arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1362日目とホモ・サピエンスの旅④と二本松少年隊①

2025/6/1日曜日

6時に起床し皆の朝食作り。

7時過ぎに長女を駅まで送迎。

買い物をして帰宅後、納豆作りと昼食作り、夕食の下ごしらえ。

ジャガイモ餅の塩味と味噌味、つくね風ハンバーグ、目玉焼き。

合間にベランダガーデニングの水やり。

11時から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き篠田謙一著「人類の起源」

 

〈デニソワ人はいつまで存在したか〉
2019年にパプアニューギニアやフィジーなどのメラネシア集団に伝わるデニソワ人由来のDNA断片を詳しく調べ、デニソワ人とメラネシア人の祖先は四万年前と三万年前の少なくとも2回交雑。

彼らは一万数千年前まで生存していた可能性がある。
ニューギニア人やオーストラリアの先住民(アボリジニ)の人々の持つデニソワ人由来のDNAをデニソワ人そのもののDNAと比較する研究も行われた。
結果、デニソワ洞窟のデニソワ人とニューギニア人の祖先にDNAを伝えたデニソワ人が分かれたのは40〜28万年前の間であることが判明。
2021年に行われた分析ではフィリピンの先住民ネグリトの中に、デニソワ人の遺伝子をパプアニューギニアなどの集団よりも高い頻度で持つ人々が居る事も確認された。
これは、ネグリトとデニソワ人の間の交雑があったと考えられる証拠になる。
この交雑は五万三千年前頃に起こったと推定。
ネグリト集団の住んでいるルソン島のカラオ洞窟からは2019年に六万七千年前のものとされるホモ属の新種ホモ・ルゾネンシスの存在が報告されている。この人類はデニソワ人である可能性もある。

 

この本は図書館への返却期限が来たので、ここで中断。

 

次に、以前一度読んだ本を再び読み返す事に。

タイトルは「二本松少年隊のすべて」

著者は星亮一他多数。

5/16に初めて二本松城を訪れ、素晴らしいお城に感動した。

頂上の本丸まで歩いたし、大壇口古戦場も立ち寄った。

頂上からの眺望も藤の花が咲き乱れる霞池もそこから見える滝も全てが洗練されて美しかった。

思い出しながら読む事に。

 

「はじめに」 星亮一

二本松の廓内での戦争は実に惨憺たるものだった。
家は尽く焼失し、死人があちこちに散乱。焼け残った家は根こそぎ略奪され、商家の土蔵は全てこじあけられた。
在郷の農家も同じ憂き目に。
私は各地の戊辰戦争を書く場合、攻撃軍を単に新政府軍とは表現しないことにしている。

薩長の新政府軍、或いは薩長軍である。
とても菊の御紋を掲げた新政府の軍隊とは思えないからである。

その実態は略奪部隊であった。

娘は辱めを受けた。

中世史家、藤木久志氏の作品『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社)の再来であった。

水野の『二本松戊辰少年隊記』の緒言には次のようにあった。

 

慶応四年戊辰の役、会津藩においては少年相集まりて白虎隊を組織し、君国のために壮烈なる戦死を遂げたり。後世これを薩摩琵琶に断じ、浪花節に歌い、或いは演劇に脚色して武士道鼓吹の資となせるを以て、人口に膾炙せざるなきに至れり。
当時わが二本松藩においても二十有五人の少年、相団結して一隊をつくり、西南の鎖鑰たる大壇口において奮戦激突、なかば戦死せるの事蹟は、これを知るもの稀なりとする。
余幸いに同少年隊に加わるを得て、しかして余生を保ち、ここに大正六年七月二十九日戦死者の五十年の法会を営み、英霊を弔うに当り、胸中万感の往来、禁ずるにあたわず。よって思いを当年の硝烟弾雨中に走らせ、少年隊の組織とその奮戦の有様とを眼底に映じ来るに任せ、書き下せては小冊子とはなりぬ。
当時の戦友にしてなお矍鑠たる壮士、幸いに補正に吝ならざらんことを。いまこれを同好の士にわかつに当り、一言すること爾り。

大正六年七月 水野好之

 

改めて思うことは、「朝敵」「賊軍」の汚名に泣いた東北、越後の人々の無念である。

戊辰五十年代の時代は、小中学校の教科書に「朝敵」「賊軍」に留まらず、「王師に抗す」「方向を誤る」などの文字が氾濫。
盛岡出身の政治家、原敬もこれを是正すべく考え続けてきた人物だった。
原敬盛岡市の報恩寺で行われた、南部藩戊辰戦争殉難者五十年祭で、この戦争は新生日本の創世をめぐる意見の対立であり、朝敵も賊軍も存在しなかった、と従来の歴史観を厳しく批判。
原敬戊辰戦争の責任を取って自刃した南部藩家老楢山佐渡復権を目指していた。


戊辰戦争二本松少年隊」 童門冬二


二本松藩丹羽家は"愛民"を理念に〉
二本松藩丹羽家の運営方針は一言で言えば「愛民」

例えば二本松神社の祭神の座について、民の守り神を上座とし、藩主の守り神は下座としている。

また、二本松城趾の福島県霞ヶ城公園の入口に有名な「旧二本松藩戒石銘碑(国史跡)」に刻まれた教訓は有名。

 

「爾俸爾禄
民膏民脂
下民易虐
上天難欺」

 

おまえ(藩主)の給与は住民の汗と脂のたまものだ。住民をいじめるのはたやすいが、天を欺くことは難しいぞ

と言っている。
意味は「自分が誰に養われているかを常に考えろ。民をいじめるような行政を行ってはならない。何故なら羅民こそ藩政の主人だからだ。もしも民を虐げるようなことをすれば、必ず天がみていて罰を与える」
二本松藩主五代目丹羽高寛が儒学者岩井田昨非を招いて、厳しい藩政改革を展開したときに、藩役所前にあった自然石に刻ませたものである。岩井田昨非は一晩のうちにこの文章を刻んだ。寛政二年(1749)三月のことである。

「水は方円の器に随う」と言う中国の古い言葉を理念とし良い水の確保に代々の藩主が努力。
阿武隈川の治水工事に力を尽くし、藩内の諸所に溜池が作られた。これにより灌漑用水や飲水が確保され新田開発も大いに行われた。


薩摩藩の謀略〉
1867年12月末、江戸で"御用党"事件が起こった。
御用党と称する盗賊団が町の富商の家を襲っては多大な資金を強奪。

その盗賊団は堂々と三田の薩摩藩江戸藩邸に戻っていった。
つまり、「御用党の巣は三田の薩摩藩邸である」ということをこれみよがしに表明。
幕府側が三田藩邸に向かうと強盗達は裏の海に停泊中の薩摩藩の船で逃亡した。
この報せが大阪城に集結していた幕府軍に届くと「君側の奸である薩摩藩を討て」ということに。
幕軍は京都御所を目指して進撃。
既に街道には薩摩藩長州藩を核とする新政府軍が待ち構えていた。

幕軍は敗退。
↑有名な鳥羽・伏見の戦いですわ。


「薩摩軍は天皇軍であって一大名軍ではない。その証拠に、鳥羽・伏見の戦いには天皇のシンボルである錦の御旗が掲げられている。それをくだされたのは天皇だ。従って薩摩軍は天皇軍であり、これに背く旧幕府軍は全て朝敵である、逆賊である」
という論理を打ち立てた薩摩藩の変心とその後の行動は、全て京都に居た東北諸藩の派遣員達の知るところ。
従って、京都に居た連中は政治の流れを具に見聞きしていた。
東北諸藩は朝敵とされた会津藩の汚名を除こうと嘆願する事に。
そして。奥羽列藩同盟を結成。
会津藩に謝罪と恭順を促した。

が、その時、藩主の首級も要求された為に会津藩の態度が硬化。
当たり前だ。
「京都の治安を守ってくれてありがとう。これからも宜しく頼む」という感状を孝明天皇から2度も賜った松平容保が何で朝敵の汚名を着せられなければならないのか。
松平容保が京都の治安を守る為に闘っていた相手は薩摩藩長州藩の連中。
恐れ多くも天皇が住む御所の蛤御門に向って発砲したのは何処の藩の者?

(答)長州藩

今も弾痕あるで。

今日はここまで。

 

16時から夕食作り。

ビビンバ&タレ、目玉焼き、ソーセージ、納豆、ローストナッツ、筍の煮物、イカと里芋と牛蒡の煮物、昼の残り、ウォッカ梅酒ロック。

18時に長男一家が到来。

皆で良く呑み良く食べた。

お皿は長男が洗ってくれた。

20時半に帰って行った。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は6585。

充実した一日だった。