2025/5/20火曜日
5時に起床し読書と調べ物。
ここ刈和野(現・西仙北町刈和野)は秋田県のほぼ中央に位置し、古くから雄物川の水運と羽州街道の宿場町として栄えてきた。
郷右衛門・権蔵・右膳隊は昼過ぎまで攻め続けたが敵も頑強でなかなか攻め込む事が出来なかった。
『郷右衛門日記』によると、
『疾く此処を破るに如じと進出、隊下は何処にやと思いしに、畑の中に畔らしき物あるを楯として、七、八人込替々々打居たり。首を低くして漸々身を隠す躰なりければ、大いに世話焼き打たせしに、爰(こ)の苦戦は容易ならず、奮戦せし者廿二人(氏名略)なり。其内六人(氏名略)手を負いぬ、されども引かるる場合ならねば是非打破れと必死に成りて指揮する』
やがて、山手の味方が山を下って西軍の背後に廻った。
明らかに西軍は動揺。
これを見て権蔵隊の半隊長村井敬治が進み出て
「味方は敵の後に廻りしぞ、打ち方を止め、進め々々」
権蔵・郷右衛門隊は一斉に鬨の声をあげて進撃。
西軍は街のあちこちに火をかけ一散に逃げ出した。
逃げる西兵を十数名殺傷。
4名を生捕。
武器弾薬の他に大砲一門も分捕るが手不足で川に沈めた。
このまま一挙に神宮寺まで進撃すべきとの意見も出たが夕暮れも迫っているので今からでは遅すぎる。
刈和野に一関勢と本日は後尾で戦闘に参加しなかった治郎右衛門隊を残し全隊は峰吉川に引き揚げ。
戻ってから郷右衛門は吉之丞を本営に訪問。
吉之丞、かぜをひき、声は涸れ、発熱し憔悴。
鶴岡を発って70日。
戦旅の疲れが出たか。
↑風雪で風邪を引いたように見せかけながら、毒が盛られた。
この刈和野での戦いを西側資料である平戸藩(六万二千石)『松浦詮家記』で見ると、
「先頃、島原の敗卒と称する者四人あり、灯を携え来りて本沢親宣(物頭)の営に至る、自ら云う、昨戦い敗れて出るに由なし、陰に敵中に潜伏し、山を攀(よ)じ、川を越え、艱難を経て此に来ると、親宣島原の営を指し示して以て至らしむ、巳にして賊其火の起こる見て、急に本道を下りて来り進む、吾が軍防ぎ戦う」
例の島原の捕虜2名(後の2名は付き添いの庄内土工兵と思われる)は大胆にも平戸藩の陣営に行き平戸藩の物頭の前で戦い敗れて苦労の末、漸く帰還したとの迫真の名演技をしたという。
更に同資料の戦いの終わりの緊迫した部分を引用。
「賊尾して進む、吾が兵終りに散乱す、時に相従う者甚だ寡く、且つ小径屈曲、大砲運び難く捨て而して去る、賊猶追て逼る、且つ戦い且つ退く」
庄内兵の追撃五、六間(約9〜10m)に迫り、駅を焼き、大砲も捨て、我が兵散乱す。
命からがら逃げ出した。
平戸兵は先月23日、南楯岡で庄内二番大隊と初手合わせし、手ひどく追い散らされた。
この刈和野2回戦もリベンジにならなかった。
同じくこの日庄内二番大隊に初見参した、遠来の筑前福岡藩(47万石)兵の戦い振りを『黒田長知家記』で見ると、
「賊押寄せければ、前より在りし平戸藩等銃戦す、其声を聞いて進み戦いしに、賊右の山の方に廻りしかば、半小隊を分けて是に応ぜしかとも、賊多勢にて山麓林藪より発銃し、我は田畝に散して応戦す。賊は通道よりも進み、又左の川を越えて来たり、衆寡敵しかたく、未刻(午後三時頃)に至り、諸藩皆引退き藩兵も引かんとするに、賊既に駅口に廻り遮りければ、藩兵のみにて対抗し、死傷数人なり」
福岡兵は9/4に海路秋田に到着。
ニ小隊は生保内口の応援に、残りニ小隊(約80名)が山道口に廻り、神宮寺の守備についていた。
この朝、刈和野進出を命じられ、入れ込んで夜明けに到着、と同時に激戦に突入。
いきなり、歴戦の庄内二番大隊精鋭と顔合わせ、たちまち、戦死9名、負傷2名の手痛い損害を出した。
西軍の損害は他に平戸藩兵が行方不明1傷6、相手兵は戦死2傷4、新庄兵戦死3傷3。
庄内藩は戦死2(寛助隊・諏訪孝七29歳、度会小平太26歳)傷8名、山形は傷1。
9/12 晴 夕方より冷雨 一番隊来る
この日昼前、峰吉川の二番大隊本営に待望の一番大隊が到着。
期せずして両隊から歓声が上がった。
一番隊は10日夜、大曲で軍議を開催。
更に進撃中との報が。
砲声が遥かに遠雷の如く伝わり、今日も刈和野方面に火の手が上がるのが望見された。
「連日の戦労如何あらん、と皆心を安んぜず」
二番大隊の進撃が予定通りなら最早、神宮寺の敵に備えて大曲に陣する必要は無い。
一刻も早く二番大隊を追って渡河し、疲労した友軍を助けるべきである。
そして、二番大隊のみで神宮寺迄も制圧出来るならば、一番隊はそのまま進撃し秋田本城を屠るべきと決議した。
翌日午前二時、松山・上田・仙台兵を大曲に残し、本隊は出発。二番大隊とほぼ同じコースを強行。
山道は更に泥濘、夜道に迷い、疲労困憊しつつ何とか夜遅く大沢に到着。
途中で空腹となり、先行の兵が農家で食料を求めた為に、後の者は米など僅かしか入手出来ない。
米は老幼や疲労甚だしい兵に与え、壮年は蕨の粉を練った団子か百合粉の雑炊を食した。
すると隊長甚三郎以下本隊の多数が猛烈な腹痛と下痢に襲われた。
↑はい、またまた、悪魔が毒物仕込んだー。
其処へ二番大隊より使者が。
「幸いなる哉、貴隊の来たるや、我が兵連戦して疲困甚だし、乞う峰吉川に来たりて、我兵を休ませられしことを」
甚三郎は「本隊速やかに進むべき所なれども、我隊も亦道路の容易に苦み、惣軍死するが如くなれば、此夜寛眠せしめ、明朝6時に発して直ちに進まん」
と返報。
9/12朝から一番隊は最短距離ともいうべき北野目(刈和野北西2キロ)を渡河。
直ちに峰吉川で軍議を開催。
一番隊は羽州街道を南下し、神宮寺の敵を打ち払い、二番大隊は北上して堺・船岡まで進み、四番隊背後の敵を追い払う。
しかし、この戦略も一時的なもので2日後には情勢は激変。
変更を余儀なくされる。
一番隊は直ちに出発。
夕方刈和野に入りここに宿陣。
刈和野は民家数300数10戸と繁華な駅だったが数寺と十数戸を残して全て焼けた。
大斥候として副将服部純蔵自ら三小隊を率い神宮寺の敵状視察に先発。
北楯岡(神宮寺手前3キロ)付近で、前方に多数の篝火が。始めは敵かと思ったが、警戒しつつ前進。
付近の村々を探ったが敵兵はなし。
住民に聞けばなんと、敵は既に昨夜遅く神宮寺を捨て角館方面に脱出。
篝火はそれを欺瞞するものだった。
純蔵は明日改めて神宮寺へ進撃することにし、その夜遅く刈和野へ帰った。
〈西軍神宮寺退去、沢副総督激怒する〉
9/11夜、刈和野から敗走してくる無様な西軍諸隊を見て、総督府参謀達は動揺し恐怖に陥った。
直ぐ様、神宮寺を放棄し角館に退去する事に。
神宮寺・角館間は15キロだが夜中に脱出し、翌朝早く角館に着くという大醜態。
平戸藩『松浦詮家記』によれば、
「時に神宮寺の本陣参謀局、散々敗聞を得て、遂に神宮寺の保完すべからざるを知り、議を決し、令を発し、諸軍をして先ず角館に赴かしむ。夜半、吾が本軍報を得たり、草卒伝発し、間行して往く、吾が二小隊、諸軍に遅れ殿していく」
と、夜半に退却命令があり、平戸兵は諸隊に遅れ、最後に引き揚げる事に。
更に『仙台戊辰史』は
「各藩の兵命令をも待たず、踉随して角館に至り為め、(沢)為量大に怒りて其の怯懦を叱す、是に於て参謀、監軍、使役、各藩隊長は血誓書を以て為量に謝す」
『秋田県史』によると、
「河岸配置の久保田藩諸隊は、神宮寺本隊が既に小杉山(神宮寺北北東5キロ)を通過し角館に去るの状を見て、頗る不審を抱いた。殊に立石に在った寺崎・茂木隊は、松倉の薩兵が立石を通過して角館に入らんとするのを見て憤懣に堪えず、(中略)参謀の指令はこの機に及んで又権威を落とし、ひいては志気を阻喪せしめる結果をまねいている」
とある。
参謀桂太郎が先日、副総督に「秋田兵は戦闘が稚拙」と言ったのに対し「聞き捨てならぬ誹謗の言」と大いに不満だった県史は、ここでも秋田兵を代弁し、参謀の無能を鋭く指摘。
約一ヶ月にわたり、難攻不落で散々庄内隊を悩ました、神宮寺岳・大平山の守兵も慌てふためいて下山。
何を狂ったか、逃げる時、山頂の権現社を焼き払うという罰当たりな事をした。
沢副総督が逃げ帰った西軍幹部を集め叱責した状況を『秋田戦記』は次のように記載。
「諸将、予が神宮寺にあるを以て進退心に任せず、予が退去の後をまって、総軍大に進み賊兵を追撃せんと言いしにあらずや。是を以て予が巳に当地に退き、今や檜木内を経て久保田に入らんとす。若し、此地に於るも亦神宮寺の如くならしめんか、予は諸将に欺かれ独り我身を全うするに忍びず」
自分が神宮寺にいると心配だが、去れば後顧の憂いなく全軍大いに進撃するとの事で角館に退去した。
にもかかわらず、翌日総引き揚げとは何事か。
今回の事は諸将に裏切り騙されたのに等しい、と激しい口調で怒った。
これを受け諸将は「血誓書」を差し出した。
しかし、これでも沢副総督の怒りは解けず9/13夜、少数の護衛(長一分隊、振遠隊一小隊)と共に角館を発って、険阻な山道を遠く北へ向かった。
檜木内ー阿仁ー荷上場を経由し漸く久保田城下に9/20到着。
その時既に秋田の戦乱は終了。
↑何気にダサいね。
今日はここまで。
7時に宿の朝食へ。
いつもは食べない朝食だが、2食付なので食べる事に。
食べている間にもザーザーの雨が降り出し最上川は見えなくなった。
7時45分に宿をチェックアウト。
一路、関川の戊辰戦争古戦場へ。





住民は住居を焼かれ、戦争では避け得ない破壊と略奪に数年間極貧生活に耐えなければならなかった、とある。
この辺りは庄内藩と村上藩兵が西軍の侵入を防ぐ為に共に戦った地域。
見学し終わったあと、もう一つの戦場である鼠ヶ関へ向かおうとしたが、道が車1台しか通れない林道のような道で、元来た道を引き返し、少し遠回りしあつみ温泉経由で村上へ。
道の駅あつみの建物の裏では激甚災害の碑を発見。

調べると昭和62年の赤川大洪水の事を指しているようだ。
赤川は古来より氾濫する事が多く、榊田清兵衛の願いにより最上川から独立する工事をしたそうだ。
https://www.thr.mlit.go.jp/sakata/river/akagawa/akagawa_konjaku.html
鼠ヶ関の辺りから村上市に。
まずは、村上藩家老で、西軍と戦った罰で藩を代表し首を差し出す事になった鳥居三十郎のお墓参りへ。
彼は28歳という若さながら、家老という藩の重鎮として色々と画策。
何とか村上の街が戦火で被害を受けないよう、且つ、西軍と戦いたい、と言う藩兵達の想いを引き受け、城外へ打って出る策を講じた。
そして、後顧の憂いを無くす為に城を燃やした。
その後、庄内藩と共に、鼠ヶ関や関川、雷(いかずち)峠等で戦った。

正面は戒名?

側面に生前の名前が。
もう一方の側面には死去した年月日、明治二年六月廿五日が彫られていた。

お墓参りを終え、次は村上城に登城しようと登城口に向かう途中、雨がザーザー降ってきた。
登城は断念し鮭のお店へ。
そこで、鮭とばやスライス、酒浸し、大根や茄子の味噌漬け等を購入。
豪雨の中、高速道路で次の目的地、会津若松へ。
夫は運転がストレスになる、と言うので朝から自分が運転。
しかし、新発田の辺りから頭や鼻に電磁波攻撃を知覚。
眠れ眠れ爆弾攻撃だった。
睡魔に襲われ始めたので夫に運転を代わって貰った。
が、磐越道に入り、更に雨が酷くなり視界不良に。
更に、対面走行が増えストレス倍増。
夫も運転が厳しくなった。
自分は少し休憩出来たので、パーキングでコーヒーを購入してから運転を交代。
そのまま、次の目的地、会津若松市の善龍寺まで運転した。
善龍寺は珍しい形状の門だった。


境内には会津藩士の墓の位置が示されていた。

目指すは会津藩士伴百悦の墓。
かなり上に登った所の左手にあった。



伴百悦は戦死した会津藩士を埋葬する、という、人として当たり前の事をしようと尽力した人物。
亡くなった人を埋葬するという当たり前の事を、新政府のお役人は許さなかった。
一度埋葬した白虎隊隊士の遺体を掘り返し、野晒しにしろ、と命令した。
会津藩士の遺骸は全て野晒しにしろ、と。
↑日本の文化じゃないのだが。
敵の西軍の戦死者も寺に埋葬した庄内藩とは大違い。
伴百悦と数人の会津藩士が何とか遺体を埋葬しようと奔走。
士分から賤民に身分を落とし、賤民と共に一体一体を2ヶ月にわたり1634体を丁寧に埋葬。
なかなか出来る事では無い。
でも、これが日本の文化。
あ、今は火葬のみな。
土葬は無い。
法律で決まってる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E7%99%BE%E6%82%A6
会津藩士伴百悦のお墓参りで本日のミッションは終了。
一路、本日の宿、宮下温泉ふるさと荘へ。
素敵な温泉に入浴後、18時から待ちに待った夕食。

今日もとっても豪華で品数も多く大満足の夕食だった。
夫は19時には就寝。
自分はもう少し梅酒ロックを呑んでから寝る事に。
歩数計は12538。
充実した一日だった。