2025/6/23月曜日
4時に起床し畑へ。
まずはじゃがいもの収穫。
葉が枯れた株のみ収穫した。

持参した苗を移植し水遣りを済ませたら5時半に帰路に。
帰宅後、皆の朝食と長女のお弁当のおかず作り。
合間に塩麹の材料をヨーグルトメーカーにセット。
そして、味醂絞り。
その絞り粕を使い味醂粕クッキー作り。

ここで、シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水遣りと苗の移植。
畑にはもう植える場所が無い。
空いている鉢にトマトやピーマンの苗を植えた。
9時半に自転車で買い物へ。
10時半に帰宅後、読書と調べ物。
昨日に引き続き「二本松少年隊のすべて」
遊佐辰弥(13歳)にも同じような話がある。
兄昇之進は与力として出陣しているが出陣前に罪を受けて減知されており家庭も裕福では無かった。
叔父の家老丹羽一学から所領の大刀を借りて出陣。
久保豊三郎(12歳)は七月二十七日には友達の女の子(後の水野進妻)とねんがら(二本松ではねんがらぶちと言う)をして遊んでいたところに兄の友人の高橋辰治(13歳)がやって来て、木村塾門下生が揃って出陣する事になった事を話して帰った。
それからどうしても出陣したいと母にせがみ、二十八日になっても母にせがみ母を困らせた。
母は豊三郎に下僕をつけて友人の多くが出陣している大壇口に行かせた。
豊三郎の兄鉄次郎は二十七日の本宮戦で負傷し帰藩したが再び大壇口に出陣している。
弟の身を案じ出陣したとの説がある。
〈服装〉
少年達の出陣の際の服装について、木滝幸三郎は「当時従軍者の服装は大抵手縫いの呉呂服なりしが余り目立つとて黒呉呂に改めたり」と語っている。
元治元年の水戸の役には甲冑に身を固めて出役したが四年の間にここまで変化。
しかし、老人達の中には華々しい斬り合いを望んだものかわざわざ赤い服装を身に着けて出陣した者もいた。
「賊は赤装を好む」と書いた西軍側の本もある。
少年隊の服装について、水野進は「少年隊の服装は上衣は呉呂の筒袖にして、力紗羽織又は陣羽織を着し、下衣は一定せず、だんふくろあり、股引あり、義経袴あり、立附あり、兵糧袋に肩印、帽子は用いず、多くは白木綿の鉢巻なり。髪は髻を打糸にて結び背に下げたり」と書いている。
それに註を加えて二本松藩史には、
「一、筒袖は大概木綿又は呉呂にして、今の児童の筒袖の丈短く膝の辺位迄なり。一、力紗羽織は地質は概ね絹呉呂(今のアルパカ)にして、普通の羽織の羽織を筒袖とし、背の縫目半分位裂けたものなり。一、兵糧袋は概ね呉呂にして、長円形の袋の前後に縁を附け、紐を通して屈伸を自在にして肩掛とせり。
一、肩章の地質は麻布にして長さ三寸巾一寸五分位、中央に違棒の紋を画き、一方に鯨又は竹を当て、その中央を紐にて括り、左先に結び附けたり」
とある。
しかし、少年隊の出陣はやむを得ない事情(本隊が白河等に出払って不在)で突発事件なので少年達の戎衣等が整っているはずもない。
特に小身者の子弟はそう。
父や兄の着物を母や祖母が徹夜で縫い詰めたり、袴を急いで洗濯したりして間に合わせたのが実情。
服装の統一など思いは及ばなかった(武谷剛介氏談)
隊長の木村銃太郎の軍装は緋の袴を着し、白く雲竜を描いた陣羽織を着て、明珍の具足に身を固め大きな体躯に長身の大刀をたばさんだ、目覚めるような出立(明珍とは二本松明珍、具足師高瀬団蔵家を指したものだろう)
二本松藩兵の共通したものは前記の肩章のみ。
二十六日・二十七日に少年達に出陣の通知が達せられ、各隊に配属された。
が、木村銃太郎の門下生のみは一団となって丹羽右近隊の大砲方として大壇口の防衛に当る事に。
取り敢えず二十七日の午後五時頃、北条谷の道場に集合。
二十八日の午前七時に道場に集合し学舘前(藩校敬学舘)に引率されている。
『二本松戊辰少年隊記』には
「やがて一同学舘前に集合しライフル大砲壱挺、小銃元込と二口バンドウ軍用金壱両三分を渡され、総数二十五名隊長木村銃太郎に従い大壇口に向って右手に陣を布く……」
とあり、木滝幸三郎談には
「藩庁よりエンピール二つ盤胴の銃と軍用金五両を渡され、母よりも金二両を貰ひ且つ"見苦しき進退のなき様に"と堅く戒められて家を出でぬ」とある。
藩よりの軍用についえは一両二分だったという人もある。
学舘前(精しくは千人溜)で少年達は二階堂衛守を紹介された。
少年達は衛守を「副隊長」と呼んでいる。十人扶持二階堂衛守は、家老大谷信義の二男で、鬼隊長大谷鳴海の弟。
本来なら遊撃隊長にもなるべき人物。
年齢は33歳。
この時妻は懐妊中。
戦死後に長男を出産。
丈は五尺一、二寸と小柄な人であったという。
城を出て松坂門を通り城下に出て、大壇口に向って行進。
未だ避難していない婦人達は恐ろしい物でも見るようにして見送ってくれたという。
しかし、少年達はその情は理解出来なかったらしく、武谷剛介氏はその時の心境を「武士は君の馬前で戦死するものと教育されていたし、そう思っていたから、今の子供が遠足に行くようなはしゃぎだった」
と語る。
この出陣の途中、大砲が重いので大八車に乗せて皆で引いて行ったが、松坂門を出ると曲がりくねった下りの坂道となる。喜び勇んでいる少年達は銃太郎や衛守の制止も聞かばこそ、走り出したので急な曲がりでは止めが利かないままに大八車が桑畑に突っ込んでしまった。幸いにも大砲に損傷は無かった。という挿話が残されている。
↑二本松城に行って良かった。この場面を想像出来る。
ねんがらぶちはねんがら打ちが訛ったか。
http://yuuyuu-sya.a.la9.jp/dictionary/ne1.html#nekki01
大壇口守備隊は八番組組頭丹羽右近を隊長とする三個小隊で、西軍の屯集する本宮に対する要衝。
銃太郎の率いる少年達23名はその配下に。『少年隊記』には地形や陣地の構築について、「大壇口に出陣して右手(註北)に陣を布く。其地形を見るに一軒の人家あり其側面に杉数本あり。右手には竹藪に続きて畑地あり。杉の木の中間に大砲を据え附く。余等はその左右に位置を占む。多くは畑地にして、身を隠蔽する所なきを以て枠木を打込み、横に丸木を渡し、之に畳を二枚ずつを併列し縄を以て括り附く。皆豪語して曰く"敵のヘロヘロ弾丸此畳を貫通するものか之にて大丈夫"と」と書いてある。
西軍は最後の突っ込みの時にこの畳が障碍となって、事前に工作兵を出して取り除いたと書いたものもある。後年、生存者が集まって、戦争の様を画家(太田霞岳)に描かせた絵も、西軍側の記述を見てもこれと同じように書かれている。
大壇口で畳で作った胸壁
https://note.com/k_maru027/n/n02d081738dd8
↑大壇口古戦場はお城より先に訪れた。
その場所はちょっとした高台で本宮方面からの道が見渡せた。
そこからお城まで結構な山坂で距離もあった。
ここを徒歩で、しかも大砲を載せた大八車を推してきたのは凄い。
大変な労力だと思う。
西軍に攻撃され隊長が銃弾に倒れ退却になった後、少年達は負傷しながらも満身創痍でお城方面を目指す。
たった数時間のうちにこれらがいっぺんに起きた。
怖かったと思う。
12時に夫にラーメンを調理。
喜んで食べていた。
午後も読書と調べ物。
17時から夕食作り。
17時半に夫が食べたいと言い、ダイニングに着席し食べ始めた。

鮭、じゃがいもと玉ねぎの味噌汁、焼き芋、ししゃも、サラダ、チーズ竹輪、ローストナッツ、納豆、もろキュウ、ウォッカ梅酒ロック。
19時にたけのこご飯が炊き上がった。
それと、味噌汁、クッキー、ゼリー、残り物のカレーを持って長男宅へ差し入れする事に。
お返しにおからサラダと胡瓜とミョウガの漬物を頂いた。
明日食べる事に。
夕食の後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は9304。
充実した一日だった。