩は準備済だが、昭武一行には無い。
早急に作るよう幕府に上申書を送った。
昭武は3/24に何事も無く謁見を済ませ各種行事にも参加。
3/26からは万国博覧会会場に赴く事を繰り返した。
凌雲も随行。
医療器具を熱心に見て回ったり、幕府から出品された展示品に対する人々の反応を観察。
80種類程の和紙が出品されたが洋紙とは比べ物にならない世界一の神秘な紙として評価されていた。
見物人達は和紙に手を触れ感嘆の声をあげていた。
また、金銀蒔絵の漆工品の前にも多くの群衆が。
幕府が高級品を吟味して出品した事もあり鶴亀、松竹梅、富士山、龍などの図柄が新鮮な物に感じられているようであった。
漆工品の前にはいつも絵師らしい男が真剣な眼をして模写していた。
新聞には、和紙、漆工品、伊万里焼が他に類を見ない秀れた物であると絶賛の記事を載せていた。
更に、会場で思わぬ人気を集めていたのは日本家屋。
商人の清水卯三郎は手代の吉田二郎他、善八という腕の良い大工を含む手伝い人四名と芸妓三名を先発させていた。
パリに着くと吉田が材木を手配。
善八が会場内に水茶屋風の日本家屋を作った。
総檜作りで6畳間と土間があり厠も附属。土間には茶道具と古味醂酒が置かれ、注文した者は緋毛氈を敷いた縁台に座ってそれを口にするようになっていた。
この水茶屋は新聞に細密な絵入りで大きく紹介されていた。
凌雲は山内文次郎の助けを借り記事を読んだ。
冒頭に、この日本の家屋は博覧会珍物の随一である、と記されていた。
家屋は茶屋を模した物で彩色した紙製の提灯が垂れ、屋根は松の薄い板が竹で固定され、その上を藁で葺いてある。
茶屋の外には松の薄板に竹を取り付けた塀があり、中庭には様々な日本の人形が飾られ、入り口には飯台が置かれ、そこで茶や酒を客に供している。
座敷には、おすみ、おかね、おさとと言う名の美しい婦人が座っていて、独楽のようなものをまわしてり、細い管で煙草を吸ったりしている。
一度吸うと毛のように細く刻んだ煙草の葉がたちまちなくなり、何度も煙草の葉を詰め替えて吸う。

この日本家屋を一時間も見れば、少しの苦労もなく日本に旅をする事が出来た気分になる、と結ばれていた。
日本家屋と芸者https://inoparis.com/paris-exhibition-1867-japan/
↑日本の展示品の評価の高さに驚いた。
今日の昼食は夫は自分で作る、というのてお任せに。
午後も読書と調べ物。
17時から夕食作り。

蜆の味噌汁、海老粉の卵焼き、玉ねぎサラダ、納豆、味噌漬けの鶏肉焼き、海老カレー、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
今夕は老夫婦のみなのでこんなもんで十分。
19時に昨夜以来の食事をする事に。
歩数計は5964。
充実した一日だった。