arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1378日目と畑と二本松少年隊⑤

2025/6/17火曜日

4時に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず作り。

5時45分に畑へ。

 

茄子の苗を植えた。

6時45分に帰宅後、シャワーと洗濯。

収穫してきた赤紫蘇を塩揉みしてアク抜き。

先週漬けた梅干の樽に入れようとすると、あとから付けた小樽の梅酢が上がってない部分の梅にカビが。

先に漬けた大樽の方は梅酢が潤沢。

補充し、赤紫蘇も入れた。

ついでに醤油仕込み瓶をチェック。

すると、悪魔くんにカビを仕込まれていた。

ま、いつもの事ですわ。

カビの部分を取り除き、上部を焼酎で消毒。

それを6瓶分やった。

撹拌した後に。

次に味噌樽。

もうね、予想通り。

今回はわいも、色々調べたんよ。

対策を。

だって、めっちゃ美味しそうな味噌なのに、悪魔君がそれに嫉妬してカビ菌を仕込むから廃棄する分が勿体無い。

で、今回採用されたのがこの方法。

 

悪魔君との攻防は続くのであった。

 

12時に夫に冷たい蕎麦を調理。

 

午後は読書と調べ物。

昨日に引き続き『二本松少年隊のすべて』

 

母成峠の戦い二本松藩」林洋海

 

慶応四年(1868年)七月二十九日払暁、阿武隈川から立ち込める朝霧をついて怒涛のごとく押し寄せた西軍の猛攻に二本松藩は壊滅。
朝まで緑の海に甍の波が浮かぶような美しい二本松の街並みは昼餉前には無惨にも黒煙に包まれ灰燼に帰した。
この戦闘で213名が戦死。

その多くが郭内で、白兵戦による戦死だった。
戊辰戦争での二本松藩の戦死者は338名。そのうち士分162名。卒以下176名。
士分391人。

卒以下459人の藩でそれぞれ四割を失った。
負傷者58名とあり異常に少な過ぎる。

「負傷者の数甚だ少なきは戦士負傷を恥じて之を秘したるに因るという」

二本松藩史にある。
二本松藩の兵力は八番組十六個小隊、2400人。
うち1500名は白河に出陣。
二本松の守備兵は600人。
七月二十七日、三春藩の裏切りを知った城代家老丹羽掃部介は早馬で白河で布陣中の軍事総裁丹羽丹波に城下防衛の為全軍引揚げを早馬で命じた。

が、この引揚げは困難を極めた。

二本松と白河の間の本宮を西軍に抑えられている。

正面突破するか大きく安達太良山山麓を迂回するしかない。
城下の防衛には何とか立ち戻った兵に加え、会津藩五小隊、仙台藩三小隊の部隊も加勢したが千人に満たなかった。

対する西軍は奥州街道本営から4500, 二本松東方の小浜から2300、合計6800の兵で一斉に二本松に乱入。

二本松兵を押し潰して行った。

戦闘は三時間程で終了。

城も城下も焼け落ち、市街の至る所には二本松兵の遺骸が散らばっていた。
木戸孝允文書』によるとこれは「天皇の力を見せつけるために、相手に絶望感を抱かせる徹底的に残虐非道な戦争の遂行」を為したものだった。

明治二年、長州における元奇兵隊員らが「諸隊叛乱」の際の弾劾文で「二本松引揚之次第不宣事」と悔悟を込めて新政府を誹謗した程でまるで安政地震後の惨状を見るようだったと言われた程だった。
しかし、二本松藩はこの戦闘で完璧にしてやられそのまま降伏に至ったかというとそうはならなかった。
生き残りの藩士達は落城後も城を退いて戦い、最後まで武士の意地を見せた。
福島藩など二本松の落城を知るとその日のうちに全員城を退いて米沢に逃げ込んだ事を考えると二本松藩の戦争は当時の「もののふ」としてと稀有である。
二本松藩の回復を図って結集する将兵
①隣の藩福島に向かった一隊
②石筵に向かった一隊
庭坂に向かった一隊
このうち③は藩主丹羽長国が退避しておりそれを追った者たち。
①と②は二本松の回復を図ろうとした。
八月九日、白石の東軍軍事局から北軍重役で旧幕府老中の小笠原長行が福島に乗り込んできた。
作戦は母成峠の会津守備隊を兼ねた大鳥圭介の伝習隊を主力として二本松の西部と東部の福島側から兵三千を以て挟撃する、というもの。
小笠原長行は軍艦で家茂奪還に大坂に向かったお騒がせマンで大鳥圭介戊辰戦争後、何故か栄達している不思議な人。


計画は良かったが、同盟軍の欠陥が浮き彫りに。

誰が指揮を執り決行は何日の何時に始めるのかなど詰めが甘く、当初12日決行が17日に延び、更に18日に延期。
ところが西軍の斥候隊に察知され待ち伏せを喰らい四散。

第一軍の棚倉兵は戦わずして逃げ、第三軍は第二軍が敗れたと知ると退散。

第四軍は一戦も交えず出発地の鳥渡に後退。
第五軍の伝習隊は本宮に向かう途中、山ノ入村で進撃してくる西軍と遭遇。

激戦したが夕刻に入り夕闇と共に双方、軍を引いた。

この軍が母成峠越えで本格的に会津侵攻を謀っていたとは気付かなかったらしい。


〈戦争に長けた西軍と、軍隊の体を為していなかった東軍〉

西軍は作戦前に斥候を立て綿密な軍用地図作りを行っている。

母成戦でも地元民の内通と嚮導で東軍の裏をかき戦況を有利に。
会津藩領と二本松藩領との国境をなす母成峠は標高980mの高地にある。

西軍参謀板垣退助は東北の早い秋を知り作戦変更を白河に居た薩摩参謀伊地知正治に書き送っている。
会津攻めの基地とすべく城下ガラ空きの二本松城攻めを急ぐ事に。
二本松城を呆気なく落とすと、すぐさま同じく城下ガラ空きの若松進撃へ。
西軍参謀板垣は兵五百を陽動作戦に使い、中山口からの侵攻を流布させ、あらん限りに篝火を焚かせ大軍の野営を装い、東軍の油断を誘い三千の兵で母成峠を急襲。
一方、東軍は800の兵で母成峠を守備。
八月ニ十一日午前九時頃、谷間から湧き出す濃霧の中開始。
霧は攻撃側として不利な山麓から迫る西軍を包み隠して戦闘を優位に。
↑悪魔が暗躍〜。


西軍は砲二十門を揃え、東軍を砲撃。東軍は霧の中から撃ち出される砲撃に対処出来ず壊乱。
↑霧と言えば悪魔の得意技〜。


二本松兵が守る勝岩(猿岩)を攻撃してきたのは土佐藩谷干城率いる1000名。
↑こんな狭い峠に1000名とか。


三個小隊を勝岩の背後に迂回させ挟撃。
↑迂回させなくともこんな狭い場所、兵で埋め尽くせば相手は逃げるしかないやろ。

 

東軍は母成峠から猪苗代へ退いた。

翌二十二日には猪苗代を貫き十六橋に到達。
二十三日には滝沢峠を抜き一気に城下を急襲。

飯盛山の白虎隊の自尽や多くの婦女子が自尽した会津戦争最大の悲劇を生み会津藩の敗戦を決定的にした。

この母成戦を最後に二本松藩の組織的な抵抗が終了。

9/4, 米沢にいた藩主丹羽長国は西軍総督に降伏嘆願書を差し出した。

↑本宮宿を抑えられたのはデカい。

三春藩の裏切りと手引きがデカい。

 

17時から夕食作り。

夫に夕食は何時が良い?と聞くと19時、と言ったのにわいがブログ編集始めたら急遽18時半にしていい?と聞いてきた。

勿論オッケー。

昨夜以来の夕食を゙食べる事に。

画像は無し。

 

歩数計は9869。

充実した一日だった。