2025/6/22日曜日
4時に起床し最新情報をチェック。
4時50分に畑へ。

種蒔きと水遣りをしたら6時半に帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
合間に出麹とキッシュ作り。

米麹は発酵機無しで完成。
キッシュは2枚焼いて1枚は長男一家へ。
11時に嫁が取りに来てくれた。
12時に夫につけ麺を調理。
午後に夫がエアコンをオン。
涼しい中、読書と調べ物。
昨日に引き続き「二本松少年隊のすべて」
「開戦前夜の少年達」紺野庫治
鳥羽・伏見の戦後は各藩使者の往来や軍需取引、はては藩兵の移動・訓練と藩内は一層慌ただしさを増し、それが白河戦争に及んで二本松城下も戦場と同じような状態に。
六月三日の『中島黄山日記』によると
「当月中諸藩の兵隊東西に奔走し、早追人馬昼夜を分たず、宿駅是がために疲弊し在々村々一家に男子三人有るものは三人使はれ五人有るものは五人を出す。上の夫卒、往来の徭役一人も隙あるものなし」
武器の増強や活発になった訓練で、弾薬が不足を来したが、その生産が間に合わず、木村道場の門下生が応援に出勤する有様。
少年隊員の上田孫三郎氏は「特別の訓練は五月頃より行われ、火薬調製は毎日弁当持参で行った」と回想。
白河城攻防戦に出動した藩の主力は日を追って後退。
戦雲は身近に迫ってくるのを実感。
6/29に河原田で儒者渡辺梅窓新助が戦死したとの報を聞き少年達も身近に戦争が迫った事を痛感。
「………とりどりに噂せらる。日を重ねるに従いて戦の有様分明す。死傷の数尠からず……」(『二本松戊辰少年隊記』)
白河派兵の未帰還と迫って来た西軍の情勢を知った少年達は仲間と相談して出陣を嘆願。
銃太郎の門下生達は、銃太郎を通して藩に嘆願。
二本松藩では満二十歳に達すると藩に出仕。
(但、特別の事情、或いは父が特に功績があって死亡し、子が幼かった場合は、未成年でも当主となる恩典があった。例えば少年隊員の二百五十石高根源十郎〈13歳〉・三百石丹羽寅次郎〈14歳〉はその該当者である)
18歳になった時点で20歳に達した旨を藩に届ければ、藩では成人と見て取扱。
この事を「入れ年」と言っていた。
従って17歳以下は戦争には参加出来ない。が、父に従って行く場合とか鼓手は例外。
再三の嘆願に藩は兵力の不足を補うべく17・16歳の少年の出陣を許可し各隊に配属。
15歳までの出陣許可が出たのは7/26。
7/27には15歳の久保鉄次郎が重傷を負っている。
15歳の出陣許可は入れ年の慣例から13歳までの出陣を黙認する事になる。
水野進(14歳)の『二本松戊辰少年隊記』には
「訓練五ヶ月にして大いに上達す。七月初旬に至り味方の敗報頗りに至る。或は本宮・三春付近までに敵軍の押寄せ来れるを伝ふるものなり。七月二十六日の朝、俄然余等に出陣の命下る。余等の満足例うるに物なし。両親の門出を祝ふ盃などにて早陣に頭に立ちたらん心地して夜の眼も合はず………」と書いてある。
『二本松戊辰少年隊記』は著書の水野進が西崎銀蔵(14歳)と話し合った事を戦友の五十回忌(大正六年七月〈1917〉)に当たって書き綴ったものを謄写し配分。
出陣祝の有様はどちらのものかはわからない。
岡山篤次郎(13歳)は出陣に際し母に自分の戦場への持参品全部に記名を願った。
母のなおがその訳を聞くと「字が下手だと敵に見られた時に恥ずかしい。それに戦死して屍が腐った時に、お母さんが僕を探す時に直ぐ判るでしょう」と答えた。
母は篤次郎の晴着の衣装の襟や鉢巻に「二本松藩士岡山篤次郎十三歳」と書いてやった。
↑これに嫉妬した悪魔が篤次郎をピンポイントで攻撃する。
成田才次郎(14歳)の父外記右衛門は出陣する才次郎に「敵を見たら刺せ。切ってはならぬ。突くのだぞ」と訓えた(成田外記右衛門談)
松の廊下の事件の時光重は隠居の身で病床にあってが、長矩の失敗が伝えられるとさも無念そうに「吉良殿を何故突かなんだ。刺せば仕損じが無いものを」と切歯して手に持っていた煙管で畳床を突き抜いたと伝えられ、直ぐに浅野家へ見舞いの使者を送っている。
この突きの精神が、藩祖以来戊辰戦争に至るまで200年来の藩の伝統として伝えられた。
徳田鉄吉(13歳)の父は茂承と言う。
茂承は文久三年(1863)に富津在番を命ぜられたが病気の為従役出来ない身の不甲斐なさを無念として割腹している(文久三年五月三十一日)
幼かった鉄吉はこの事を知らずに成長。
いよいよ出陣と決まった夜、母の秀(老人組遠藤段七の女)は仏壇の前に鉄吉を呼び「当主佐七郎(兄)は出陣していますから、女子ではありますが出陣についての心得を話しましょう」と最後の訓えを語り、遠い祖先が天正の戦争の時に(伊達政宗と二本松城主畠山義継との合戦)君の馬前に戦死したこと、夫茂承の最後のことを語り、「お前様は兄上と二人で、お父様の分も忠勤を励んで貰わねばなりません。他に遅れを取らぬばかりか他に倍して働くよう」と諭し夫の遺言状を見せたという(母秀の追懐)
上崎鉄蔵(16歳)の家庭は小身であったため裕福では無かった。
父の織衛(四人扶持)が出陣したあとには戦陣で斬り合いに用いられるような大刀は一振りも残っていなかった。
「せめて、武士の魂の大刀だけは恥ずかしくないものを持って出陣したい」と鉄蔵は考えていた。
浮かない鉄蔵の態度を不甲斐ない倅と見た母の詰問に、鉄蔵は渋々と本心を語った。母は外出して暫く手に風呂敷包みの大刀を持って帰って来た。
母のすまは、実家斎藤弥治兵衛家に行き事情を語って、一振り(相州ものという)の大刀を貰って来た。
それを鉄蔵に与えると鉄蔵はニッコリと微笑。
もう出陣の時刻は迫っていた。
祖母と母は玄関を出て「いってらっしゃい」と言うと鉄蔵は「いってらっしゃいではないてしょう。
僕は帰ってきません。
僕は行くだけです。
帰ってはきません。
今日は"行け"とだけでいいんです。
お父様がお帰りになったら鉄蔵は立派に戦死したとお話下さい。
おばあさま、お母様、いつまでもお達者で」と一礼し、生垣沿いに歩き出し、曲り角の処で振り返ってニッコリ笑ってから軽く一礼し、手を振って曲がって行った(母の追想談)
母すまは老人組戦死者大関相好の俳門であったと伝えられ「言の葉の耳に残るや今朝の秋」と門出を偲んで吟じ、涙のままに往時を語っている。
↑上崎鉄蔵は何もかもわかっていたのか。
二本松城がヤバいと言うことも。
16歳やで。
今日はここまで。
17時から夕食作り。

細竹と人参と白滝の炒め煮、新じゃがいもと新玉ねぎのキッシュ、もろキュウ、サラダ、納豆、昨日のカレー。
これに、味噌汁と三分米ご飯が加わる。
ウォッカ梅酒ロックは16時半から呑んでいる。
ローストナッツをツマミに。
夫がテニスから帰ってきたら、昨夜以来の食事を食べる事に。
歩数計は7327。
充実した一日だった。