2025/5/16金曜日
3時に起床し読書と調べ物。
〈花館の薩将捕獲〉
8/23 晴天 西軍は大反撃に。
久しぶりに角館から刈和野に至る山道口全戦線に亘って大規模な攻勢に。
午後2時過ぎ、一番大隊の守備する花館方面に激しい銃砲声が轟き黒煙が舞い上がった。
午後4時には二番大隊持ち場の南楯岡方面にも敵が押し寄せた。
西軍約500人の大部隊が川を越え、神宮寺道(県道30号線)沿いの民家に火を付け大砲を発射しながら進んできた。
吉之丞は村外れの小高い山王神社に本営を置き、各隊は所定の持ち場におっとり刀で駆け付けた。
川原近くに布陣していた一関勢は激しく撃たれるや引き退こうとした。
隣りに居た先鋒の治郎右衛門隊の小頭横山小助以下数名が駆け付けて一関勢を励まし踏み止まらせた。
そこへ郷右衛門隊が応援に来て態勢を立て直す。
西兵は広く散開し、一部は右手山の方へ迂回しつつ攻め寄せる。
この西兵は七連発装備の長崎振遠隊。
二番大隊と振遠隊は湯沢攻略後の皆瀬川渡河戦で激しい銃撃戦を展開。
これが2度目の直接対決。
それだけに振遠隊の戦意は高く夕暮れになっても敵は引く色なく深夜まで戦闘は継続した。
銃戦は一晩中続いた。
吉之丞は「退かず持ち場にて半隊ずつ交代せよ」と各隊に通達。
夜も更けて空腹になりまた、弾薬が尽きたので軍夫を動員し弾薬と兵糧(握り飯)の補給を実施。
味方は無駄撃ちせぬよう心して撃ったがそれでも一人平均180発の弾丸を消費。
西軍の七連発は雨あられと間断無く撃ってくるがその消費量は想像を絶する。
そのまま夜が明けたが朝霧が立ち込め、視界は良くない。
一番隊の守備する大曲方面でも夜半迄銃砲声が聞こえたが、今朝は静か。
明け方より西軍は激しい銃砲戦を開始。
実はこの頃既に吉之丞の命により権蔵隊の半隊長村井敬治が半隊を率いて右手の山中に迂回。
西兵の左翼側背に忍び寄っていた。
吉之丞得意の隠密作戦である。
更に土工兵に隊旗を渡し附従隊が護衛し右手高台の西兵の頭上高くに隊旗を立てさせた。
霧が晴れて視界が開けるのを待ち、突如、鬨の声を上げて一斉に撃ち掛かった。
これには西兵は驚いた。
思わぬ所から撃ち掛けられ狼狽。
防戦も出来ずに左翼の西兵は敗走に移った。
作戦成功。
これを見て権蔵も正面から撃ち立てた。
各隊も一斉に追い撃ち。
更に附従隊も撃ち下ろす。
本営からは大隊長吉之丞が太鼓、喇叭と共に威風堂々繰り出した。
今日の追撃戦で一番活躍したのは郷右衛門隊。
一番川手に布陣。
そのまま敵を川端まで追い撃ち。
渡し場で混乱する西兵数名を仕留めている。
しかし、振遠隊も大砲の散弾を撃ちかけたり、負傷者を素早く引き立てたりして後退する手際が見事で、秋田兵とは一味違うと老れんかの郷右衛門は感心している。
そして、戦果を挙げ、しかも手負いも出なかったのは神仏のお陰だったと日記に記している。
この戦いの様子を長崎『振遠隊戦報』に依れば
「(進撃候処)賊兵相見え申さず、大いに機会を得、既に根所よりニ三丁許も近づきし所、漸く彼より発射し候に付、総勢土手を楯とし撃合い、弊藩位置中隊は散兵に排布し、原野を押し行き候処、賊横矢山上より来候に付、暫く進軍を止め候得共、追々暮方、地形不案内故、又々土手へ繰込み、盛に打立て、深更に及び候、新庄並びに平戸隊応援の為罷越し候に付、弊藩の内一番隊は直ちに山手へ潜伏致し候得共、暗夜の儀故、寸歩も進むこと相叶わず、互いに明るを待つばかりに候」
振遠隊の報告はいつもながら客観的で信頼できる。
振遠隊は溺死4名を含め11名が戦死。手負い7名。
庄内二番隊は8名負傷。
尚、この日、四番大隊の応援に安倍平三郎隊・相良惣右衛門隊が大沢(南楯岡北西6キロ)方面に向かい、四番隊の坂部九兵衛、新整隊らと共に来襲した秋田兵を追い払っている。
〈花館夜襲、藤助敵将を捕獲〉
8/23、一番隊主力は大曲にあった。
昼過ぎ四ツ屋(大曲北東4キロ)方向で砲声が轟いた。
四ツ屋は仙台勢の守備ではあるが応援として猪太夫、藤助、小隼人の三小隊を派遣。福田(大曲北東2キロ)まで行くと早くも仙台兵が敗走してきており、引き留めても無駄である。
↑風物詩になっとる。
三小隊は四ツ屋近くで散開し西兵の進撃を食い止めようとしたが、西兵は新着の薩摩、十五番隊・外城五番隊の精鋭を中心に大村・矢島隊砲三門。
流石の庄内三小隊も西兵の猛攻を支えきれず繰り引き(半隊すつ交互にカバーして後退すること)して花館に敵を誘う。
夕方、大曲の方向で銃砲声が一段と激しくなったので本営を防衛する為、闇に紛れて引き返した。
こちらの西兵は同じく新着の薩摩十六番、番兵三、番兵四の精鋭三隊を中心に秋田、矢島、島原兵に砲数門という大部隊で、午後四時頃、玉川を渡河し花館を襲撃。
三番隊長が勇猛をもって鳴る島津新八郎(600石、28歳)
花館には庄内一小隊がいたのみ。
これを蹴散らし羽州街道を南下。
一気に大曲へと攻め寄せた。
ここに初めて薩摩の勇猛な正規の大部隊と歴戦の庄内一番隊が相見え激突。
この激戦は深夜まで続いたが、夜十二時を過ぎると両軍共に疲労困憊。
弾薬兵糧の補給も続かず、流石の薩摩兵も攻めあぐね徐々に花館方面に引き揚げた。
その後、庄内本営で物頭が集まり軍議。
明日、新手の薩兵に攻められれば勝つべきは難しい。
副将の服部純蔵(組頭・1200石)が進言。
「九死に一生の策を用いるに如かず、依って夜の内に少人数にて、敵営の不意を襲わば、勝つ事も有りぬべし」
参謀長長坂右近之介も同意。
切り込み隊長は藤助に白羽の矢が立った。
「左有らんには我行かん、薩賊奴何の恐るべき事や有らん」
と大いに勇み立って引き受けた。
これを聞いた黒谷市郎が「我も共に向かわん」と志願。
2人はまず敵情を視察。
右手間道田の中より討ち入りすることを決め、いったん戻った。
が、部下は朝よりの激戦に疲れ果て銃を枕に死んだように眠っている。
藤助、これらを引き起こし
「是より夜討ちに出るならば、疾く起きよ、後れたる者は跡より来い」
と言い捨てるや7.8人引き連れ駆け出した。
急がなければ夜が明ける。
落ち合う場所で市郎を待ったがなかなか来ない。
追々駆け付けた部下十数名でそのまま脇道を通り、番兵の間を掻い潜り薩本営に忍び寄った。
そして、一斉に小銃を乱射。
就寝中の薩摩兵は狼狽し大混乱に。
藤助は一度退き、場所を変えて「槍隊進め、前列打て」など大声で号令を掛け再び一斉射撃。
↑めっちゃ賢いな、藤助隊長。
これで薩摩兵の混乱は頂点に達した。
市郎も漸く駆けつけ。同士討ちを避けるため「打ち方止め」を令し、手槍をもって薩本営に。
出会い頭の薩摩の物頭らしきのに「どちらの御藩」と小声で問うた。
物頭は何故か「長州藩」と答える。
藤助、大喝一声、手槍を繰り出す。
↑コントやな。
あとは藤助隊下10人に市郎隊下も加わり、駆け回って斬り合いに。
「薩州本陣」との大看板を掲げた民家に入ると数名の薩兵が飛び出し2名を斬り捨てた。
暗夜の各所で激しい接戦死闘が続き、
更に薩兵数名を仕留め生け捕り3名の大戦果を挙げた。
が、藤助隊の横山金吉(18歳)、松山徳蔵(25歳)が討死。三浦文作が深手を負った(のち死亡、23歳)
更に応援に駆け付けた小隼人・猪太夫・臼兵衛隊は敗敵を追って花館外れの川岸まで追撃し更に戦果を挙げた。
この日薩摩藩の戦死25名、手負い16名。戦死者の中には伊集院八郎左衛門など3名の分隊長が含まれる。
生け捕り7名の内5名は助命し解き放った。が、残りのうちの1名、日高惣兵衛は本営に土足で上がるなど態度が傲慢無礼なのでやむなく斬首。
もう一人、大物が居た。
薩摩の勇将で番兵第三隊隊長・島津新八郎である。
この状況が最も詳しいのは『仙台戊辰史』
「此時、鹿児島隊長島津新八郎は本陣にあり、大勝利なりとて快飲大酔し、兵は皆出でてあらず、そこへ庄内決死隊が抜きつれて切り込みし為、雑兵等武器を棄てて逃げ惑う、新八郎は大酔ながらも蹶起して雑兵を叱咤し太刀を抜きて庄兵と切り合いしも、酔歩蹣跚稍もすれば蹉跌す、庄兵取巻て之を縛り、散々に打ち破りて、大曲に帰りしは廿四日の天明なり」
今日はここまで。
藤助隊長と隊員素晴らしい。
4時半に畑へ。
苗ちゃん達に水やり。

冬瓜の苗も3つ虫にやられていた。
栄養補給に納豆培養液を振り掛けたあと、帰路に。
帰宅後、シャワーとベランダガーデニングの水やり。
そして、旅行の準備。
お弁当も作った。
7時に出発。
木村銃太郎隊や二本松少年隊が逃げのびる時間を稼ぐ為に捨て身で戦った2勇士の墓をお詣り。

小高い大壇口の丘からは郡山方面の道が見下ろせた。

次に霞ヶ城址公園へ。

藤棚の藤が満開の中、少年隊の丘を目指した。

そこから搦手門を通り本丸へ。
素晴らしい景色が待っていた。

景色を眺めながら暫し休憩。
帰りは戒石碑を目指して降りる事に。
家老達の自刃の地や井戸を通り戒石碑へ。

字は薄っすらとしか読めない。案内板に碑文の紹介があった。

次に大手門へ。

大城代内藤四郎兵衛戦死の地へ。
この直前に白河の戦いで嫡男を失い、その敵討ちもあり、城門を開き有志20数名と共に討って出た。
そして、何人も斬り伏せ、華々しく散った。
そこから数メートル先に二本松少年隊の像が。

そこから、駐車場を目指し歩いていると、二本松少年隊の一員で重傷を負いながら大壇口から2キロも落ち延び、敵に一矢報いようと物陰に隠れ、潜んでいた。
父の教え通り「斬る」のでは無く「突き」、長州藩の隊長を仕留めた。
そして、その場で戦死。
享年14歳であった。
見たかった所、お参りしたかった所を全て訪れる事が出来て大満足。
夫も素晴らしいお城だった、と絶賛。
昼食は最初に訪れた霞池側の藤棚の下のベンチで、滝を見ながら食べた。

いつもは食べない昼食。
が、今日はプチ登山になると知っていたので食べる予定だった。
最高に美味しい昼食となった。
12時に二本松城を出発。
15時半に盛岡市のホテルに到着。
次は聖寿寺へ。

藩主の一族として若くして家老となり京都にも赴き、京都で何が起きていたのかを知る人物である。
が、南部藩が降伏した際、責任を負い死罪に。
享年38歳。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E4%BD%90%E6%B8%A1
幕末の京都には各藩から情報収集の為の藩士が大勢駐在していた。
その者達は京都で何が起きていたのか知っていた。
その者達はフェイクニュースに騙されなかった。
夫と戊辰戦争について色々話しながらホテルへ帰還。
早速晩酌を開始。
そして、18時半に駅方面へ。
ジャジャ麺を食べに行くことに。
途中、焼き鳥屋でビールを引っ掛け、ほろ酔いでジャジャ麺屋さんの白龍(パイロン)へ。

本場のジャジャ麺を食べるのは初めて。
生姜が効いてて美味だった。
最後は麺を残して「チータンタン」

味噌を追加し、最後の一滴まで美味しく頂いた。
ホテルに帰ってきたらシャワー。
歩き疲れたので寝ることに。
歩数計は23441。
充実した一日だった。