2025/6/2月曜日
5時半に起床し洗濯とベランダガーデニングの水遣り、皆の朝食作り。
7時過ぎに長女を駅まで送迎。
帰宅後、中華麹の材料をヨーグルトメーカーにセット。
ついでに、ドレッシング作り。
台所の家事が終わったらベランダでワケギの球根の根をカット。
ネットに入れて更に陰干しする事に。
10時過ぎに孫と遊ぶ為に公園へ。
長男の家にエアコン工事の業者が来るそうで、嫁がお留守番しないとなので孫達の外遊びをジジババで担当。

楽しい一時を過ごした。
あくびをしだした下の孫を12時半にお家に送り届けたら帰宅。
夫は上の孫と更に遊び13時半に帰宅。
遅い昼食を食べていた。
自分は読書と調べ物を開始。
昨日は相原秀郎著「丹羽時代の二本松藩」の中の戒石碑を紹介した。
今日は星亮一著「奥羽列藩同盟と二本松藩」
その後、北越の幾つかの大名家が同盟に加盟。
三十数藩による「奥羽越列藩同盟」が成立した。
この頃、二本松藩は奥州の入口である白河城の管理を任されていた。
同盟の会議では「新政府軍が最初に攻撃するのは白河城だろう」という予測がおこなわれた。
そこで、二本松藩の主力も全て白河城に赴いた。
〈奥州鎮撫総督〉
東北を震撼させる事件が次々に起こる。
3/18, 奥州鎮撫総督府の九条道孝の一行500余人が仙台の松島湾寒風沢に投錨。
一行は3/23に仙台入り。
会津に攻め入るよう命じた。
一行の実権を握るのは下参謀の薩摩藩士大山格之助と長州藩士の世良修蔵。
会津に向かい会津藩主松平容保に会った玉虫左太夫と若生文十郎が「会津藩主には天皇に弓を引く考えはない」と言うと「何をいうか、見下げはてた呆気だ。左様な者どもの主人もしれたものだ」と罵倒し、玉虫を激怒させた。
世良の意向はあくまでも会津攻撃。
それを仙台藩の手で行えという理不尽な要求。
仙台藩には会津と戦う理由はどこにもなかった。
奥羽鎮撫総督府の意向は誠に理不尽。
西郷や大久保、木戸ら薩長新政府の意向は、会津藩主松平容保の斬首、若松城と領地の没収。
西郷らは会津藩を生贄に選んだ。
会津を壊滅させる事で自らの権威を高め、革命政権を樹立する戦略。
↑宗主国イギリスの指示な。
遠藤由紀子
(白河の地)
戊辰戦争中、奪還と攻防をかけて七度もの戦闘が行われた城が白河小峰城。
白河城は藩主不在の幕領。
二本松藩が城番を命じられた。
棚倉・三春・相馬・平・泉藩も交代で警備。
2/16, 二本松藩は白河城番を解任され奥羽鎮撫総督府の命で仙台藩に代わった。
3/2, 奥羽鎮撫総督九条道孝から会津藩追討が奥羽諸藩に命じられた。
3/17, 総督府は二本松藩に出兵を促した。
二本松藩は仙台藩の後詰として土湯口の守備の為六個小隊を出陣させている。
閏4/1に奥羽諸藩は白河城に集結。
会津藩征討を中止させようとする嘆願書には二十四藩が調印。
翌日、総督府に提出。
九条総督は受け入れたが世良修蔵が反対し嘆願書は拒否される。
閏4/20, 会津藩と幕府の脱走兵が白河城を攻撃。
その日の未明に世良修蔵は斬殺。
西軍は白河城奪還と攻防の四カ月にわたる長い戦いが始まる。
三春三万石は迷走。
7/16, 秋田右近をはじめ、河野卯右衛門、河野信次郎(弘中)らが棚倉にいた新政府軍参謀板垣退助へ密かに帰順嘆願。
しかし、翌17日に三春藩への援軍を要請する為、仙台藩に琴田半兵衛を、会津藩に田部井求を派遣。
家老秋田主税の゙本意は?
旧幕府軍を欺くために琴田半兵衛、田部井求を捨て駒としたのか?
7/26, 三春藩は降伏。
無血開城した。
遠藤由紀子
〈小藩ゆえに〉
無血開城は三春藩の首脳部が密かに決めた。
↑藩論は一つに纏まっていなかった、と。
会津藩に赴いた田部井求は会津藩兵を預かり、帰藩途中に三春藩の降伏帰順を知り涙した。
↑立場ねーな。
「本宮地方の戦い」 菅野 与
土佐藩の三春出発に関しては「午前二時頃、兵を三春城大手門外に集め……薩摩兵と共に松沢に至る(松沢二ツ橋の戦いあり)……薩摩兵は本道より進み、我が兵は間道より進む……白岩・塩崎・糠沢において残賊と小戦となり賊皆敗走し午前十一時頃帰営した」(土佐藩『山内豊乗範家記』)
城ノ内警備の樽井隊の人数は「藩兵二〇〇余を率いて繰り込み本陣とし三春境を守らせた」とあるが、犠牲者は二本松兵五十七人、内、藩士二十九人、農兵二十八人(十五村)
〈小浜の戦い〉
大山柏著『戊辰役戦史』によると、7/27午前9時、長州隊(三中隊)が三春を出発して小浜に向かい、更に、午後4時頃増援隊として薩摩隊(二番砲隊)が出勤を命ぜられ出発したとある。
当時22歳で小浜の町目付役を勤めていた菅野善之助の証言によると
「二十七日早朝、中沢鼎と梅原新吾が小浜に来て西軍事情の偵察を命じた。両人が三春街道を稲沢村まで行くと、松沢・白岩・糠沢は勿論のこと、稲沢・長屋・和田の一部は昨夜から今朝にかけて西軍のものになっていた。正午頃に西軍四、五百人が当町に入ってきたが、町内は早朝から逃げ仕度をし、大方在方に立ち退いていた。午後一時頃になってその西軍が急に小浜成田付近まで引き上げたが、四時頃になって、又どやどや入り込んで来て、本陣を名主菅野伝四郎方に置いた。総大将は大村藩渡辺清左衛門で、この時当町の今泉一三郎や下長折渡辺閑哉など村役人がお目見をしている。一時後退したのは、諏訪神社(祭礼)の獅子舞の笛や太鼓音を聞いて、丹羽の大軍の逆襲と思っての事である。西軍総勢は二、三千人もあった様で、町内は隅から隅まで人や馬で一杯であった。中でも人足共の宿になった所は随分ひどく荒らされた。7/28は一日滞在で、二本松藩からの帰順の使者が来るのを待っていた。そして、翌早朝西軍は大方出立ち、間もなく供中方面で大砲の音が聞こえた」
とある。
尚、7/29,二本松城下への進撃は朝5時頃薩摩藩兵一番隊を先鋒とし、やや距離をとって本隊は兵具方一番隊・二番砲隊・私領一・二番隊、次に長州藩三中隊、最後に備前兵(669名)・佐土原藩の順序で出発。
〈高木の戦いと本宮宿占領〉
三春城下に入った西軍の内、本宮進撃を目指す板垣軍は黒羽藩(二個小隊と砲二門)・忍藩(一個小隊)を先鋒とし、本隊の土佐藩(三個小隊と砲)・大垣藩(二個小隊)・館林藩(一個小隊半と砲二門)・彦根藩(三個小隊)が続いた。
三春藩兵(一個小隊)に導かれた断金隊(土佐藩)が先頭を切って繰出た。
この時、本宮宿を警備していたのは二本松藩第四番組大谷鳴海隊(二小隊)80名程。
高木村で西軍と衝突。この戦いで戦死した二本松兵は25人、内、藩士23人農兵2人。本宮宿は西軍に占領された。
〈7/28の戦い〉
「二十八日、仙台藩細谷十太夫手勢三百人、同藩[烏(からす)組]を唱する三百人、都合六百人が郡山宿より駆け付け官軍宿陣を取り巻き発砲し、官軍もこれに応戦し大打ち合いとなった。又、仙台藩の御陣代坂英力手勢二百五十人程・会津藩人数四、五十人程・二本松藩丹羽右近隊四、五十人程が、江戸街道・会津街道両方より本宮宿へ鉄砲を打ち掛けて来た。これに対し彦根兵40人、黒羽兵三十人、都合七十人が、沓ヶ沢辺に於いて打合いとなった。この彦・黒両藩兵は敗れて大筒二挺と捕虜三人計、仙台・会津藩両家へと打とられ、追々敗軍となり町端の誓伝寺辺まで退いた(この時大垣・薩摩・土佐兵の援軍を得て東軍を撃破した)しかし、玉ノ井口へ出兵した仙台兵は大敗し四散した。官軍方は町端(沓ヶ沢)の大合戦で仙台・会津・二本松の三藩兵を破り、仁井田村辺まで追い詰め、同所を焼き討した。更に三藩兵が高倉館に上るが同所も焼き払い、次第に三藩は敗軍となり、苗代田村・玉ノ井村山入辺へ逃げ去った。この合戦は朝六つ半(午前七時)より七つ時(午後四時)迄続き、両方の戦死・手負人凡百五十人にのぼった」(『原瀬御用留』)
今日はここまで。
17時から夕食作り。

鮭かま、大根と舞茸と昆布の煮物、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁、ポテトサラダ、納豆、昨日の残りのビビンバ。
ウォッカ梅酒ロックと共に美味しく頂いた。
お皿を洗ったら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は7851。
充実した一日だった。