2025/5/17土曜日
5時に起床。
5時半にホテル近くのコインランドリーへ。
仕上がりまで1時間掛かるので、その間、盛岡城の散策をする事に。

兎に角石垣が立派で迫力があった。


そして、三の丸からの岩手山の眺めは最高だった。

8:45にチェックアウト。
昨夜合流した長女が、福田パンを食べたい、と言うので郊外の店舗へ。
次に滝沢インターを目指し、東北道へ。
11:45に弘前へ到着。
法事まで1時間あったので、近くの弘前城を散策。
八重桜が咲き誇っていた。


13時から2月に亡くなった叔母の百箇日の法要がスタート。
30分で終了。
最後に叔母のお墓の場所を確認。
その後は食事会へ。
8名で楽しく会食した。
わいは運転手なのでお酒は無し。
帰りは雨降る中、リンゴの白い花を横目にドライブ。
途中、1月に亡くなった叔母の家に立ち寄り。
線香を上げさせて貰った。
そして、夜用のお酒やおかずを購入後、漸く実家に帰着。
着替えてから、早速晩酌を開始。
実家の母の野菜中心のお惣菜に舌鼓を打った。
長女は19時に近くの銭湯に。
待っている間、読書と調べ物。
〈一番隊、角館攻略ならず〉
8/26、この朝、 吉之丞は右近介提案の一番隊が玉川を渡河する案を選んだ。
二番隊は直ちに準備。
一関勢を抑えに残し、午後2時頃、南楯岡を出発。
角間川を越えて翌日午前2時過ぎに大曲に入った。
入れ違いに一番隊は出発。
四ツ屋の浅瀬に向かった。
川を渡る準備をしているうちに夜が明けた。
明るくなっては不利。
対岸の西兵より反撃を受けたので渡河は中止。
川端より引き返し、次の戦略目標たる角館を仙台勢と共に攻める事にし、横堀(大曲北東8キロ)に宿陣。
実はかねて連絡を取っていた南部盛岡藩より報告が。
それは8/10の進撃開始の知らせに続いてのもの。
鹿角口から進撃中の楢山佐渡率いる盛岡軍は十二社・大館と進み、遂に23日、敵将佐竹大和の居城大館を攻略したという。
これに対し一番隊からも戦況報告と共に次のような要望を追伸。
「又角館へは、諸藩申合せ不日打入りら近村へ火の手を揚げ申す可きに付き、御藩(盛岡藩)もその節は厳敷く御打ち掛りに相成り候様致し度候」
近々に角館を攻め込むので、その時近村に火をかけるのを合図に雫石から生保内を目指す盛岡藩兵も角館の背後から烈しく攻めかけて貰いたいとの攻撃依頼である。
翌8/28,国見(横堀北東4キロ、現中仙町国見。
この辺り民謡「ドンパン節」の故郷)で仙台兵と落ち合った。
ここでも仙台兵は先鋒を乞うのでその意に任せ進撃開始。
仙台勢は亘理大吉、瀬上主膳隊が正面、右手伊達安芸と左手は伊達弾正隊。
午後すぐに仙台勢が玉川左岸の鶯野に到達するや、一斉に西兵の攻撃を受けた。
仙台兵もなかり戦闘に馴れてきたらしく、今日はドンゴリ状態にならず散兵して反撃。
庄内一番隊、右近之介の松山隊も駆けつけ、左翼と中央から攻撃に参加。
敵の強固な土塁陣地多数があり、川端近くまで攻め寄せると、対岸の高台の西軍陣地からも烈しく射すくめられ、なかなか突破出来ない。
特に対岸右手の大威徳山(標高180メートル)の砲台が威力を発揮。
近寄れなかった。
隙を見て猪太夫隊が付近の民家を壊して筏を作り大胆にも川を渡ろうとするがそうはさせじと西兵が駆けつけ激しく撃たれ止むなく引き下がった。
この西兵は長州・小倉・大村・秋田の連合軍だが、十分時間を掛けて防御陣地を構築していたので守備は厳重。
流石の一番隊も攻めあぐねていぬうちに味方に戦死3名、手負い数名出る始末。
市郎は花館で僅かの遅刻で藤助に先陣を許し手柄を奪われた。
今日こそはと夜襲斬り込みを考え上流の浅瀬を探していた。
そこへ藤助がやって来て「夜襲する時は共に打ち込まん」と約束させられた。
藤助も同じ事を考えていた。
しかし、その後引き揚げの令があり、白岩(角館東4キロ)へ戻り、篝火を焚いて夜営。
意外にあっさり引き揚げたが、これは背後から攻撃する筈の盛岡藩兵を待っていた為である。
その盛岡兵約200名は秋田領内の生保内(角館北東14キロ)へ確かに来攻した。
しかし、ここを守備していた秋田二小隊と交戦。
数名の死傷者を出し、突破出来ないとみるや、あっさりと翌日引き返してしまった。そして、二度と再びこの方面に姿を見せる事は無かった。
盛岡藩楢山佐渡の出兵戦略は庄内藩とは違っていた。
「まず比内平野の中心地大館城を攻略し、米代川沿いに日本海へ出て能代港を押さえ、更に津軽藩(弘前藩)を北へ封じ込めるもの」
そして、8/22、大館城を攻略し、8/26、能代港目前の今泉に到達。
秋田総督府は背後から迫りくる盛岡兵に驚いた。
急遽、仙北方面の田村乾太左衛門の佐賀兵を呼び戻し、更に小城兵500と共に比内戦線の応援を命じた。
楢山佐渡の進撃もここまで。
旧式装備の秋田兵には勝利した盛岡兵もこれ以後は新式装備の西軍に連戦連敗。
9/6には自藩領鹿角口まで押し戻された。
庄内一番隊は翌日も攻め続けたが西軍の守備はますます頑強。
昨夜のうちに平戸兵と新庄兵が応援に。
攻撃三日目には冷たい風雨が吹き荒れ、玉川が増水し渡河不可能に。
甚三郎は角館攻略を断念した。
この戦いの様子を長州藩『戊巳征戦紀略』は次のように記載。
「塁を三里余の川岸に列し防守す、我が中隊死傷の余僅に三十人、秋田の和銃隊を加え、以て十四塁を守る、廿八日賊来侵す、川を隔て防戦す、第四、第五の累地形平凹、賊攻める事甚だ鋭なり、我兵頗る苦戦す、大邨(村)の兵下流を渉り賊を橫撃す、賊遂に卻く、是日、我兵の放発する所一銃三百発に及べり、死一人、廿九日、賊又来り攻む、已に川を渡らんとす、平戸、新庄の兵来り救い、賊死傷尤も多し、終に渡る能わずして退く」
長州隊も始めの一中隊(約80名)が死傷の為既に30名に激減。
土塁陣地は十四もありそのうちの四、五塁を秋田兵と守備。
一人で一日300発も撃ったという。
彼らも必死の激戦だった。
尚、秋田兵は4名戦死、8名負傷。
角館は、南に玉川、西に檜木内川が外堀をなし、周りは砦のような小高い山に取り囲まれた、守りに適した天然の要害だった。
今日はここまで。
眠れ眠れ攻撃が激しい。
素直に寝ることに。
歩数計は17027。
充実した一日だった。