2025/5/19月曜日
5時に起床し最新情報をチェック。
荷物を纏めたら8時に大曲のホテルを出発。
今日は横手城を見学する予定だったが、夫が旅行中、体調不良。
体力が持つか心配たったので横手城見学はカット。
イベントは山形でのサイクリングのみに絞る事に。
10時半に余目(あまるめ)の新産業創造館クラッセに到着。
ここでスポーツタイプの自転車を2台借りた。
何と無料!
予約も可なので移動中に電話で予約。
最上川を見れる堤防道路も教えて貰った。

まずは、残雪残る美しい鳥海山を撮影。
そして、そこから数キロ清川方面に向かうと、待望の最上川が!

デカい。

そして、この最上川での水練で鍛えられた領民は戊辰戦争での渡河作戦で活躍している。
13時に清川関所に到着。

そして、戊辰の役古戦場もそこここに。

ここ、清川は西軍が最初に庄内藩領を攻撃した場所。
農婦が山菜採り中に西軍兵を発見。
程無く攻撃がスタート。
腹巻岩から撃ってくる西軍は優勢。
遂に渡河して来た。
その様子を見ていた領民達は近隣の寺社から旗を集め、一斉に鬨の声を上げ、援軍が来たように見せかけた。
それで、西軍は慌てて引き返し。
加えて鶴岡や松山藩からも援軍が来て応戦。
西軍を撃退する事に成功した。
歓喜寺にはこの時の戦死者が埋葬されている。

歓喜寺の隣には御所皇子神社が。
夫は体調不良を訴えたので自分のみ参拝。
劣勢だった清川口の戦いでの巻き返しは御所皇子神社からの神風では、と言われたそうだ。

13時半に帰路に。
帰りも最上川サイクリング。

14時半にクラッセに到着。
自転車を返却後、自分はスムージーを、夫はビールを呑んでいた。
体調悪い設定何処行った?
16時に本日の宿に到着。
まずはお風呂へ。
素晴らしい眺望だった。
お風呂から出ると、夫は更に2缶呑んでいた。
元気やん!
交代で夫はお風呂に。
この間、隣室の男性がパワハラ口調で話しているのがモロ聞こえてきて、それが、何回も続いた。
お風呂から戻った夫と相談し、宿の人に部屋を変えて貰えないか聞くことに。
快諾されたので移動。
18時から食事。

こちらの食事は量も味も素晴らしく自分も夫も大満足。
夫は食事前にビールを3缶呑み、食事中も一瓶呑んでいる。
美味しい!と感動しつつ、数品をお残し。
自分が夫の残した分も食べた。
朝は食べてないし昼はパン一個。
更に、30kmサイクリングしたから全然食べれる。
なのに、それを見ていたDSは「こいつ(わい)食べ過ぎだから思いっきり腹痛起こさせて、下痢させたれ」とテクノロジー兵器で攻撃。
部屋に戻るや強烈な腹痛。
で、何故か、激しい頭痛まで?????
食いすぎで頭痛て何だよ!?
しかも、この激しい頭痛は以前、久美浜と上野村で経験したDEW攻撃を彷彿させる。
Xでもその情報をシェア。

非武装の民間人に軍事兵器で攻撃してる奴ら、皆逮捕やろ。
て、書いていると再びの指向性浣腸エネルギー攻撃。

トイレ通いの合間に読書と調べ物。
9/8、雄物川渡河作戦
この日の天気は日中は晴れ夕方より雨、夜は雷鳴轟き霰が降るという目まぐるしい一日。
↑悪魔が気象操作やってんな。
そもそも、10月に雪ふんないで。
北海道じゃあるまいし。
北海道でさえ早くて11月や。
早朝、円行寺を発し、大沢で早めの昼飯。四番隊は既に渡河。
川向うで激しい銃声。
猛煙が上がった。
「疾く川を越えたる故、二番隊も速やかに進まれたし」との四番隊からの伝令があった。
二番隊は太鼓、喇叭を鳴らし「七星の牙旗」を先頭に堂々と進撃。
午後2時過ぎ、本隊は木瓜沢(現・木売沢)より渡河を開始。
小舟を漕いでの往復なので時間は掛かる。この付近は雄物川が南へ大きく屈曲し、著しく凹んでいる部分。
四番隊が朝8時、渡河を開始した時、この付近を守備していた秋田兵は驚いた。
福部羅近辺には、梅津千代吉・戸村大学・信田内蔵助の三隊が守備。
油断していた為、四番隊に蹴散らされた。
秋田兵も良く戦ったが装備の殆どが火縄銃ではとうにもならない。
隊長梅津以下戦死37名、傷9名という、角間川以来の大損害を出し、夕方、上淀川(福部羅北10キロ)方面へ敗走。
四番隊の討死は2名、手負いも2名。
二番隊の本営が渡河した時は既に秋田兵の姿はなく、完全無血上陸。
本隊はそのまま進撃し下淀川(福部羅北4キロ)に到達。
民家は焼き払われ焼け残りには四番隊が宿泊。
止むを得ず手前の芝草山の山頂に野営。
右膳隊の永原久蔵の日記に依れば、
「日暮れより雨、夜更け風激しく一同大いに濡れ、薪にすべき物なく、聊かの松の枝を集めたるも、忽ち尽きて寒気暖を透し、堪え難く、一同困難を極めたりき」
と不眠不休で寒さに震えながら夜明かしした。
大部隊の渡河は手間取り、この日の内に渡河出来なかった小隊も。
六右衛門の大砲隊もそうだが殿軍を受け持った矢口惣四郎隊も。
更に、渡河地点の混雑を避けて上流へ向かった郷右衛門隊、惣右衛門隊も。
舟を探したり、残党狩りをしている間に夜になり渡河出来なかった。
〈刈和野占領〉
9/10 朝方雪 寒風吹き荒ぶ
二番隊は刈和野目指し進撃開始。
先鋒は右膳・権蔵・郷右衛門隊と付属の山内三吉(源助弟・五人扶持)指揮する農兵隊。
羽州街道の宿場上淀川(中淀川東4キロ)に達した。
約250名の秋田兵が居たが先鋒に撃ちかけられると、すぐ堺村の方へ逃げ去った。
ここで二番隊は二手に分かれた。郷右衛門ら先鋒の三隊は本道を南下し刈和野へ。
三吉・伝十郎・寛助・惣右衛門隊らは本道を北上し、船岡(上淀川北東3キロ)まで追撃。
多数の武器弾薬を分捕り、村を焼き払って夜には上淀川に引き揚げた。
本道を南下した郷右衛門隊は警戒しつつ前進。
午後2時頃、峰吉川(上淀川南4キロ)に達したのでその手前で休憩。
そこへ斥候5名が掛け戻り「敵来たる」と報告。
道の両側に散兵しつつ迫ると西軍(島原藩兵)より撃ち出した。
郷右衛門は後続の権蔵隊を待つべきかもと考えたが、ままよ、鬨の声をあげながら、一斉に撃ちかけた。
すると、西軍は狼狽し逃亡。
それを追い峰吉川まで攻め込んだ。
敵は武器弾薬多数を捨てて刈和野目指して敗走。
庄内隊は更に前沢(峰吉川東2キロ)まで追いかけたが長追いせず引き返した。
半隊長松平角之介は部下7名と川手の中村へ逃げた西兵を追った。
3名を仕留め2名を生け捕り。郷右衛門は本営に戻り生け捕り2名を尋問。
そこへ、権蔵が隊下に分捕り品を持たせやって来た。
薩摩の弾薬庫の他に梨子地の立派な鞍と真鍮象嵌の鐙があった。
これらは何と竹内右膳祖先伝来の持ち物だった。
右膳が江戸引き払いの折、陸送したが途中で西軍に奪われたものだという。
↑泥棒。
そこへまた島原藩の生け捕りが連れてこられた。
かなりの年配者。
臆面もなく語った。
「西国は薩摩に駆立てられ、無余の儀兵を出せるにて、素より主人は徳川家に属せずは非る家筋、且つ尊藩は御親族の御間柄なり。戦争抔は思いも寄らざることなりしを、何分小国の習い、心ならずも出兵に及びしにして、私共は此頃着船、漸々此辺へは四、五日前に来るにて、元より戦を好まず、止むことなきとは打出すのみ、何分薩摩の暴なるは困りぬ。最早久保田にも御攻込み、西国迄も御攻登り有らんには、私共急度御案内申さん」(『庄内戦争録』)
郷右衛門は生け捕り3人の助命と交換に敵陣に火を付けさせる策を持ちかけた。
吉之丞の承諾を得て作戦開始。
一眠りしたあと夜中の12時から番兵の話し声が聞こえる所で待機。
なかなか火の手が上がらす夜明けも近くなり裏切られたか、と思った頃燃えだした。
敵は一斉に目を覚まし激しく撃ち出した。夜襲は失敗。
捕虜の島原兵も帰ってきた!
聞けば西軍陣営に忍び込んだが番兵3名に見つかり1名は斬り捨てたが2名は逃亡。
急を知らせた。
忽ち警戒厳重になり潜入する事ができない。
漸く明け方に再度潜り込み火を付けたが時すでに遅し。
彼らはその後庄内藩と行動を共にし鶴岡で恭順。
翌年春熱りが冷めた頃、無事本国へ帰った。
9/11 晴天 刈和野攻略
右膳・郷右衛門・権蔵三隊は前沢まで戻ったが一休みする間もなく兵糧を喫すると出撃。
「今晩引上げ後、少し休みたると思えるに、明々になりぬ。敵寄せしと聞きて繰り出し、権蔵と我は先鋒故、駆け行しに敵より打ち架かる」(『郷右衛門日記』)
郷右衛門・権蔵隊は先鋒なので本道をまた押し出した。
本道左右の胸壁陣地より西兵多数が激しく撃ち出した。
中には大慌てで胸壁構築中の陣地も。
これを邪魔する為に郷右衛門は精兵数名を選んで近接射撃を命令。
こうして、一つ、また一つと陣地を奪取しては押し進んだ。
右手川沿いは一関・山形兵、左手山側は三吉・寛助隊が進んだ。
西軍側も刈和野防衛に必死。
ここを破られれば沢副総督の本営神宮寺まで僅か6キロ。
山手の大平山(標高270m。大曲の大平山とは別。同山を見るための展望台ともいう)側には新庄と新着の福岡兵。
正面は平戸・島原・秋田・新庄兵が守備。実は庄内二番大隊迫る、の急報に接した神宮寺の敵本営は動揺。
沢副総督は身の危険を感じ振遠隊の護衛で10日夜、密かに角館に退去。
今日はここまで。
歩数計は8328。
充実した一日だった。