2025/6/16月曜日
5時に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず作り。
合間に洗濯とベランダガーデニングの水やり。
9時過ぎにお孫ちゃん達が到来。
嫁が病院を受診するので預かる事に。
9時半に近くの公園へ。
気温は上昇していたが、この公園は木が沢山ある。
その為日陰が多い。
日陰を選んで遊んだ。
12時に公園を後に。
お家に送り届け、帰宅後、夫に沖縄そばを調理。
美味しい!と連呼しながら食べていた。
それが終わったら漸く、読書と調べ物。
昨日に引き続き「二本松少年隊のすべて」
この本は章毎に著者が異なる。
なるべく、忘れずに著者を書く事に。
菅野与著「本宮地方の戦い」より
戦争の犠牲者としては棚倉藩の落城(七月二十四日三日後の二十七日、領知の伊達郡保原に落ち行く姿を本宮宿で目撃した。「殿様今九つ時(午後十二時)御通行、北本陣へお休みになる。馬四匹、何れも断髪にされ、とても日本の殿様とは思えない風俗であった。若殿は年の頃、十四歳位であろうか、やはり断髪されていて、昔を思えば涙が無流れた。家中の家内は子供を抱いたり、老人の手を引いたり、或いは調度品を持ち、又は風呂敷を背負い、実に哀れなる姿である。南町へも多数宿ったが、御伴行列に槍一筋・狭箱一ツもなかった。翌二十八日、阿部候御内室御家内家中とも大勢宿るが長刀も箱もない」
↑一方、将軍謁見の為下田から江戸に向かったアメリカの公使ハリスの行列はーーー
ハリスの行列には槍持ちと狭箱持ちおるやないかー
大名でも無いのに。
ま、ハリスは日本に来てから、日本の人々に接し感動する事が多く、自分は来ない方が良かったかも、と言ったと何処かの本で読んだ。
意味深だよね。
https://travelsinshizuoka.wordpress.com/%E8%91%97%E8%80%85%E5%90%8D/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9%EF%BC%88%E7%B6%9A%E3%81%8D%EF%BC%89/
https://daimyo-gyoretsu.com/box/
https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html
〈災難と抵抗〉
八月十三日、夜九つ時頃(十二時)の事である。
糠沢直之允は、会津兵が押し寄せ騒々敷くなったので愛宕山へ登り南を見たが何の変事も無い。
その内、南町より逃げ来る者の多さに驚き、家内を逃した。
次第に鉄砲の音が烈しく、南町に火炎燃え上がるのを見て、名郷山へ逃げて行った。更に
「大沢隠里忠之丞殿へ家内を頼み家へ帰って見ると、南町表通りは残らず焼失、北町は荒町が残らず焼けて、東側は水口屋おさよ殿屋敷裏まで焼ける。
中町通りは残り、大町は東側の沼利作より北へ喜太郎迄、西側は鎮守宮御門前北角紅屋小三郎より次郎八迄焼けた。
土蔵も少しは落ちた。
さて残りの分は、今夜にも又々残党共が焼立に来るとの風唱があり、誰いうともなく騒ぎ立て畳迄土蔵へ取片付た」
二本松藩には落城後「不穏な時期」があった。
八月一日の郡山郷蔵襲撃に始まる「打ちこわし」だ。
民衆は村役人・質屋・悪徳商人などを対象に抵抗を試みた。
八月六日夏出村名主が打ちこわしに遭い、本宮北名主に身を寄せている。
安積郡村々の内名主十軒が壊され、九日東西安達郡村々に移る。
十一日村々一揆が広がって玉井村小姓内辺、大江村役宅へ押入り、組頭の家財を持出し焼いた。
川東では白旗・刑部内は出金致し静まる。十二日より始まる糠沢組村々騒動では、役宅打壊し諸帳面を焼いた。
また、次に見るのは、本宮宿における無法・無秩序の事例。
本宮宿では
「八月二十七日、町中割木一切なく、先程より御組屋敷を壊し又籾蔵並びに代官屋敷を打ち壊し割木となす。本宮組代官屋敷は去る十三日夜焼失。この節は御支配頭がなく人々は我が侭勝手を働き、寄合を開いて談合し、御蔵前の籾を分配し、或いは有徳家より出金させ、又は質屋より質物を借り出す等様々」
の状態であった。
↑薩長軍が攻め寄せ、本宮宿が焼き払われると一気に治安が悪くなり、打毀し等が増えた。
これも、誰かが煽動したかもよ。
煽動に乗ったらアカンのよ。
17時から夕食作り。

残り物中心ですわ。
このあと昨夜以来の食事を摂る事に。
歩数計は9434。
充実した一日だった。