4時に起床し畑へ。
昨日移植した茄子苗に水遣り。

4時45分に帰宅後、長女のお弁当のおかず作り。
6時半に夫とつくばへ草刈りに。
8時に到着後、早速草刈りスタート。
日向での作業は早くも暑くなってきた。
日向の部分を優先し作業。
9時過ぎからは日陰での作業。
10時から夫と仕上げの作業。
日向での作業時間が長かった夫は顔が赤い。
「飲み物を呑んで休憩しながらやりなよー」と声を掛けた。
10時半に草刈り完了。
帰路に着くことに。

ボリュームが凄くて、全部食べれるかな、と思ったが、夫が野菜炒めを気に入って1/3を食べてくれた(笑)
13時に帰宅後、シャワーと洗濯。
めっちゃ汗を掻いた。
珍しく夫が率先してエアコンをオンに。
有り難く一緒に涼んだ。
洗濯物を干し終えたら、読書と調べ物。
昨日に引き続き「二本松少年隊のすべて」
〈二本松城奪還作戦と降伏〉
二本松落城と同じ7/29, 越後では長岡が再落城。
新潟港が陥落。
米沢藩総督の色部長門が戦死。
越後方面でも同盟軍は総崩れに。
米沢藩は二本松落城後福島街道に派兵。
8/12に米沢新田藩主の上杉勝道が板谷に出陣。
8/14に総督の大国筑後や大隊頭の佐藤孫兵衛らが庭坂に。
同じく庭坂に進軍した米沢藩士宮島三河は二本松家老の丹羽掃部介らと対談。
宮島の8/3の書状に依れば庭坂にいた二本松兵約300のうち「可用立」が100人、3、4日休めば「可用立」が100人、「用立不申」者が100人であるとし「不用立」の者は米沢城下に移すべきと主張。しかし、「可用立」者ですら弾薬が無いという状態。
8/15には福島に於いて米沢・二本松・会津・仙台・山形・上山・福島の各藩士か集い軍議。
議題は二本松奪還作戦。
しかし、8/16夜、作戦を開始するも雨の為行軍が遅れ、本道を進んだ軍勢のみが交戦し敗退。
二本松奪還作戦が失敗した直後、二本松に進駐していた土佐軍が米沢藩に接触。
謝罪恭順を求めてきた。
8/19, 米沢藩は土佐藩の勧告に従う事を決定。
米沢藩は仙台藩に使者を派遣し降伏について協議。
他の同盟諸藩にも働きかけを行った。
9/1には藩主や藩士が米沢に避難していた福島・二本松・村松の各藩に対して、帰国と謝罪を求めている。
二本松藩も新政府軍に謝罪と嘆願書を出すことに決定。
9/4に米沢を出発し二本松に出向いた家老の日野源太左衛門らは9/9に長国の嘆願書を新政府軍参謀局に提出。
11日、嘆願が聞き届けられ、長国の帰国が許可された。
20日、長国は二本松に戻って大隣寺に謹慎。
〈最後の二本松藩主〉
二本松藩は養子に予定していた幕臣一柳信次郎の第四子四郎が病没した為、米沢藩上杉斉憲の第九男頼丸を養子に迎える事に。家名存続と養子願が許され12/26, 頼丸に二本松城五万石が預けられた。
頼丸は五郎左衛門と改名し長裕と称した。二本松藩最後の藩主である。
「二本松藩と郡山」七海晧奘
〈郡山宿が燃えている〉
慶応四年(1868年)8月7日、如宝寺辺りから煙が上がったかと思うと、見る間に中町、大町へと燃え広がり、阿弥陀町、東町、北町、稲荷町なとが次々と災禍に巻き込まれて行った。
翌8月8日、
「繁栄ナル郡山市街、一朝ニシテ野原ノ如ク相変シ、夜ハ残リシ土蔵ニ焼火ノ見ユルノミ、寂シキ事イウベカラズ、タダ天ヲ仰ギ嘆息スルノミ………」
当時、郡山の検断(経済管理・裁判権を有した名主)であった今泉久三郎はその廃墟に立ってこの日記を誌した。
この災禍で町の八割710戸が焼失。
死傷者・離散者は600人に達したがこの出来事は何故か語り継がれる事は無かった。
郡山が二本松藩領となったのは1643年。当時、名君と言われた会津藩主・保科正之の時代に当地方は二本松藩・丹羽光重の領地へ編成替えに。
以降、安達地方と共に「二本松10万700石藩領」として11代250年の歴史を数える。
この間、郡山は宿場町として、また、藩領最大の穀倉地として発展。
10代・丹羽長国の時代に当宿の検断・今泉久三郎がこの災禍に遭遇した。
当時23歳。
この戦争に遭遇した彼はその一部始終を「今泉久三郎日記」に書き残した。
一月三日 鳥羽伏見で始まった戦いは、軍事力の勝る薩長に徳川方は京より敗走、将軍・徳川慶喜は恭順を示すが認められず江戸に蟄居。
江戸は騒然となる。
十五日 二本松はもとより、東北の諸藩士が群れをなして郡山を通過、江戸表に向かう人が日増しに多くなる。
新政府、仙台藩に会津追討の勅令を出す。
二月二十六日 将軍の片腕とされた松平容保公が会津へ帰郷、江戸詰めの藩士家族らも帰国の途に着く。
他の奥羽諸藩の藩主並びに家臣たちも、江戸を去り自領に引き取り始める。
その行列おびただしく郡山宿は大渋滞となる。
二十七日 二本松藩主・丹羽長国公帰国の途中、郡山宿御泊りとなる。
これに先だち宿での街道に面した一、二階の窓の障子がすべて張替えられ、本陣には前日より二本松から家老・重臣たちが待機し、出迎えの準備に追われる。
二十九日 仙台藩に新政府から会津征令使到着。
三月十八日 郡山陣屋、代官・浅見競殿郡奉行栄転につき町役員こぞって餞別をする。
後任の郡山代官は、鹿野兵左衛門殿、ご二男・寅之助殿十五歳。
二十日 江戸城無血明け渡しとのこと。
四月三日 二本松藩、郡山宿に「才覚金(軍資金)七千両」の調達を依頼、兵員の無料滞陣から人馬の提供などが矢継ぎ早に打ち出された。
十九日 官軍・仙台藩の混成部隊、郡山宿に入る。
仙台兵の鉄砲の殆どは火縄式、官軍の洋式とは雲泥の差、ここ本陣には大砲が仕付けられた。
一方、会津勢襲来の報あり。
安子ヶ島・横川に出没し火をかけ家財を運び、老人や子供らを追い払って盗み出す輩が出ているとの事。
仙台藩繰り込み日から上町下町端の木戸には見張所を設け、町中緊迫の度を増す。
↑これさ、会津勢襲来、てあるけど、会津藩士を装った奴らでないの?
わいはそれを何処かで読んだ。
この所業が原因で会津領民は西軍に味方した者が多数居たそうな。
↑似たような出来事が越後の六野瀬村でも起きたんよ。
今日はここまで。
17時から夕食の用意。
梅奴と大根サラダを調理しただけ。
残り物メインなので画像は無し。
夫は、夕方から発熱。
と言っても37℃台。
孫はまだ38℃台。
孫に比べれは熱は低い、と心なしか普段より大人しく闘病。
わいの事も発熱させようと工作員達があの手この手の電磁波攻撃。
が、17時からのウォッカ梅酒ロックの晩酌が始まったら、もうわいの体はキンキンに冷えたウォッカ梅酒ロックで冷え冷え。
発熱させるのは無理。
更に、梅奴で使用した梅干の種2個もイン!
疲労回復待った無し。
冷蔵庫での製氷を遅らせたりあの手この手でウォッカ梅酒ロックを飲ませないように工作。
何と来週はマンションの全館一斉停電まで予定されておる。
こんなクソ暑いのに10時から14時まで冷蔵庫使えないて。
何で冬じゃなくてこんなクソ暑い時やるのかね。
いつも通りウォッカ梅酒ロックが呑めるように工夫しますわ。
歩数計は11178。
充実した一日だった。