2025/6/24火曜日
5時に起床し畑へ。
ズッキーニが成長していた。

茄子の苗を移植し、水遣りをしたら畑を後に。
6時過ぎに帰宅後、皆の朝食作り。
雨が降ったり止んだりなので洗濯は薄手の物のみ洗って干した。
9時にお孫ちゃん達とお出かけ。
みぬま見聞館へ出掛けた。
9時半に到着。
ここは以前2回訪れた事がある。
オバハン1人で。
1度目は見沼代用水西縁のサイクリングロードの休憩として。
2度目は半夏生を゙観に来た。
建物内に水槽や昆虫ケース等があり、2階の展示物は結構なボリュームがある。
雨が降っても屋内で過ごせるし、雨が降っていなかったら自然庭園を散策出来る。
まずは、建物内へ。
特に蛍は卵、孵化したばかりの幼虫、1年経過した幼虫、土中の蛹等、何段階もで飼育。
更に暗室に入ると蛍5匹が点灯しているのを視認。
数年ぶりで蛍を見たので感動した。
上の孫も興味深く見ていた。
2階でも、望遠鏡やパネル展示等があり、ずっと楽しんでいた。
更に奥の方にはビデオ上映コーナーもあり、4人で見沼の自然について学んだ。
孫達は図書コーナーで絵本を見つけ見入っていた。
10時半に外へ。
まずは東屋でおやつ。
食べ終わったら、自然庭園へ。
気温は上昇していたけれど、木陰なので涼しく過ごせた。
雨上がりだからか、そこは中にだんご虫とワラジムシ。
上の孫は興味津々にしゃがんで観察していた。

お孫ちゃん達と撮影しようとしたがサッサと行ってしまった。
11時を過ぎて帰路に。
11時40分にお家に着く頃には2人ともスヤスヤ。
抱っこで送り届けた。
帰宅後、夫に蕎麦を調理。
美味しそうに食べていた。
午後は読書と調べ物。
久しぶりに篠田謙一著「人類の起源」
前回返却期限が来たので返却したあと、購入。
紹介していない箇所をアップする事に。
2 琉球列島集団
〈琉球列島集団の成立〉
琉球列島は姿形のわかる旧石器人骨が出土している唯一の地域。
が、次世代シークエンサを用いた解析は港川人のミトコンドリアDNAしか行われていない。
また、旧石器時代の後の人骨の出土例が余り多くない為、人骨の形態もDNA研究も進んでいないのが実情。
琉球列島の縄文時代の人骨のミトコンドリアDNAの系統は九州の縄文人と共通。
琉球列島ではこの時代、沖縄本島と先島地方では文化が異なる。
先島の文化はフィリピンや台湾との共通性が指摘されている。
宮古島の遺跡から出土した縄文時代相当期の人骨の持つゲノムは、予想に反して本土の縄文人と類似。ゲノムデータによれば縄文時代以降の琉球列島での主なヒトの移動は本土日本、特に九州からの流入だったと考えられる。
琉球列島では遺跡の数の調査から12世紀前後から始まるグスク時代に急激に人口が増加。
この時期、琉球列島は狩猟採集社会から農耕社会へと転換。
沖縄本島と先島が同じグスク文化圏に入る。
〈琉球列島集団のミトコンドリアDNA〉
次世代シークエンサを使ったミトコンドリアDNAの研究によると、縄文時代には琉球列島でもM7aとN9bという二種類のハプログループしか出現しないのに対し、弥生時代から平安時代に相当する貝塚後期になると、少数ではあるが本土日本に由来すると考えられる異なるハプログループが見つかるように。
近年、奄美の考古学の調査からグスク時代の開始期に南九州などから大規模な農耕民の移住があった可能性が指摘される。
7300年前の鬼界カルデラを作った巨大火山爆発で九州との連絡が絶たれ独自の集団として成立。
貝塚後期(弥生〜平安並行期)に九州との交易が復活。
グスク時代に南九州の農耕民の流入により本土日本の遺伝的影響を受けるようになった、というのがゲノムデータの示す大まかな流れ。
現代の琉球列島集団のゲノムに縄文人に由来するものが30%残っているという事は、後に琉球列島に到達する集団の影響が本土日本のそれより小さかった。
コラム4
鳥取市青谷町にある青谷上寺地遺跡は1998年から3年間の発掘によって多量の土器や木製品などの考古遺物と共に5300点にも及ぶ人骨片が出土。
人骨群はある程度は個体別になっていたものの大部分は散乱状態で発見された。
形態学的な研究により100体以上の人骨が存在していると判明。
出土した人骨のうち32個体のミトコンドリアDNAが次世代シークエンサで分析された。
結果、ミトコンドリアDNAの配列が完全に一致したものは二組だけ。残りの28体、約9割の人々の間に母系の血縁が認められない事が明らかに。
更に13サンプルの核ゲノム解析が行われ、そのSNP解析の結果から青谷上寺地遺跡の各個体は全てが現代日本人の範疇に入ることが確認された。(図6-3)

しかし、それぞれの個体同士は狭い範囲に固まる事は無く現代日本人の遺伝的な広がりの中に散在。
縄文的な遺伝子を多く持つものから大陸の要素の強いものまで様々。
これはミトコンドリアDNAの系統が数多く観察されたという事実とも一致。
青谷で同時期に亡くなったと考えられる人々の間に血縁関係は無かった。
このことから青谷は古代の一般的な村落とは異なる集団で出土した木製の容器類や管玉などの生産が盛んに行われていた事などを考えると、多くの人々が流入や離散を繰り返す古代都市であった可能性が高い。
青谷上寺地遺跡出土人骨には多数の創傷がある。
詳しく調べると四肢骨には戦闘による損傷も認められるが、同時に解体痕も見つかっている。
人骨の放射性炭素年代測定法による分析によると、人々が亡くなったのは2世紀後半である事が判明。
この時代は中国・漢の桓帝・霊帝の治世(146-189年)に当たり、魏志倭人伝など複数の史書に記述が見られる倭国大乱の時期に相当。
↑孝明天皇が皇太子時代に伯耆遠征をしたという史実にも当てはまるなぁ。
今日はここまで。
17時から夕食の用意。
ヤロー共は呑み会で不在。
残り物中心なので画像は無し。
18時に昨夜以来の食事。
良く呑み良く食べた。
読書と調べ物を゙する事に。