arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1356日目と秋田・庄内戊辰戦争㉓

2025/5/26月曜日

4時半に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず作り。

ついでに中華麹作り。

合間に2回の洗濯とベランダガーデニング。

水遣りや苗ポットの移植作業。

緑色の液体を撒かれ、苗が生育不良。

土も替えて大きな鉢に植え替えた。

今年はカボチャとキュウリ、大豆の発芽が阻害されている。

奴らの人口削減計画に邪魔な作物なんだろうね。

8時から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、郡義武著「秋田・庄内戊辰戦争

 

混乱と悲劇は農兵隊で甚大だった。
加藤竹三郎率いる農兵隊はこれが初陣。

彼らは敵の包囲を切り抜けて脱出することは出来なかった。

銃撃戦には強いが白兵戦には弱い、という民兵の弱点を露呈。

地形も分からぬ敵地で包囲されパニックに。

この戦いで戦死者17名手負い6名の大損害。

農兵一番隊は壊滅状態に。
今一つ解せない事は一番大隊主力の行動。
僅か猪太夫・三十郎・農兵隊の三小隊の奇襲挺身隊を応援に出しただけで、主力は荒川から動いていない(深夜になって4キロ後方の峰の山に転陣している)
すぐ近くの本道の上淀川では午後から激戦が続いており、応援要請も来ていた。
更に翌日も二番隊のように最後の決戦もしていない。
何故だろうか。
一番大隊隊長松平甚三郎本人が今度の総引揚げ、本国帰還を強く提案してものと考えられる。
最後の一戦を主張したのは吉之丞だったよう(既に甚三郎は八月末の軍議で一番隊を後方横手の防備にまわし、二、三、四番隊で久保田城を攻める案を出していた)
この裏付けになるのが9/14に開かれた軍議の席上での上田伝十郎の発言とそれに対する甚三郎の答えである。
総引揚に決まったが、本国からの指令も無いのに、何故、急に帰国するのかと、各小隊長達も内心は不審を抱いた。

が、甚三郎に遠慮したのか誰も発言しなかった。
年長の伝十郎が臆せず言った。
「御国よりの御沙汰と申すにも非ず、只推察して兎角や有るべきとて、引上げ玉わんこと然るべからず、若し形勢の悪しきときは戦って死ぬまでのことなり、事の躰有の儘に御披露有度し」
総引揚の本当の訳を打ち明けて欲しい、と言った。
これに対し甚三郎は

「如何にも尤もなり、されど、思う些細有りて深く心に決せしなり。若し、御趣意に叶わざらん日には、一身に引受けん事勿論なり、今将に精敷く云うに及ばず」
思う子細あって決断した、この責任は一身に引き受けるが、今、理由は言えない、と答えた。
「左程御決断有られる上は、いかで大将の命には背くまじ」と答え伝十郎は引き下がった(『庄内戦争録』戦争余談)


これに関し大山柏『戊辰役戦史』は「(秋田城攻略を)松平一番大隊長は不可能と見たらしい。この総退却を発案したのは大隊長と考えている。また積極的で勇敢な酒井二番大隊長もこれに同意したのは、よく自己反省が出来ていたと言うべきである。両大隊の能力が最早最大限度にある点を弁えたからと考える」
↑わいの私見では、吉之丞は秋田城攻略までやり切りたかった。

が、甚三郎が総退却を主張。

甚三郎の方が俸禄や役職、家格が上なのか知らんが一番大隊長の方が上なんだろ。で、吉之丞は総退却に従う事を条件に最後の戦いをやる事になったのでは。

最後に藩主に叱咤激励された秋田藩の資料「久保田戦記」を引用。
「申刻(午後5時)に至り、砲戦益々熾烈の処、賊等伏兵を吾兵の後に回し、官道を遮り挟み撃ち候に付、因州・新庄・弊藩の兵これに当たり防戦の所、賊已に堺村に乱入、焼余の人家へ火を放ち烈戦、暴進に付、諸軍動揺、已に旋退の隊もこれ有、其時寺崎藤九郎兵、佐土原・新庄二藩の兵へ相議し、賊兵の後ろへ廻り、敵を挟撃致すべしと策を定め、山谷を越え官道へ出候処、その兵の未だ達せざる間に、船岡に宿陣せし長・因の兵已に繰出し、賊兵の後より攻撃致し候処、果たして賊前後の敵に敗潰致し候に付、各隊気を得て猛進、刀槍を以て衝突し、引揚げの諸隊も又旆(はた)を返し、一同進撃致し候処、賊兵死傷数を知らず、大敗走と相成り候、戦死十六人、傷九人」
この戦闘での西軍の損害は薩摩兵が傷2、秋田兵戦死16傷9、新庄兵戦死4傷7、佐土原兵戦死3傷4、鳥取兵戦死3傷8、長州兵戦死1傷5。

↑わいにはこのあと日本を牛耳るフリーメイソンの思惑が透けて見える。

庄内藩水野忠邦の時代に三方領地替えを申し渡された。

が、領民が次々と江戸に来て直訴。

三方領地替えは取りやめになった。

明治新政府で支配者なる予定の者にしてみれば、これから廃藩置県もやるのに、厄介な存在でしか無い。

本来、農民は米を作り年貢を納め藩主以下の武士を食べさせるのが仕事。

戦うのは武士の仕事。

それなのに、後方支援ならまだしも、最前線に立たされたのは悲劇でしかない。

日頃から鍬は持っても武芸には勤しんでない。

酒田の商兵隊も多くが犠牲になった。

庄内藩フリーメイソンから工作員が送られたという確証は無い。

けれど、今後、調べてみようとは思う。

 

10時半にお孫ちゃん達が来訪。

夫と公園で遊んでいたが、夫が調子が悪くなり急遽、一緒に帰って来たそうだ。

孫達は11時半に帰って行った。

夫は昼食を食べなかった。

15時半から夕食作り。

17時から昨夜以来の食事。

鮭、牛蒡と蒟蒻の煮物、ししゃも、焼き芋、ローストナッツ、朝の残り、サラダ、納豆、ご飯、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

お皿を洗ったら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は5167。

充実した一日だった。