2025/5/26火曜日
3時半に覚醒。
長女は昨夜発熱。
お弁当は無しで、と言われた。
取り敢えず、読書と調べ物。
〈本国への撤退〉
石原藤助戦死
翌9/16、二番隊が刈和野を奪回する為、吉之丞が自ら采を振るって激を飛ばし、最後の奮戦をしている頃、一番隊も西軍の追撃を食い止め、引き揚げを容易にする為の撤退戦を行った。
未明より藤助・小隼人のニ゙小隊長を上淀川に派遣。
本隊は峰吉川に移動。
両隊は本道の左に布陣し境から追撃してくる西軍に備え、本道右に布陣している亀ヶ崎隊(井村奥右衛門隊)の引き揚げを助け、折を見て繰り引きに後退する手筈だった。
午前10時頃より、西軍来襲し最後の銃撃戦が始まった。
開始直後、先頭で指揮していた藤助は足を撃たれ転倒。
↑藤助をピンポイントで狙うヒットマン現れる〜。
これまでの戦いを見て、藤助の優秀ぶりに、今後の侵略に障害となりそうなので消しておく事にしたか。
藤助は重傷だったが強靭な精神力で持ちこたえ、鶴岡に引き揚げたのち、絶命。
享年28歳。
哀悼。
石原藤助は鶴岡光明寺に葬られた。
↑藤助は旧姓長尾。
上杉謙信の系譜じゃね?
惜しい人を亡くした。
西軍兵力が増加しているので純蔵隊に続いて金剛隊も応援に駆け付けた。
そして、午後2時頃から応戦を徐々に止め、篝火を各所に勢いよく燃やし後退を開始。
最後に金剛隊が引き揚げようとした時、既に辺りは暗かった。
突然、脇手の藪の中から10人程の兵が飛び出した。
厳しく誰何(すいか)すると「味方成り、味方なり」と叫んで袖印を見せる。
聞けば、松山隊の酒田町兵で、昨日の戦いで打ちすくめられ、そのまま隠れていたが、漸く逃げてきたという。
是非、お供にと懇願され、金剛、苦笑しつつも一緒に連れ帰った。
猪太夫達も昼過ぎには峰吉川に到着。
以後、猪太夫が藤助隊も合わせて指揮を執ることになる。
直ちに荷物を運び、余計なものは全て焼き捨て、引き揚げの準備に忙殺。
一番隊も最後の戦いは快勝とはいかなかったがこれで全ての戦いは終わった。
↑一番隊は隊長にやる気が無くて悲惨だったな。
山形藩の使者が本営に来て、同じく、この日引き揚げると挨拶に来た。
翌9/17の午前3時、一番隊は峰吉川を発って刈和野を経由し、神宮寺へ向かった。
同じく、17日午前2時、二番隊も刈和野を出発。
帰国の途に。
神宮寺で昼食を摂り一番隊の到着を待った。
神宮寺で雄物川を渡河。
舟が少なく、かなり時間が掛かり混雑。
一番隊を先にし、二番隊は後から。
午後には無事大曲に到着。
ここで仙台藩、山形藩とお別れ。
午後3時頃に大曲を出発。
夜中には横手に到着。
一、二番隊共ここに宿陣。
傷病兵も多数おり、大部隊にも拘わらず、帰途は迅速。
かなりの強行軍。
ここで、新庄方面は敵西軍の制圧下にあり、との情報が(これは誤報。米沢藩を先鋒とする、薩摩黒田了介率いる西軍が、山形から寒可江に達したのは19日のことである)
止むを得ず、18日、ここ横手から道を西へ大きく迂回。
一番大隊は楯合・矢島・市神と泊まりを重ね、海道口へ出て22日、無事、酒田に到着。
二番大隊は18日田代泊、19日百宅、20日飛鳥(酒田)着。
帰途も険しい鳥海山の半腹鍋倉峠を越える難行軍だったが、好天に恵まれ無事に懐かしい故郷へ帰着。
9/15から全員殆ど不眠不休の撤退行。
飛鳥には鶴岡の本営より心尽くしの酒肴が届いており、特に新鮮な鮭には全員が舌鼓。
翌9/22(新暦11/6)二番大隊は未明に飛鳥を出発、最上川を渡り、城下横山で昼食。
ここから全員整列し、隊伍を組み「七星の大旗」を先頭に堂々と行進。
午後3時、鶴ヶ岡城に到着、大手門前で陣列を正し整列。
士分一同、藩主御前に召され、懇ろなる御意を賜った。
その後、鯨波(とき)を上げて解散。
それそれ懐かしい我が家に帰った。
三、四番隊がまだ国境の警備などに就いていた事を考えると、この二番隊に対する処遇は破格であり、それだけ藩首脳からも高い評価を受けていたと考えられる。
引き揚げの状況について淡々と述べている水野郷右衛門の日記を引用し、彼ともお別れしたい。
「雄勝峠の方は通り難からん、官軍既に入りし故なり、依て矢島より升田越えして引上げの事に決す。始めは弾薬尽きたる為に、大曲迄引上げると隊下へは聞かせたれども、大曲に至り、領国の模様に依って引上げの事に成りしと聞かせしに、皆々落涙忍びざる躰なりき。是迄は一同粉骨を尽し、近く久保田を取るべき迄働きたりしが、今は皆水の泡となり、苦々しき心地言語に絶たり。此引上げと云しより、今度別道に成りて、亀田領田代と申す所へ一泊、夫より百宅に泊り、鳥海山の半腹を越え、庄内領升田に入る模様を聞くに、今を以て御領内に敵入らざる趣なれば、一と先安心。帰国しぬれば畳の上に息み、又是迄多分の里数なるに、日一日として歩行せざる事なく、日々戦争にて、草鞋の脱がざること幾日なるか、足の指悉く傷み、一同容易ならず難儀せし也、夫より飛鳥泊、翌日帰鶴す。但し月日も記さず、末迄を爰に記しぬ」
総引き揚げの時、兵士には弾薬が無くなったから大曲まで後退する、大曲で初めて本当の事を説明。
↑そうだったんか。
小隊長までは知ってたんか。
これは兵の士気の低下を防ぎ、また秘密保持の意味もあったのだろう。
これを聞いて兵士は皆落涙したという。まさに断腸の思い。
流石に几帳面な郷右衛門も最後の撤退行だけは日記が付けられず、後で纏めて記している。
↑庄内藩には久保田城まで行ける勢いはあった。
それを断念させられた、という事は内部にフリーメイソン工作員おったな。
千載一遇のチャンスを逃したく無かったと思われ。
その強引さにより、色々とバレバレてすわ。
あれ程、イギリス本国からは自分達が後ろで糸を引いているとバレないようにやれ、と指示があったのにね。
5時半に起床し皆の朝食作りとベランダガーデニングの水遣り。
6時過ぎに畑へ。
じゃがいもの試し掘りをしようと予定していたが土が湿っていた。
見ると、葉が濡れている。

いつの間にか雨が降ったようだ。
それはそれで幸い。
水遣りは無し。
持参した納豆菌培養液を振り掛けるだけに。
その最中、トマトの株元にめっちゃ緑色の液体を掛けられているのを発見。

この株は大きく成長しているので嫉妬されたようだ。
これは昨年秋に悪魔くんが発芽させ、越冬した株。
春先元気が無くなったので畑に移植したら元気になった。
ほっといてくれる?
7時半に帰宅すると次男は出勤したあとだった。
シャワーを浴び、洗濯物を干したら、再び読書と調べ物。
13時過ぎに夫が帰宅。
ラーメンを調理した。
17時から夕食作り。

納豆オムレツ、ひき肉と厚揚げとキムチの炒め物、大根と茄子の味噌漬け、サラダ、ローストナッツ、目玉焼き、チーズ竹輪、昨日の残り物、ウォッカ梅酒ロック。
如何に美味しく呑むか、しか考えていないからおつまみ献立ばかり。
お陰様で今日も美味しく呑めた。
おかわりは日本酒。
5月は子供の日で酒が呑めた。
6月は田植えはしないけど、草取り・草刈りで酒が呑めるな。
後片付けを済ませたら自分の時間。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は6297。
充実した一日だった。