arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1353日目と畑と秋田・庄内戊辰戦争⑳

2025/5/23金曜日

5時半に起床し皆の朝食と長女のお弁当のおかず作り。

ついでに納豆作り。

合間に洗濯とベランダガーデニング。

鉢植えに水遣りをしたら、苗の植え替えと種蒔き。

うちに常駐の悪魔くんが勝手に色んな鉢に種を蒔く。

レモンやミョウガの鉢からはトマトやピーマンが発芽。

法事で帰省している間に大きく成長。

折角なので鉢に植え替える事に。

困るのは苗用ポットにも勝手に種を蒔く事。

先日はゴーヤと茄子が混植されていた。

そして、今日は、畑でゴーヤの苗を移植中に里芋の苗を発見。

その種芋、何処からゲットしたん?

わいのコレクションから勝手に種や種芋植え付けるの止めてくれ。

いつも言ってるけど、CIAに買って貰え。

 

9時半に畑へ。

まずは、スイスチャードやレタス、パセリ、紫蘇、紫キャベツ、ネギ等を収穫。

そして、持参したバックアップ用のキュウリ、ゴーヤ、冬瓜等を植え付け。

悪魔くんが発芽させた里芋は植える予定の畝に仮植え。

まだ畝立てしていない。

明日畝立てする事に。

10時半に畑を後に。

そのまま買い物へ。

帰宅すると11時半。

そのまま夫の昼食のラーメン作り。

食材を仕分けしたら、漸く自分の時間。

12時半から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、郡義武著「秋田・庄内戊辰戦争

 

吉之丞は病床にあったので代わりに副将右膳が指揮を執る事に。

近くにいた治郎右衛門が素早く五、六名の部下を連れて敵情偵察へ。

右膳は郷右衛門と権蔵隊に先鋒を命じ、自身も自隊と江口四兵衛(右膳組・250石)の附従隊を率いて出撃。

右膳は通い慣れた本道を急進し、前沢の先にまで進出し、道端の一軒家を本営に。

権蔵・郷右衛門隊は左山の手に進み、右川端は中村順治半隊・山内三吉農兵隊、本道は安倍平三郎隊(元正蔵隊)に六右衛門の大砲隊という布陣。

この辺りから闘志剥き出しの西軍の抵抗は激しくなる。

が、前回の刈和野戦のように胸壁陣地を築く暇が無かった。

従って、一面の田圃の畔や溝に伏せて射撃する。

積極且つ機動性に富んだ攻撃にならざるを得ない。

遮蔽物が無いのは味方も同じ。

真っ先に駆け付けた治郎右衛門は敗走してくる一関勢の背後に敵兵が入り混じるという混乱した状況がわからず、一関勢を引き留めようとした時、西兵に狙い撃たれ重傷を負った。

↑はいー、悪魔発見!

一関勢に紛れて走ってくるとか、治郎右衛門をピンポイントに狙ってるだろ!

余りに優秀だから。

 

治郎右衛門は撃たれた後も、屈せずに指揮を続けた。

『治郎右衛門覚書』によれば、

「午後ニ時頃、田村勢迯れ来るとの趣を聞き、隊下五六人を率いて真っ先に駆け出しに、芦(前)沢村の先にて敵丸に中って退く。我は手負いしと雖も、隊下は爰に留まり、田村勢を追い来る敵と砲戦す、且つ田村勢に数度弾薬を与えて防戦せしむ、敵鋭気壮んにして大に苦戦す。横山小助(分隊令)、伊藤沢右衛門、田村勢を励まし大に功あり、砲戦暮れに及ぶ。此戦いに須藤文内咽打抜れ、新宮卯助(二十二歳)は腹を打たれて深手を負う(いずれも引き揚げ後死亡)」

と逃げてきた一関勢に弾丸を与えて踏み止まらせ、励まして夕方まで戦い抜いたが、西軍は鋭気壮んで大いに苦戦したという。

↑撃たれても指揮し続けるとか、壮絶。

 

尚、初戦の舟形以来、常に最前線で指揮奮闘を続けてきた、歴戦の老巧な第二小隊長酒井治郎右衛門は最後の戦いに傷ついて数日後遂に落命。

治郎右衛門は鶴岡安国寺に葬られた。享年41歳。

↑哀悼。

 

続いて川端へ廻った農兵隊長山内三吉も撃たれて本営に護送され、2日後に死亡。

享25歳。

代わりに平三郎が農兵隊も合わせて指揮し戦闘を続けた。

一方、山手へ廻った権蔵・郷右衛門隊は、『権蔵覚書』によれば、

「郷右衛門と共に先鋒の命を受け、左山手の敵を追散らし、山上より進撃す、(敵との距離)四百ヤルト(ヤード)。敵丸雨より繁く、半隊旗持ち打たれて死す、敬治半隊を引き奮進して敵を打つ、三百ヤルト、自分も敵丸に中って退く。夜に入っても戦い益々烈し、夜更け敵二名我背面を窺う、伊藤沢右衛門(伍長)を前沢に返し、病兵を引き来て終夜巡邏せしむ、日下部武七一人を切る、松浦(平戸)藩という」

如何にも歴戦の闘将、権蔵らしく状況を無駄無く簡潔に伝える。

敵との距離を正確に記述しているのも彼の特徴である。

※1ヤード=0.9144 メートル

今日の西軍は簡単に敗走せず約100mの距離で銃撃戦を展開。

夜に入っても戦闘は続く。

更に、大砲半隊を率いて本道上に進撃した六右衛門にも登場してもらおう。

尚、残り半隊は分隊長矢島逸策が率いて一番隊の応援に向かっていた。

『六右衛門日記』に依れば、

「前沢の先なる小山の有るに拠り、大砲を備えて控え在りしに、刈和野より田村勢先を争い迯れ来る故、恥ずかしめて引留めしに、尚跡より来るは敵ならば打入るべしと田村藩へ聞きたるに、能く々々見るに敵も味方も入り交じりて来れる也と云えり。故に暫し見合せしに、松並木より出たる所にて、其内より成りて留れる有り、田村藩曰あれこそ残らず敵也と、依って直に打ち掛けしに、周章て散乱せり」

相変わらず緊迫した戦場にあっても常にユーモアを忘れないのは六右衛門らしい。

逃げてくる一関勢を恥ずかしめて引き止めたのは流石。

↑それにしても敵と一緒に駆けてくる一関勢て何なん?

どういう状況?

この敵は一関勢は撃たないんかい?

そう思うと、悪魔達が庄内藩の優秀な隊長達をピンポイントで暗殺する為に来たか?

一関勢を隠れ蓑に。

 

一番隊との連絡に行った永原久蔵は暮れに峰吉川本営に戻り、吉之丞に報告。

刈和野の方にて戦いに成りし由、是より参り度く存ずれども、風邪にて出難し。右膳総督と成りて出し筈故、直に戦場へ行くべし」

吉之丞の風邪の症状は重く、本来なら自身が陣頭指揮すべきだがまだ歩行すら出来ない。が、戦況が心配になり代わりに久蔵に頼んだ。

↑これ、風邪やなくて、毒を盛られたんよ。

だから歩行もままならない程、重症。

 

久蔵も朝からあちこち駆け回り身体は疲れていたが快諾し暗い夜道を戦場へ。

この時の様子を『久蔵日記』に依れば、「刈和野手前の一軒家は即ち本陣なれば騎将(右膳)に委細を報ずるも、敵丸の至ること繁かりければ、脇に在りつる九郎右衛門(芳賀・往来使)に中る、暗夜なれば如何にと問うに、刀に中りて身に恙無し、斯かる躰也故、二丁退いて前沢の出口に備う」

本陣の一軒家にも敵弾が飛び込む中で、副将右膳始め幹部も一歩も引かずにいた。

西軍兵も引かず、至近距離で終夜撃ち合ったまま夜明けを迎える。

 

9/15の最後の戦いのこの日、鶴岡城より使者が藩主の御意を持参。

「長々在陣殊に一同粉骨を尽し、大義の至り、満悦に思う」

という趣旨だった。

実は9/14には米沢藩家老千坂太郎左衛門から庄内藩軍事掛・石原多門(家老平右衛門嫡子・300石)にあて、謝罪斡旋の密書が届いた。

鶴岡城では16日、重役・軍事掛が評議したが結論が出ず、結局、大殿・忠発の裁断を仰いで恭順に決定。

直ちに戦闘停止、全軍総引揚げの命が発せられた。

が、広範囲な全ての前線に伝達は遅れ、9/20過ぎまで各地で戦闘が行われ無益な犠牲が出ている。

 

今日はここまで。

 

17時半から昨夜以来の食事。

更に自分以外のメンバーは全員呑み会。

残り物で済ませる事に。

塩辛やイカと(鱈の)こっこ和え等があったのでまずは日本酒。

めっちゃ美味しかった。

シメは筋子ご飯。

お腹一杯になったら食後はローストナッツとチーズをお供にウォッカ梅酒ロック。

良く食べ良く呑んだ。

後片付けを済ませたら、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は7448。

充実した一日だった。