arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1367日目と畑とホモ・サピエンスの旅⑧

2025/6/6金曜日

3時半に起床し最新情報をチェック。

ベランダガーデニングの水遣りを済ませたら4時半に畑へ。

 

すると、早朝からアオムシさん達によるケール登り大会が繰り広げられていた。

【アオムシの苦手な方は閲覧注意】

 

優勝者発見!

DS連中は何せ虫好き。

虫関連のイベントが多い。

ビーツと紫蘇を収穫したら6時過ぎに帰宅。

シャワーを浴びたら洗濯。

いつもの家事を済ませたら明日の義母のお誕生日パーティーの下拵え。

 

じゃがいもと玉ねぎのキッシュ。

この前作った時大好評だったので再び製作。

10時半に一段落入れ、休憩。

続きは夕方やる事に。

12時に夫の昼食に冷や麦を用意。

午後は読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、篠田謙一著「人類の起源」

 

縄文人のゲノムと東アジア集団〉
日本列島に最初にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前。
↑これの根拠は何?

何処かに書いてあった?

後でもう一度読み返す事に。

 

この時代は旧石器時代として括られる。が、一万六千年前には日本列島で土器が作られている。

それから北部九州に稲作が入る三千年前までを縄文時代としている。

この時代に日本列島に居住した人間を縄文人と呼ぶ。
縄文人旧石器時代の日本列島集団の直系の子孫。

旧石器時代のアジア人のゲノムを知る手がかりとして期待できる。
2019年に北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800年前の縄文人女性人骨から抽出したDNAを現代人ゲノムと同じ精度で解析。

このデータの他に現在までに全国で数体の縄文人の全ゲノムが解析されており、それらと田園洞遺跡の人骨のゲノムデータを合わせる事で旧石器時代の集団の変遷をおぼろげなから捉える事が出来る。
まず、日本列島を含む東アジアの現代人が縄文人とゲノムを共有しているかどうかを調べてみると、最も多くのゲノムを共有するのは日本のアイヌ集団、次が沖縄の人達。

そのあとに、本州・四国・九州の日本人(本土日本人)が続く。
その他、沿海州の先住民や韓国人、台湾の先住民などの東アジアの沿岸地域の集団も僅かながら縄文人とゲノムを共有。

更に六千年前よりも新しい東アジア各地の古代人のゲノムを調べると縄文人アムール川流域の狩猟採集民、新石器時代及び鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団が、非常に古い時代に分岐した同じ系統に属する事が判明。
チベット高原の集団は元々はアンダマンの先住民などの南インド古代狩猟採集民に連なる系統とわかっている。

南インドを出発した集団の中にチベット高原に展開した者や、東南アジアから東アジアの海岸線に沿って北上して行ったグループがあると予想される。

その中で日本列島に到達したグループが縄文人となったと考えられる。


〈アジア北上のルート〉
田園洞遺跡の人骨のゲノムと縄文人ゲノムを比較すると56%が共通。

これは田園洞の集団が大陸の内部を北に進んだ一方、東アジアの集団はそれとは別の沿岸を北上するルートを選んだ可能性がある。
縄文人は4万年前以降に東アジアに展開した異なる2つの系統が合流する事で形成された。

これまでは縄文人の系統を単一のものとしてしか捉えて居なかったので画期的な発見。
北ルートはヒマラヤ山脈の北側を越える経路で所謂シルクロードに当たる地域を含む。

2014年にはバイカル湖近辺のイルクーツク市の北480kmに位置するマリタ遺跡で発見された2体の幼児の人骨から最初の古代ゲノムが報告された。
年代測定の結果、これらの人骨は二万四千年前のもので古代北ユーラシア集団の一員。

マリタ1号と名付けられた3-4歳の幼児のゲノムはコステンキ14号などに代表される西ユーラシア狩猟採集民と共通のゲノムを持つ。

田園洞に代表される古代東アジア集団から17%のゲノムも受け取っている。

これはユーラシア大陸を北方ルートで拡散した集団と、東南アジアから北上した集団がバイカル湖周辺で混血した事を示している。
アーリア人のインド侵入を受けてクメール王が民を率いて、より安全なヒマラヤ越えからのバイカル湖経由アムール河を下った伝説と一致。


同じくシベリア中部に位置するロシア・クラスノヤルスク市郊外のアフォントバ・ゴラⅡ遺跡から出土した一万七千年前の男性人骨もゲノム解析の結果、このマリタ1号と同じグループに含まれる事がわかっている。
北ユーラシアへの初期拡散は基本的には西ユーラシアから始まった。

ヤナ川とマリタの古代ゲノムに依れば4万年よりも少し後の時代に東アジアの古代人との混血が行われた。

↑以前、出雲王家に関する本を読んだ際、出雲王家のご先祖はアーリア人による侵略を受け、アーリア人が先住民を次々と奴隷にしているのに危機を感じたクメール王国の王が3千人を率い大きく北に迂回し東を目指すことにした、とあった。

バイカル湖方面からの商人に東の果ては平穏だと聞き、インドから最短距離で東に向かうと途中に蛮族が出没するから思いっきり北に迂回しアムール河を南下することにしてそうだ。

途中のチベットなどで離脱した民も居ただろうよ。

何せ、ヒマラヤ山脈越えてアムール河まで行くんだから。

ちなみに、出雲は「出ず芽」から命名されたそう。

寒い冬を越え芽が出た時の感動が由来らしい。

出雲王家と飛騨政権は良い関係を築いて居たのだけどね。

日本を侵略したい勢力が分断工作したんだろうね。

日本の人々は性善説で行動するから、まさかそんな悪い企みを持った人々が居るなんてー、て無警戒だったと思われ。

いとも簡単に騙せただろうね。

 

15時半から明日のパーティーの仕込みと同時進行で夕食の用意。

撮影したが、嫉妬され画像を消された。

18時に夫と夕食。

いつものようにウォッカ梅酒ロックを呑みながら美味しく頂いた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は6704。

充実した一日だった。