2025/6/25水曜日
4時に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず作り。
雨なので畑と洗濯はお休み。
8時半から読書と調べ物。
今日からはこの本。

幕末から明治にかけ活躍した医師・高松凌雲に関する本。
読もうとしたきっかけは、津軽藩士が松前藩士等と共に箱館戦争に於いて、旧幕府軍の病院を襲撃。
入院患者達を斬殺したり火を付けて焼き殺した、という事件を知り、真実を知りたいと思い読み始めた。
が、冒頭から高松凌雲の生き方に魅せられ、夢中になって読んでいる。
まずは、その出自から。
この本の主人公・高松凌雲は天保七年(1836)12月25日、筑後国御原郡古飯村(福岡県小郡市)の庄屋の家に生れ幼名を権平、のちに荘三郎と改めた。
17歳の時に隣村の庄屋見習いになったが庄屋になる事に不満を抱き、20歳で久留米藩家老の家臣家臣川原弥兵衛の養子となり武術を修め漢書に親しんで家老の小姓にもなった。
が、安政六年(1859)に三歳上の次兄勝次が医師を志し勉学に励んでいる江戸へ向かった。
勝次は江戸で極貧に喘ぎながらも漢学、算術、蘭学を学び、それに感嘆した旗本川勝広業が娘の婿養子を探していた御家人の古屋久左衛門を推薦。
養子縁組をし鐘之助と改めていた。
古屋鐘之助となった兄を探し当てた荘三郎だが、乞食同然の身なりで現れた弟に婿養子になったばかりの鐘之助は困惑。
しかし、義母は容貌が似ている事に兄弟と見抜き「弟であるならば家族同然。いつまでも我が家に逗留するが良かろう」と家に引き入れた。
荘三郎は安政六年(1859)8月に医師石川桜所の門に入り書生として住み込んだ。
そこで蘭書を借りて読みオランダ医学の勉強に努めた。
安政七年(1860)3月3日、桜田門外で井伊直弼が暗殺され江戸市中は騒然とした。
翌文久元年(1861)荘三郎は石川の許しを得て大坂の蘭方医緒方洪庵の適塾に入門。
郷里の父に頼み塾費として毎月一両を送ってもらった。
が、翌年、緒方は幕府に召され江戸に行き奥医師兼西洋医学所頭取となり塾は閉鎖に。
荘三郎は親しい医家の柏原学而と共に江戸に出た。
兄の鐘之助は古屋家を継ぎ、荘三郎は兄の家に居候。
兄の鐘之助の学問に対する情熱は更に増していて、安政六年七月には蕃所調所教授職手伝小野寺丹元の門人にとなってロシア語を、更に翌年4月から宍戸荒之助の門に入り英語を学んだ。
英語についてはオランダ語より重要であると考えその習得に努めた。
結果、神奈川運上所の通弁となり、荘三郎が江戸に入った頃には佐久左衛門と改名し神奈川の英学所教授方助に就任。
英学所は英語を重視した幕府が設けた公的機関でアメリカの宣教師ヘボンら外国人が教授していた。
荘三郎は兄の勧めで英学所の学生に。
慶応元年五月、荘三郎は第二次長州征討へ向かう将軍家茂に随行した師の石川桜所に従い京都へ。
そこで、石川の推挙で一橋家に医師として抱えられていた友人の柏原学而の旅宿に入った。
荘三郎の学才を知った一橋家は表医師として招聘。
それを機に凌雲と改名した。
10/10には御医師並、翌年8月には主人慶喜の徳川宗家継承により幕府医官に。10/22に老中板倉勝静の達しで奥詰医師に。
更に、師石川の推挙によりパリの万国博覧会へ慶喜の名代として参加する徳川昭武の随行員に選ばれる栄誉に。
出発の準備に忙殺されていた12/25, 孝明天皇が崩御。
36歳であった。
慶応三年(1867)正月3日、昭武と随行員は慶喜に挨拶。
慶喜は昭武に「万国博覧会に出席後、条約を結んだ各国を歴訪する事。終了したらフランスに留学する事。我が国の情勢が急変した事を聞いてもみだりに動揺せぬよう」とたしなめた。
翌正月4日、兵庫を出帆。
横浜でフランス郵船の蒸気船「アルフェー号」に乗り換え1/11に出港した。
船旅にも慣れた2/4から昭武を始め随員はフランス語の習得を開始。
教授は随員の保科俊太郎と山内文次郎。
2人は2年前に開設された仏蘭西語伝習所の第一回卒業生。
幕府は横須賀造船所建設の為、フランスの海軍技師ベルニーラら30余名と軍事顧問団シャノワーヌ大尉ら15名の将兵をフランスから招聘するのに備え幕府の子弟にフランス語を習得させようと考えた。
フランス公使ロッシュと親仏派の勘定奉行小栗上野介、目付栗本鋤雲が協議。
慶応元年春に横浜村に二階建ての立派な校舎を建設。
教授陣はフランス公使館付通訳官カションを始め公使館の武官、書記官など9名。
フランス語に精通し渡仏経験のある通弁の塩田三郎が助教となっていた。
昭武の渡仏に際し卒業生の中からカションの推挙により俊英の保科と山内が随員に選ばれた。
1/11に日本を出発した一行は3/6にパリに到着。
グランド・ホテル・パリに入った。
万国博覧会は既に2/27(洋曆4/1)に開会。
パリ滞在中の外国奉行柴田剛中が幕府が送り込んだ品々を整理し会場に展示。
彼は横須賀製鉄所建設の打ち合わせでフランスに来ていたが幕命で博覧会への出品実務も担当。
↓ここで大事件が!
3/13, 柴田の案内で、駐仏全権公使に就任が予定されている随員の外国掛筆頭向山隼人が博覧会場へ足を運ぶと思いがけぬ物を会場で眼にし顔色を変えた。
な、な、な、何と、
薩摩藩が会場の一劃を借り受けて漆器、陶器、繊維品など多量の品々を展示していた!!!
その個所に琉球国王として薩摩藩主松平修理大夫(島津茂久)の名が記された標識が出されていた。
更にその傍らに薩摩藩の家紋である丸に十字の印が染め抜かられた大きな旗が掲げられていた。
↑何と、薩摩藩はこの時、既に独立国(琉球王国)だったとは。
わいは知らなかったで。
新事実。
今日はここまで。
夫は昨日呑み会で飲み過ぎてお腹か減っていないから昼食は要らないそうだ。
午後も読書と調べ物。
16時になると日が出て来た。
取り敢えず洗濯をする事に。
そして、夕食作り。

納豆、ピーマンの肉詰め、塩焼きそば、朝のお弁当の残り、じゃがいもとイカのガーリックバター炒め、味噌汁、ご飯、サラダ、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は3734。
充実した一日だった。