2025/5/18日曜日
5時に起床し最新情報をチェック。
布団の後片付けをし、荷物の整理。
7時に実家を出発。
一路秋田へ。
日本海の白波と新緑の緑を眺めつつドライブ。

長女が運転してくれた。
時折五能線の汽車が通り過ぎ旅情を盛り上げてくれた。
秋田に入ると、大潟村や八郎潟の大きな区画の田圃に圧倒された。
東北地方は今が田植えのシーズン。
小雨混じりの雨の中、田植えのトラクターが多数出張っていた。
11時に秋田市まちなか観光所に到着。
ここでレンタサイクル出来る。
しかし、タッチの差で出払い残り1台だった。
予約出来ないし先着順だし3台しか無いし、しゃーない。
ここでママチャリ3台を借り、いざ、サイクリングスタート。
ここの問題①はママチャリしか無い事。
そして、②90分間しか借りられない事。
11時50分に出発。
先ずは第一目的地、戊辰戦争糠塚森の決戦地へ。
坂を下りまくった所にそれはあった。

この一帯は秋田・庄内戊辰戦争の最後の舞台となった。
そして、稲刈りの時期だというに、人夫や炊き出しを命じられ、壕や胸壁作りに借り出され、家を燃やされたりした。
こちらの記事でも説明してくれる。
そして、今も変わらず、農業に勤しんでいた。
12時10分に雄物川サイクリングロードに到着。

このままサイクリングロードを乗りたいところ。
が、帰りはギア無しママチャリで長い上り坂を登り13時20分までに返却しないと、だ。
給水休憩したら、そのまま引き返す事に。
意外にも13時前に坂を登りきった。
そのあとは、周辺を軽ーくサイクリング。
13時10分に返却。
お腹も空いたので、昼食会場へ。
長女のリクエストで、きりたんぽが食べれるお店へ。

比内地鶏の親子丼も頼んだ。

どちらも鶏肉が美味しかった。
14時半に埼玉へ新幹線で帰る長女とバイバイ。
初老の夫婦は一路、本日の宿泊地、大曲へ。
16時過ぎにチェックイン。
まずは、シャワー。
そして、梅酒ロックを一杯。
一休みしたら、散策へ。
大曲駅を見学。
そして、丸子川沿いを散策。

その途中、石碑を発見。

山の雄 河の大 幟立つところ
露月山人
字の数は少ないがグッとくる言葉。
17時半に部屋に戻ったあとはスーパーで購入したおかずで夕食。
お腹が満たされたら、読書と調べ物。
三 刈和野・椿台方面の戦い
〈雄物川渡河作戦〉
8/27(新暦10/12)晴れ
二番隊は大曲に転陣し角館攻略に出掛けた一番隊の留守を預かる事に。
大曲は仙北平野の中央に位置し羽州街道の宿場として、また、雄物川やその支流で町中を流れる丸子川の舟運で栄えてきた商業の街。
郷右衛門はこの日非番なので権蔵と連れ立って花館へ戦跡を見に行った。
『郷右衛門日記』によれば
「途中、栗ゆでを求め遊びながらいきしに、材木を積みて胸壁とせし所に、腰打掛け四方を詠めしに、南部境の山の高きに雪降敷き、又鳥海も真白に見え、観音森迄も白く見ゆ、既に此辺も降りしことありき、雪中の戦は如何にぞや」
花館は安倍平三郎が小隊長代理として警戒にあたっていた。
第三小隊長は初代服部正蔵戦死、二代目宮坂顕蔵戦死のあと、三代目中村権太夫が着任したが負傷し(四番隊へ異動)、平三郎が代行していた。
翌8/28、新たに右膳隊士だった関寛助(組付外・150石)が昇格。
四代目小隊長に就任(更に異動があり9/3に平三郎は惣四郎隊に入り、同隊の万年鉄吉が平三郎の後任に)
8月晦日(30日)、山内三吉(近習役源助100石・弟、銃兵半隊長・五人扶持)が添川・狩川農兵50人を連れて大曲に到着。
直ちに二番隊に加入。
この時期から正規兵(藩士)の補充が追いつかず、農商町兵が多数動員される事態に。
最終的にその数は正規兵の四割に。
戦功によっては名字帯刀を許され扶持を与えられる事になっていた。
中でも本間数右衛門に率いられた酒田町兵などは富裕の家の志願者で編成され、豪華な装備を自前で誂えたので黄金隊などと言われた。
また、鶴岡城下三里以内より農兵九小隊(1番より9番)、市街地より商兵四小隊(10番より13番)が編成されたが何れも志願兵だった。
しかも、農兵でも殆どが自前の銃。
商兵は装備を全て自分で調え、中には新式の七連発銃を所持している者も居た。
民兵が積極的に従軍する現象は他藩には見られない。
庄内藩だけの特徴。
士気は高かった。
庄内藩の士風を表す一例として、『庄内沿革史』(野村敏恵他)は次のように述べている。
「若し花街に足を入るるの評ある者は、同志に非常に擯斥され、其の人と座を共にするを恥るものなり」
色町へ通った本人よりも、周りの仲間が同席する事を恥じるという。
(これにつけて思い出されるのは、幕末の京都で、薩摩・長州・土佐を始め西国諸藩の武士や浪人どもが、勤王の志士の美名のもとに、徒党を組んで数々の悪業をなした。彼らは「天誅」と称して、火付け盗賊から殺人・暗殺のテロまで何でもやり、その余勢を駆って色街に繰り込んでいた)
その京都の治安を回復し、朝廷を守護する為に、日夜努力したのが京都守護職会津藩、所司代桑名藩、守護職預かりの新撰組。
同じく、江戸市中取締役の任務に当たったのが庄内藩と配下の新徴組。
京で肥後様、お江戸で酒井様、どちら梅やら桜やら
と、並び称されたのが、鳥羽・伏見の戦いで幕軍が敗れるや、一転朝敵とされた。
この幕末に於いて、尚、毅然として、意固地な程に武士道精神を徹底して守り通した所に庄内藩の強さの秘密がある。
庄内藩の士風については、藤沢周平氏の海坂藩(庄内藩)をモデルにした数々の作品に依って雰囲気を味わう事が出来る(筆者は特に『暗殺の年輪』『ただ一撃』が好きである)
また、これは有名な話だが、酒井忠次の孫忠勝が元和八年(1622年)信州松代藩10万石から庄内鶴岡に十三万八千石で入部。
初め忠勝はこの移封に不満だった。
が、二代将軍秀忠直々に、鶴岡の地に於いて北方の外様大名の押さえとして永く徳川家の藩屏たるべしとの願いにより、それならばと重責を負って入部。
北の地において徳川家を守護し有力外藩(はっきりいえば秋田佐竹藩)の押さえとなる。
これが250年間連綿と続いた庄内藩の藩是。
このことが秋田討ち入りの要因の一つになっている。
9/2(新暦10/17)、この日、一番隊も大曲へ帰還。
角館の戦況を聞いた。
翌3日、改めて軍議を開き作戦の練り直し。
今度は二番大隊が中心になり海道口の四番隊と協力し雄物川下流の福部羅(大曲西北西20キロ)付近を強行渡河する乾坤一擲(けんこんいってき)の大作戦。
四番隊は秋田を目指して北上、二番隊は刈和野から西軍本営神宮寺へ攻めのぼる、という戦略。
その為に、渡河に必要な小舟の確保に全力を挙げる。
また、一番隊は大曲に残り、神宮寺・角館方面の西軍を引きつける。
そして、4日、5日、6日と全力をあげてその準備に没頭する。
その間、西軍の舟橋を破壊する為に上流より杉の丸太を2,30本流してみたが不発だった。
6日に四番隊より川舟数艘を確保、早急に渡河したいとの連絡あり。
二番隊は明払暁を期して出撃に決定。
尚、この日、朗報が。
鶴ヶ岡城より、七連発銃が届いたので矢口惣四郎隊に配布(約30挺)
四番隊が積極的に渡河しようしたのには訳がある。
この日、大隊長水野藤弥は解任され、年若い松宮源太夫(中老・軍事掛・700石・28歳)と交代。
同じく8日には、三番大隊長の酒井兵部も鶴岡に召還され、水野弥兵衛(組頭・700石)が大隊長代理として指揮する事に。
両者共に表向きは病気の為だが、進展しない海道口の戦況に、藩首脳は痺れを切らしたか。
三、四番隊共に8/15、長浜まで進出したが、その後は雄物川を挟んで停滞していた。
一方、その頃、神宮寺の西軍本営には鳥取藩兵一大隊(約500名)が沢主水正(為量の嫡子)と共に来援。
参謀添役桂太郎は、これでもまだ兵力不足とし次のように沢副総督に訴えた。
「秋田藩は戦闘に拙、応援諸藩兵は戦いに倦み、志気阻喪す、斯る鈍兵楕卒を以て、勝誇りたる仙台庄内の兵と対抗するも、勝算あるべからず、謂う越後口に至り、精鋭の兵を率い来り、一挙に列藩軍を破らん」(『仙台戊辰史』)
兎に角、援兵が必要と、主水正と軍監春日丸で、越後に向かった。9/4の事である。9/7午前2時、二番隊は密かに大曲を出発。大平山の敵に気づかれぬよう、霧深く咫尺を弁ぜぬ暗夜にも拘わらず松明も付けず、闇の中を行軍。中山、大場台と山中の間道を通り、夕方、円行寺(刈和野西南6キロ)の集落に着いた。約二十数キロに及ぶ難行軍だった。
↑14時間で!
足つるわ。
『六右衛門日記』に依れば、「又々山路泥道の困難是迄に勝れり、単身だに漸々歩きぬるに、(砲)車を引き鉄砲を携えぬ、且つ山に掛りて日暮れたれば、其難儀云計なく、大沢迄行くべくもなし、円行寺に宿しぬ、雪風厳寒譬うるに物なく、且防寒の手当なく忍びざる躰なりき」
泥んこの山道を重い大砲数門を引っ張っての行軍でしかも雪混じりの寒風が吹きつけ、かなり辛い行軍だったのだろう。
↑今日はここまで。
歩数計は10476。
充実した一日だった。