2025/5/24土曜日
4:30に起床。
5時に畑へ。
まずは里芋の二条植え用の畝作り。

畝が出来たら種芋を植えて行った。
手前右側には悪魔くんが苗用ポットで育成した苗も移植。
次にトマトの畝立て。

最後にゴーヤ畝にネギ苗を移植。

8時40分まで掛かった。
汗びっしょりで帰宅後、シャワーと洗濯。
ついでにお風呂掃除。
悪魔くんが毎日のようにカビ菌を仕込んでくる。
それを探すのが日課に。
ベランダガーデニングの水遣りをし洗濯物を干し終えたら、醤油を絞ったあとの醪を容器に移す作業。
あっという間に11時に。
夫の昼食の下準備を済ませてから、読書と調べ物。
9/16 刈和野奪回 最後の戦い
この日の天候は二番隊戦況報告には「朝方雨、午後より天気」
しかし刈和野から西北10キロの境方面の一番隊の報告には「曇天寒風甚だし」
これは秋田仙北地方独特の変わりやすい天候を示している。
↑或いは悪魔による気象操作。
副将右膳は朝一番に久蔵を呼び一関勢に使い。
江口四兵衛の附従隊と共に川を越え、向こう岸より舟で刈和野の敵を横撃させる、大胆な迂回作戦である。
そこへ、喇叭が鳴り響き「七星の大旗」が戦場に翻った。
『酒井忠宝家記』によれば、
「大隊長酒井吉之丞自ら病を扶けて、轎(きょう)に座して押し出し、七星の牙旗を翻し、諸隊に令して曰、作境の戦い一番隊死傷多く、いま一関敗走し刈和野にある一番隊の弾薬悉く失う、且つ前後道途絶え、我隊又明日の糧を余すのみ、万死の中に一生を得る、只此勝敗に在り
、諸君勉めよ」
吉之丞はこの日未だ病床にあったが、悲壮な覚悟で駕籠に乗って出陣。
轎というのは肩に担ぐ輿の事である。
輿に乗って采配を振るったのは戦国時代の黒田官兵衛、関ヶ原の戦いにおける大谷吉継などがいる。
何れも名将・智将と言われた人物。
吉之丞が戦場に登場し自ら采を振るって指揮してからは味方が勢いを取り戻し、午前十一時頃より本道の敵は引く色となり、徐々に刈和野の町中へ入り込みつつあった。
前日午後より先鋒で終夜戦い続けた郷右衛門隊の状況が心配だが、『郷右衛門日記』に依れば、
「我また陣笠を打ち抜かれ、隊下二人(下山文八郎・本間栄次郎)と家来重蔵手を負いたり、終夜砲戦、芝草山の戦いなれば、薪は絶えてなし、月明なる清夜なれども寒風肌を透すがごとし、堪え難き余り、萱抔を集め火を焚きぬ」
一晩中、寒さに震えていたようだが、これはまだ余裕のある証拠。
時々忍んで来る敵の斥候と斬り合い、郷右衛門自ら敵一名仕留めている。
同じく、先鋒の権蔵隊の状況だが、終夜、銃撃戦を展開。
兵も疲れ、弾薬も乏しくなった。
そこへ、参謀神戸善十郎が来て権蔵に耳打ち。
「刈和野の弾薬は敵に奪われ用意なし。かくなるうえは、切込むべき趣向は無きや」
権蔵、即座に答えた。
「如何にも心得たり、左あらば直に奮進すべし、我が隊の持場を空けて駆込むは無策なり。代わるべき兵を向けられよ」
参謀「至極尤もなり」と答えて戻り、間もなく一関勢を寄越した。
更に、このあと「権蔵覚書」に依れば
「隊下に兵糧を給させ、軍夫の持ちたる弾薬を隊下に与え、胴乱に入らざるは懐中させ、打ち尽さば死を極め、切り込まんと決したれば、隊下と雖も自ら決し、さらば進めと声を掛けて、高き所に駆登れば図らずも敵我に動揺せり。天幸也、機会を外すな、切込々々と腰より采を取出し、突き進め者共と真先に駆込めしに、隊下はいかで後れぬべきと二十三人(氏名略)先を争い、脇も見ずして攻め掛かれば、諸方の味方一斉に攻め立てる。太鼓喇叭に鬨を合わせて打込みければ、其声山谷に響いて夥し、味方の勢い烈しければ、流石の敵もこらえ兼ね、手旗を揮って列を乱さず、駆足にて退走す」
権蔵隊は昨日からの戦闘で弾薬が乏しくなった。
参謀の勧めもあり手持ちの弾丸が無くなったら西軍陣営に斬り込む事にして握り飯を食って準備した。
いざ、斬り込まんとしたその時、西兵に動揺が。
この機を逃さず諸隊は一斉に総攻撃に。
西兵は昼過ぎ(午後2時頃)敗走に移った。
何故、西兵に突然動揺が?
最も大きな要因は神宮寺から駆け付けた一番隊の竹内大作隊が刈和野の背後から攻め掛かった為らしい。
大作隊(編成時57名)は神宮寺の留守を仙台兵と共に預かっていた。
が、昨日午後、刈和野に火の手が上がるや応援に駆け付けた。
到着した時夕暮れだったので、刈和野手前に宿陣。
この日、改めて仙台勢と共に攻撃を開始。
『大作覚書』に依れば、
「本道及び左右に兵を分けて、厳しく打たせし時に小頭阿部米治(33歳)・同鈴木茂右衛門(48歳)討死す、隊下一同憤戦せしも、仙(台)兵とかく崩れ立ち、心元なく覚えしより、隊長上遠野伊豆へ『斯く大切の場合なれば死を極めて憤戦せよと厳令もせられるべき筈』と談せしかば伊豆答て『指揮行届くべしとも覚えねば、我が隊をも貴殿の隊に合併して引立て給え、何分御任せ申さん』と頼まれし故、『左あらば、受け承りぬ』と答えて、右山上に在りし、柴田中務が一隊をも招き集めて一隊とし、小頭ともへ能く含めて打たせた」
↑仙台勢からの庄内隊への信頼の厚さが半端無い!
秋田憎しの一念もあり米沢藩のように早々と同盟を脱する事も無く、数度の敗戦にもめげす、ここまでよく戦い続けてきた。
↑仙台藩士11名惨殺・晒首事件あったからな。
大作は仙台勢も指揮下に置くと一丸となって攻め立てた。
ここの西軍は薩摩兵主体だが流石に堪えきれず崩れ出した。
『島津忠義家記』には
「刈和野の方連戦に付、弾薬尽き果て、やむを得ず弊藩後殿にて引取り申し候」
と、弾薬が無くなったので止むを得ず引揚げたと言っている。
川端から奇襲する筈の一関勢はどうしたのか分からない。
↑一関勢とは、、、、、?
三方向から攻め立てられれば防ぎきれない。
残された唯一の脱出口、昨日攻めてきた東への間道から敵は、元の角館へと敗走。
敵を包囲しても必ず逃げ道は一箇所開けておく。
完全に包囲するのは野暮で武士道にも反する。
また、開けておかないと「窮鼠猫を噛む」または「死兵は強し」の例えのように敵の必死の反撃を食って味方に無駄な損害が出ることもある。
「囲む師は必ず欠く」とは孫子の兵法にもある有名な言葉。
この戦いを西軍側資料の『黒田長知家記』で見ると
「十六日、諸兵川堤に列なりて発砲し、後圃中に散して接戦せしが、賊兵益加り、我は疲労せしに後軍より、指揮旗を挙げて招きければ、中島が属兵、大村藩と共に引き揚げんとせしに、賊兵我を走ると見けん追い来る、我止まりて発砲すれば、彼退き、兎角して飯田が兵と会い、共に属兵を励まし、奮戦して繰引きにし、心像を経て小杉山(刈和野東六キロ)に引き揚げり、弊藩死四人、傷五人」
これを見ると田圃の中で散兵して戦っていたが、大村兵が先に引き揚げを始めたので福岡兵も繰り引きした。
随分遠回りして引き揚げた。
心像というのは小杉山の北4キロの山間の集落である。
それではその『大村藩記』を引用。
「十六日、尚奮戦の処、神宮寺より賊兵大挙襲来、互いに砲戦、賊終りに遁れ去り候得共、孤軍疲労、三藩の兵隊先ず半道寺へ相い纏め、夕七時頃小杉山へ引揚げ申し候、(中略)弊藩戦死七人、手負い三十二人」
何れの戦場でも健闘した大村兵はここでも果敢に戦って大損害を出す。戦死者は分隊長片山好馬(38歳)を含め7名。
重傷のち死亡3名が加わる。
庄内藩兵の名簿を見ると、農兵隊の中に15歳の隊員は数名居る。
一番隊の石川猪太夫隊にも須田金助という15歳の少年兵が居た。
彼は15日、境村の夜戦で引き揚げる時に間違えて敵薩摩兵の中に紛れ込んでしまった。
逃げ道が無いので大樹に登ったが、忽ち発見され下りなければ撃つと云うので止むなく下りた。薩摩兵に捕らえられ尋問された際「かかる場合に成りたる上は速やかに首を斬られんこそ、願わしけれ」と潔く答えた。その堂々たる態度に薩摩兵は感心し、敵の勇武を称賛するのが本来、薩摩隼人の長所である。
「この者は殺す事なかれ、速やかに国に帰すべし」と解き放たれた。
が、戻って来ない金助は戦死したものとし翌日に本隊は引き揚げを開始。
金助があとから遅れて単身帰国した時は既に葬式も済んでいた。
「死者の蘇生したる様に、皆々悦び合えしとぞ」(『庄内戦争録』)というエピソードである。
↑薩摩兵の中にも武士道のわかる隊長が居たのな。
それにしても庄内軍の小隊長達の有能さには驚く。
これだから西軍に比して兵士の数が少なくても勝ち進む事が出来たのな。
今日はここまで。
13時半に帰宅した夫の昼食を用意。
15時半から夕食の下ごしらえ。
17時に長男一家が到来。
久々にお孫ちゃん達と邂逅。

作ったのはハンバーグとサラダと醪汁とローストナッツ。
それ以外は実家の母からの差し入れ。
青森や立ち寄った場所の土産話で盛り上がった。
長男一家は19時半に帰って行った。
後片付けが終わったら営業終了。
明日のさいたま市長選挙に向けて調べ物をする事に。
歩数計は12227。
充実した一日だった。