2025/6/15日曜日
3時半に覚醒。
外は雨。
朝から読書と調べ物をすることに。
今日からは再びこの本。

前回は三春藩が裏切ったところで終わった。
菅野与著「本宮地方の戦い」
<七月二十八日の戦い>
糠沢直之允の『閑窓私記』(後出)には「朝五つ少し早き頃、俄に表之方騒ぎ立鉄砲の音四方に響き……死人町裏より雷神台迄余程有之」
とあり激戦のあった事がわかる。
「奥州口御大名合戦控帖」(青田村矢吹藤四郎)には本宮南町在の合戦の様子が書かれている。
「二十八日、仁井田村には官軍、高倉村には仙台勢がいて大合戦となった。仙台勢は官軍に追い掛けられ引き返し、南在小幡方面の官軍勢は、平井縁切松・小姓内両向にて大合戦となった。楢又蔵内・山田と両方に合戦があって、仙台勢の内十人討たれた。蔵内で五人、平井縁切松で五人を出し、官軍勢が青田三ツ池へ出向き、仙台勢と少々合戦をしたが、是より仙台勢は郡山へ引き上げ、官軍勢は本宮へ陣引し、其夜は酒肴で祝った」。
次に『太政官日誌』(慶応四年二月二十三日創刊の官版日誌)に収録されている西軍各藩の激闘記録から二つのみ引用。
◯『彦根藩届書写』は沓ヶ沢合戦の様子
「二十八日未明、駅の西南より賊1000人計襲来す。官軍は速に大小砲で応戦するが、土佐・大垣・彦根藩の持場は平地、賊は山上にあったので暫時応砲せず、山上へよじ登り追撃す。賊逃走し三藩兵も漸く引き還すと、今度は須賀川口より襲来の賊あり、館林兵が能く戦ったが、応援を乞うて来たので、彦根・土佐藩各一小隊の応援を遣し、合兵して賊を追撃敗走させた。猶これを追って仁井田村へ行くが、賊の影なく引還す。又賊の仁井田村進来の報があって、土佐藩二小隊・彦根藩一小隊で戦う。賊は仁井田村を越え小坂で防戦す。暫くここで戦い、高倉村(高倉館)にて防戦するが逃走。官軍兵も引き還した。この合戦で打倒の賊三十人、駅の西方で土佐・大垣・彦根藩の持場にて賊を撃殺す。賊死する者百人計。官軍は土佐藩死傷九人、館林藩三人、彦根藩死二人・傷六人、大垣・黒羽藩に死傷なし」
◯『土佐藩届書』は会津藩襲来への対応。
「二十八日、朝七時頃襲来、弊藩兵が賊を追い玉ノ井村まで追撃、同所を放火して帰る。白川街道より彦根・館林持場へ襲来した賊兵が甚だ強く、弊藩兵八十人を応援に繰り出し、賊を追崩し薩摩兵共々追撃し、高倉駅を放火し、二時過ぎ帰陣した」
↑本を見ながら入力してても「賊」「賊」「賊」うっせーな、と思いながら読んだ。途中から、「おまえの母ちゃんデベソ」レベルの悪口だと思って気にしない事に。
当時の人々にとっては辛かったと思う。
でも、ネットの無い時代だし、多くの人がフェイクニュースに騙されてもしゃーないわな。
翌七月二十九日、本宮滞在の西軍は二本松城下を目指して侵攻。
午前五時三十分、斥候隊を出発させ、六時に本隊が進発。
隊長は板垣退助、先鋒隊は薩摩藩、本隊として薩摩藩・佐土原藩、土佐藩、彦根藩が続いた。
この時、西軍は郡山の東軍を警戒し、忍藩・館林藩・黒羽藩・大垣藩の諸藩兵を本宮に残留させている。
本宮宿には現存する西軍墓碑として、字上町薬師堂境内に西軍墓碑二基と「明治戊辰戦争殉難者碑」「戊辰戦役殉難者供養碑」等がある。
字吹上地内にも墓碑一基がある。
〈『閑窓私記』の目〉
戊辰戦争の中で民衆は様々な体験をした。戦争という異常事態の中で真面目に生き目撃した庶民の目線として薬種商糠沢直之允の手記『閑窓私記』は外せないし貴重。
33歳の時。
手記は1859年から書かれている。
戊辰戦争関連は1868年3月から9月まで。兵隊の行列・大砲の音、、戦闘・殺し合いの様子、家を焼かれ逃げ惑う民衆、軍夫や物資の徴発と分捕り、「打ちこわし」に見られる民衆の抵抗等が詳細且つ客観的に書かれている。
〈逃げ惑う本宮宿民〉
七月二十七日直之允は敵襲を知って「家内共々風呂敷を背負逃出し、衛門太郎内へ参り、家族七人で夕飯を馳走になった。この時伯父様の言うには本宮へ皇軍勢が戸毎に宿陣し張札致し、家主一人ずつ立戻る様御触があった。……叔母にも逢い互に無事を悦び、提灯借りて愛宕山下を通り家に帰って見れば、土佐藩兵屯所の張札があり、其夜は小者三人宿る」
↑家に帰ったら、自分ちが敵の土佐藩兵屯所になってたて、びっくりやろ!
更に、いきなり、敵兵三人泊めるとか!
「明七つ時(午前四時)頃右小者は出立ち、朝五つ(午前八時)に少し早き頃、俄に表の方騒ぎ立て鉄砲の音四方に響き、是は後日承りしに、仙台藩細谷十太夫の由、死人は町裏より雷神台迄余程有り、……桑畑の辺よりも鉄砲掛けられ、引返し町裏を通り鎮守宮入口の所より穢多小路へ入り、弁天橋を渡り、其内大黒山より打ち出したる砲丸が頭上に鳴り渡り、辛うじて大沢隠里に着いた」
「町裏より逃げ来る人々は清水屋清五郎・南部屋藤七・石田屋要七・南町高松屋捨吉なり。本宮の人々追々逃げ来たり……僕を始五、六人恵賜の結び飯を戴き、僅かに一時の禍を凌ぐ……さて大沢山へ登りて西の方を見れば、玉ノ井村も焼かれ(四、五軒の由)其煙り天をつんざき立登る、又鉄砲の音小姓内辺と覚しく暫く聞こえたり、又南を見れば高倉山・仁井田村も焼上る。七つ頃(午後四時)ざる山頂上迄来たりて見渡せば、高木村を通り本宮へ入込皇軍、連綿として蟻の如く引きも切らず、……定めて今夜会津勢と討合あるらんかと恐怖して、とても本宮へは帰る事も成り難しと、此の処より又々大沢へ引戻す、其夜はここに宿泊した」
↑戦地になった藩の領民にしてみれば、突然、軍の宿所になったり、放火されたり、人夫として徴用されたり、踏んだり蹴ったりだわな。
だけど、薩長軍にしてみれば江戸幕府をひっくり返す為に自分達の強さを見せつけないと、だったからね。
16世紀で戦国時代は終わったと思ってた人々はびっくりしただろうね。
え?また戦国時代やるの?て。
もっと大事な本質はこの戊辰戦争で江戸幕府が持っていた日本の主権を外国(イギリス)に奪われたということ。
そこから度重なる戦争や政策で日本の保守層や優秀なリーダー達は消されて行った。
政権の中枢には金で言うことを聞く朝鮮ルーツの日本人を据えて、植民地政策を開始。
昨日、納付書が届いた森林環境税なんてアホな税金は江戸幕府は課さないと思うよ。
その前に毎月の電気代から搾取している再エネ賦課金を無くさないと。
これで集めたお金が多くの木を伐採するソーラーパネル建設の補助金に充てられている。
国民が払ったお金で木々を伐採し、国民が払ったお金で木々を植樹する。
↑アホじゃね?
だったら最初から木を伐採しなきゃええやん。
何度も言うけどソーラーパネルは百害あって一利無し。
木は大事。
今日はここまで。
16時に昨夜以来の食事。
夫は飲み会。
長男一家も来ないので残り物で済ませる事に。
晩酌を楽しんだら読書と調べ物をする事に。
歩数計は4034。
充実した一日だった。