arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1379日目と畑と二本松少年隊⑥

2025/6/18水曜日

4時に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず作り。

4時50分に畑へ。

 

まずは茄子の苗を追加で移植。

漸く、ベランダで育成中の苗が成長。

そして、じゃがいもの収穫。

葉が枯れた物のみ掘った。

5時半に帰宅後、早速じゃがいもは陰干し。

そして、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水やりと味醂の仕込み。

餅米を蒸す所からやった。

9時半に買い物へ。

11時過ぎに帰宅後、夫の昼食のラーメンを調理。

暑いのに、アッツアツのラーメンを美味しそうに食べていた。

12時から漸く読書と調べ物。

昨日に引き続き「二本松少年隊のすべて」

 


母成峠の戦闘で二本松兵は七人が戦死。 会津唐津藩兵、新撰組など40余名が戦死。


二本松藩米沢藩」栗原伸一郎
〈奥羽列藩同盟前夜〉
慶応四年閏四月一日(1868年5月22日)仙台藩米沢藩会津藩代表による会議が仙台藩領関宿で行われた。
この会議では仙米両藩が会津藩の嘆願を奥羽鎮撫総督府に周旋する事や、それが却下された場合の行動計画などが話し合われた。
遅れて到着した二本松藩家老丹羽一学らは米沢藩奉行の竹俣美作から会議の内容について説明を受けた。
仙台藩伊達慶邦米沢藩主上杉斉憲が鎮撫総督九条道孝のもとに出向いて周旋するので二本松藩丹羽長国も同伴して欲しいと依頼された。
二本松藩側はこの提案を拒否。
同席した二本松藩士飯田唱は状況を説明すべく国許へ向かった。


〈奥羽諸藩間の使者往来〉
慶応三年十二月晦日(1868年1月24日)会津藩士の鈴木丹下と土屋鉄之助が二本松藩を訪れ政局への対応に関して協力を求めてきた。
会津藩は慶応四年二月にも使者を二本松藩へ送り、鳥羽・伏見の戦いについて説明した上で、藩主容保が京都守護職を拝命して以来の自藩の行動を正当化すると共に朝敵の汚名を雪ぐ為に諸藩に周旋してもらう事に。
1月15日、二本松藩は新政府から他の奥羽諸藩と共に東征軍の応援を命じられていた。 
二本松藩穂は仙台藩米沢藩などの近隣諸藩の政治方針を確認し同時に協力関係を構築する必要に迫られた。
征討問題を巡って仙台・棚倉・中村・福島・三春・下手渡などの諸藩の使者が二本松を訪れていた。
そうした中、3月23日に奥羽鎮撫軍が仙台に到着。

↑You達何しにとうほぐへ?


3/25に二本松藩は奥羽鎮撫総督から会津藩征討の応援を命令された。

二本松藩よりも先に会津藩征討や征討応援を京都において命じられていた仙米両藩は二月中旬から徳川家及び会津藩征討を回避する為に動き出していた。
奥羽鎮撫軍が奥羽に下向する段階に至って二本松藩会津藩救解運動に加わるよう打診。
三藩は会津藩に対し謝罪降伏を勧告する事に。
これを契機に仙台藩米沢藩を中心とする列藩同盟が結成され、奥羽諸藩は政治的・軍事的に連隊を強めて行った。
同盟の盟約書では「不虞危急」の事があれば「此隣各藩」が速やかに救援する事など同盟諸藩同士の相互協力関係が明文化された。


二本松藩主従の米沢避難〉
七月、戦局は列藩同盟に不利に展開。
白河方面では会津軍・仙台藩二本松藩など同盟軍が幾度となく白河城奪回を試みていたがその度に新政府軍に跳ね返されていた。
7/8に二本松藩の使者が米沢を訪れ仙台藩は「惰兵」で「人気」を煩わせている。

最早早急の事態である為、米沢藩から然るべき人物を白河方面に派遣し指揮を執って欲しい、と。
そうしなければ二本松の落城も目前である、と。
当時、米沢藩は主力を越後戦線に展開。

兵力に余裕は無いが、二本松藩の申し入れを承諾。
ところが、その直後、秋田藩が列藩同盟を離脱。
米沢藩は白河への応援部隊を急遽引き上げ秋田戦線に投入する事に。
秋田藩の罪深さよ。

秋田藩の歴史について調べる必要があるな。

 

新政府軍の城下侵攻が予想された二本松藩は7/26に米沢藩会津藩に使者を派遣し援軍を求めた。
これに対し米沢藩は7/28に相馬方面に出兵の軍勢から援軍を差し向ける旨を返答。
同日夕方、福島の様子を目撃した中老若林作兵衛からは二本松落城が目前である為、是非とも出兵せねばならず、藩境の板谷峠を警固すべきなであるとの書状が届いた。米沢藩首脳の会合は深夜にまで及び、翌七月二十七日、応援並びに藩境警固の為に軍勢を派遣する事に決定。
その時、二本松藩の和田要人が米沢城下に到着。
「二本松極切迫、最早落城且暮ニ付、家族并家中之者御国江立退中度存候間、何分御助被下度」(「木滑政愿日記」)
二本松の人々はどのような状況だったのか。
7/28, 病に臥していた藩主丹羽長国二本松城を脱出し城北の水原村へ向かった。
長国夫人及び前藩主夫人麗性院ら藩主一族は前日に脱出。

老幼子女といった藩士の家族も藩主一族の後を追った。
一行は遠方へ逃げる心積もりは無く旅装すら整えていなかった。

7/29, 城下を逃れた藩士の家族は水原村に於いて南方に上がる黒煙を目撃。
二本松落城であった。
新政府軍の追撃から逃れる為、一行は再び避難を開始。
二本松の人々に遭遇した仙台藩の細谷十太夫
「餓に泣くもあり、病みて哭するもあり、幼児の手を携えて走る女もあり、若き者の肩にかかり喘ぎ喘ぎ涙を流して来る老人もあり。中にも昨夜分娩せりという若き女が人の肩にかかり殆ど色なくて、とぼとぼ歩み来れる、げに悲惨の極みなり」
と記している。(『二本松藩史』)
庭坂・李平・板谷・大沢、一行は一路、米沢を目指した。
8/3, 藩主主従は米沢城下に到着。

長国は城下東町の検断の石田家に、夫人は神明社別当の蔵田家に逗留。
これに伴い、先に米沢に避難し石田家に滞在していた福島藩板倉勝尚は城下から離れた小野川村へ移動。
当時、米沢藩二本松藩を始め福島藩や棚倉藩から避難者の受け入れを依頼されていた。
米沢藩中之間年寄木滑要人は日記に二本松藩の「家中」を三千人と記している。
8/5, 二本松藩側は米沢藩に「家中」の者は何でも「手仕事」をして差し出すので村方に割り付けて欲しいと申し出た。

それに対し米沢藩側は千人は受け入れるが残りは仙台藩会津藩に依頼して欲しいと返答。
こうして二本松藩主従は三藩に分割。
長国夫妻と長女峯子が米沢に、麗性院と長国妹は会津に、長国の娘二人は仙台に向かう事に。
二本松藩史』から麗性院一行の行動を追ってみよう。
8/11に米沢を出発。
8/14に若松城下に到着。
8/22新政府軍が迫り不穏となった為、会津藩に対応を問い合わせ。

が、明確な返答が得られぬまま翌8/23に新政府軍が若松城下に侵攻。

滞在中の御殿にも流れ弾が飛び込み麗性院一行は若松城下を脱出。
8/24夜に日光口の会津軍が敗れ新政府軍が進軍してくるとの風聞で宿泊先を大雨の中脱出。

8/29夜、大雨の中、麗性院らは松明の灯りを頼りに藩境の檜原峠を越え米沢城下に到着。
↑麗性院大変だったな。
正室 麗性院(あるいは簾性院) 益姫 (有馬頼瑞女)(文化元/1804-明治6/1873)


米沢城下に留まった二本松の人々は城下だけては収容しきれず藩領北方の赤湯村に移された。
赤湯村の中には「二本松落人」への待遇を賞され明治2年に名字帯刀を許された者も居た。(『南陽市史中巻』)

↑いきなり薩長軍がとうほぐさきてさ、まんずめいわぐなはなしよ。

おめだぢ、なにしにきたんだば?

わーだぢ、なんもわりごとしてねはんで、まんずあだまさくる。

わーは、知ってるよ。おめだぢのやったごと。

 

16時半に嫁から電話。

下の孫が41℃をヒット。

電話の向こうで泣いている。

氷枕を貸して欲しいと言うので夫に持たせた。

更に保冷剤も。

冷やしたら寝始めた。

上の孫は期限良くはしゃいていた、と言う。

下の孫をピンポイントで電磁波攻撃しとるな。

17時から夕食作り&晩酌。

残り物中心なので画像無し。

その後、嫁からの続報で寝ているけれど相変わらず体温は40度を越えているらしい。

氷枕と保冷剤であちこち冷やしてるのに。

DS連中は弱い者いじめ平気でやるからの。

1歳児でも容赦なく攻撃するのがDS。

今後の続報を゙待つことに。

 

歩数計は9094。

DSに攻撃された一日だった。