arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1358日目と畑と秋田・庄内戊辰戦争㉕

2025/5/28水曜日

3時半に覚醒。

読書と調べ物をしていたが、いつの間にか寝落ち。

6時45分に起床し皆の朝食作り。

洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませたら8時半に畑へ。

未明に雨が降ったので土が湿っている。

暫く、じゃがいもの試し掘りは無し。

ポット苗の成長が悪く移植出来ない作物の直播き。

ベランダは悪魔くんが緑色の液体を撒いて成長を阻害する。

畑でもやられるが、畑は広大なので助けも色々あるだろうと思い、直播きする事に。

現に、緑色の液体を撒かれても元気に育っている作物が多い。

9時半に買い物へ。

10時半に帰宅後、仕分け。

終わったら、漸く、読書と調べ物。

11時半から夫と長女の昼食作り。

蕎麦を茹でた。

12時過ぎから再び読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、郡義武著「秋田・庄内戊辰戦争

 

郷右衛門は上下の信頼厚く、人情味豊かで部下を心服させ、また八月末の軍議の提案などを見ると、卓越した識見も有しており、数々の武勲も挙げた理想的な野戦指揮官であった。
刈和野奪回戦の時も、銃弾乱れ飛ぶ中を悠々と立ち回り、指揮する郷右衛門を見て有る人(権蔵か)が忠告。
「寄るべき物があるときは、身を寄せて玉を避けられよ」

郷右衛門は

「されば、夫もさる事ながら、物に寄り下に伏し抔するときは、隊下自ら気後れせんかと思われるなり」
と、忽ち敵弾に陣笠を撃ち抜かれた。

が、別に何事もなかったかように、悠然としていたという(戦争余談・『鈔兵衛雑記』)
二番隊の小隊長は他にも上田伝十郎、果断の酒井治郎右衛門、剛勇の寺内権蔵、悠々の相良惣右衛門、飄々とした神田六右衛門など、個性的で有能な指揮官が揃っていた。
勿論、これらを纏めた副将竹内右膳の人柄もある。
このチームワークの良さに大隊長酒井吉之丞の武士道精神を守り、積極果断、敵の意表をつく卓抜な戦法、不屈の精神、これらが小隊長によく理解され、総合的にプラスされ、実力以上の力を発揮したのであろう。


9/26,鶴ヶ岡城は開城。
西郷吉之助(隆盛)と共に総督黒田了介、参謀舟越洋之助が城下に入った。
藩主酒井忠篤は直ちに城を出て大山街道の禅龍寺に入り謹慎。
翌27日、城内の武器弾薬全てを西軍に引き渡し。

西軍はこれを新発田の総督本営に輸送。
庄内藩士は自宅に謹慎。

用があれば、両刀を帯びたまま自由に外出できた。
翌年、忠篤忠宝に約五万石減の十二万石で酒井家存続が許された。

抗戦諸藩中最も少なく極めて寛大(例 会津藩二十万石減、仙台藩三十四万石減、盛岡藩七万石減、桑名藩五万石減) 
明治2年6月、磐城平に国替えを命じられた。

が、藩主・領民の嘆願が認められ、忠宝は庄内に留まることを許された。

その代わり金七十万両の献金を命じられた。

藩主・領民全てが力を合わせて献金

三十万両を新政府に献納し事なきを得た。
↑早速の搾取。

 

戊辰戦争における庄内藩の死傷者は734名。
戦死322人。負傷412名(『庄内戦争録』による)
秋田藩の戦死者は461名(負傷者は不明)
その頃、戦い終えた吉之丞は次のような一詩を詠んでいる。

 

戦い敗れて三軍 哭して声を呑む
寧ろ知らんや雌伏 雄を失って鳴かんとは
鎏戈(りゅうか)組練 何の顔色ぞ
涙を収めて強いて登る 白鶴城

 

実に読み応えのある本だった。

 

17時から夕食作り。

三分米ご飯、味噌汁、納豆、ローストナッツ、ツナワカメサラダ、カレー、残り物、ウォッカ梅酒ロック。

夫と長女にカレーが大好評だった。

自分も納豆ご飯のあと、ご飯をお替りしてカレーを食べた。

後片付けを済ませたら読書と調べ物をすることに。

 

歩数計は5104。

充実した一日だった。