arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1382日目と畑と二本松少年隊⑨

2025/6/21土曜日

5時に起床し畑へ。

 

トマトにやたらカメムシが湧いているなあと思ったら支柱に怪しい白い卵が。

そこらじゅう。

で、撮影しようとすると写らないように暗くしてきた。

撮影されるとまずかったらしい。

DS連中は虫のスペシャリストだからね。

7時に帰宅後、シャワーと洗濯。

合間に米麹の品温をチェック。

発酵機無しで43度をヒット。

この暑さだからね。

麹蓋二つに分け入れた。

9時半にホームセンターへ土等を買いに。

帰宅後、漸く読書と調べ物。

 

昨日に引き続き「二本松少年隊のすべて」

 

会津藩兵への濡れ衣事件、又は会津騒擾作戦の記述発見!
何処かで読んだと思って必死に探してたら、これだった!

 

p.186

戊辰戦争終結
八月二十一日 西軍・三隊に分かれ母成峠を越え大原村に宿営。
二十二日 大原村より猪苗代に入る。

この頃各方面から旧幕府と称する素浪人達が続々と鶴ヶ城へ集まってきた。
↑こいつら、絶対薩摩藩が飼ってたゴロツキの浪人共やで。

あの、江戸で強盗・火付けやって三田の薩摩藩邸に匿われてた。

庄内藩が取締に薩摩藩邸行った時薩摩藩の軍艦で逃げ切ったんよ。

今度は会津で暴れさせる、と。

 

中には食い詰めの無宿者もかなり混じっていて、炊き出しにありつくのが第一の目的だったが体よく追い出された者達は、隣接する領外(郡山宿郊外)に出没しては、会津兵の名を騙り強奪・放火などの悪行を働いた。
会津兵の名を騙り強奪・放火などの悪行を働いた。
会津兵の名を騙り強奪・放火などの悪行を働いた。
会津兵の名を騙り強奪・放火などの悪行を働いた。
会津兵の名を騙り強奪・放火などの悪行を働いた。
会津兵の名を騙り強奪・放火などの悪行を働いた。

 

会津藩にとっては迷惑な濡れ衣であったが、それを止めさせるすべは無かった。「会津家訓十五条」の精神、その武士道も踏みにじられる敗戦の辛さである。
↑(多分薩摩藩派遣のゴロツキ浪人が)会津兵の名を騙り強奪・放火などの悪行を働いた。←江戸でもやった。やる事は同じ。

 

三十日 大槻組の会津行き軍夫三十八人、本宮宿に泊まる。

この時期の本宮宿も郡山宿と同じような被災下にあり、南町問屋として新政府軍に手配した軍夫は1360人、馬180頭と記録される。

この中には郡山宿からの軍夫が大勢含まれていた。
九月一日、「会津包囲網ニツキ、三春表カラ兵糧米オヨビ弾薬等ノ運搬人夫又馬牛ヲ差シ出スヨウ通達アリ」
そこで、本宮軍の役所へ出張し、「コノ度ノ兵火ニヨル難渋デ、トテモ人馬ヲ差シ出スコトハ出来マセン。当分ノ間ゴ免蒙リタクオ願イ申シ上ゲマス」との嘆願書を提出。
二日、官吏が出張して来て「事ハ非常ノ場合デアル」として強い督促である。
↑何度も言うが、郡山宿は八割、701戸が火事で焼け出されている。

こっちこそ、非常事態やろ。

新政府は馬鹿なのか?
↑郡山宿は八割、701戸が焼け出されたというに、西軍は人夫と馬を差し出せだと。狂気の御沙汰ですわ。
700軒の家が焼けた町を想像してみ?

 

免除の儀は一向に取り上げてくれない。

そこで、会津表には10日ごとの交代をもって人足408人、馬46頭、牛29頭を差し出す事に。

更に三春表へは人足22人、馬3頭が申し渡された。
↑三春表て、裏切り者の三春藩の事か?

 

それにしても「ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど出る」と言った施政者がいたが。
↑現代の政治家とそのバックに居る支配者も同じ考えよ(日米合同委員会)

 

郡山焼失以来、人馬継立所(物流・情報伝達の中継基地)も立ち行かない。

そこで、当分の間、隣村の小原田、福原村へ軍夫継立の役を依頼し、守山からは吏員を仰ぎ事務取扱いを願う事に。
八月二十三日以降、各諸道より会津へ進行。

号砲は昼夜、雷鳴の如く響き渡る激戦に。各村から動員された人夫の家族らの心配は只事ではなく、その安否を問いに来る者、数十人にして、特に婦女子らはその父兄の一刻も早い帰村を嘆願する姿は皆、涙に濡れていた。
九月八日 元号「慶応」から「明治」へ。
九日 二本松藩、正式な降伏状提出。
十五日、仙台藩降伏。
二十二日、会津藩降伏。ここに、東北における戊辰の年は幕を閉じた。
郡山は奈良時代には蝦夷地への最前線基地としての郡衙(軍務を扱う役所)が置かれた事もあって、この呼び名は「郡山」と記されたとされている。
戊辰戦争によって焼野になるまでの郡山は奥州きっての宿場町として栄え奥州諸藩の大名行列にみる参勤交代など、その本陣宿や休憩基地として賑わった。

安積三郡(郡山・大槻・片平)は城下では無いにも拘らず「安積三万石」と呼ばれたのは商業と穀倉の中心基地として重要な役割を担っていた為。

人口は約四千人、世帯数は約800戸あった。
文化四年(1807)の春に17歳の安藤祐助が江戸へ旅立った。

後の安積艮斎である。

彼は佐藤一斎の門人となって朱子学を習い43歳で江戸詰めの二本松藩儒となり、嘉永三年(1850)60歳の時に昌平黌(幕府最高学府)の教授に任命される。

「洋外記略」など外国語にも通じた彼の講義は、幕末に活躍する吉田松陰高杉晋作ら2千人が門人になるなど、ある意味東北にとっては意外な展開を受けることになる。

惜しむべきは万延元年(1860)に亡くなるので、戊辰時に会する事は出来なかった。
↑生きてたら攻め辛いので暗殺したな。
明治二十二年、今泉久三郎は独立自治体となった郡山の初代町長に就任した。

会津兵の名を騙り強奪・放火などの悪行を働いた奴らは越後にも出没したと推測。

こういう、地元住民との分断工作をやり味方に付け会津若松への間道を道案内させたが、越後でも会津軍の陣地へ道案内させた。

やらせたのは誰なんでしょうね。

今日はここまで。

 

12時に皆に素麺を茹でてあげた。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

カレー、サラダ、味噌汁、長芋タラコ、納豆、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

良く食べ良く呑んだ。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は8164。

充実した一日だった。