arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1345日目と畑と秋田・庄内戊辰戦争⑫

2025/5/15木曜日

3時半に起床し朝食と長女のお弁当のおかず、夫の昼食の焼きそば作り。

4時50分に畑へ。

キュウリの苗が食べられて網目状になっていた。

こんな小さいうちに食べられたら成長しないやん!

赤ちゃんを攻撃するのが大得意のDSであった。

苗ちゃん達への水やりを終えたら5時半に帰路に。

帰宅後、洗濯とシャワー。

そして、ベランダガーデニング。

DS嫌がらせ対策でバックアップ用の苗を作っている。

その、バックアップ用の苗も結構成長したので鉢で育てる事に。

やる事やったら、お孫ちゃん達と遊びに公園へ。

今日は知人の薔薇ガーデニングを見学に行く予定。

その前に孫達を公園で遊ばせながら、ホンダに向かった夫を待つことに。

9時45分に夫が公園に。

孫達を乗せ、一路知人宅へ。

車から降りた途端、薔薇の甘い香りに包まれた。

 

上の孫は薔薇の花びら拾いに夢中に。

お土産に大量の薔薇の花を頂き、孫も嫁もニッコニコで帰路に。

彼女達をお家に送り届けたら一度帰宅。

次男から役所発行の証明書を取ってきて写メって欲しいものがあると頼まれた。

自分は昼は食べない。

なので、夫にお昼は焼きそばを食べるように言い、自分は役所へ。

13時に帰宅後、無事ミッション完了。

漸く、読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、郡義武著「秋田・庄内戊辰戦争

 

角間川という街は西に大河雄物川、東に横手川が流れ両川が北で合流する。

今日のように南から攻められると完全に袋の鼠状態に。

敵は崩れたって横手川を渡り大曲方面へ脱出を試みたが庄内兵がそうはさせるかと舟の渡し場へ殺到。

各所で太刀打ち乱闘が繰り広げられた。
この戦いの様子を秋田『久保田藩記』に依れば

「隊長介川敬之進踏み止まって奮戦、長(州)藩三原温助(昌助・斥候)より引き揚げの報知之有り候得共、尚尽力戦闘の内、諸手多分に引き揚げに相成り、賊三方より進撃致し候に付、肥藩並びに諸手へ応援相頼み候処、既に総勢引揚げに相成り、応援も之無く候得共、敬之進愈兵士を励まし、一同必死を極め争戦致し候処、弾薬も尽き、死傷も多分に相成り、敬之進弾丸に被貫、止むを得ず大曲村迄引き揚げ候」

と、長州隊の引き揚げ令の後、佐賀隊その他へ応援要請し、特に隊長敬之進は最後まで踏み止まって奮戦したと、正直に述べている。
庄内隊と共に進撃した山形藩の記録『水野忠弘家記』は

庄内藩二番隊統領水野郷右衛門隊、弊藩水野藤五隊繰出し候処、敵庄藩之旗之手を見候と、直様崩れ立ち引去り候に付、為差戦争も無之」


敵は庄内二番隊の「七星旗」を見ると忽ち崩れたって逃げ去ったので(山形兵は)たいした戦いはしなかった。
西軍の損害だが、
秋田兵は戦死39名負傷21名、小倉兵傷1、新庄兵戦死4,傷6、矢島兵戦死1、傷4。
『庄内戦争録』によれば討ち留め50(内首2)、獲首5、生け捕り1、となっている。乱戦中の為重複しているのもあるようだが、僅か2時間の戦闘では驚異的な大戦果。
これに対し東軍仙台兵は戦死6、傷15,庄内兵は負傷1名。
いつもユーモアと余裕を感じさせる大砲隊『神田六右衛門日記』に依れば

「敵散隊にて進み来たるに、大砲を打つべき場合ならねば、仙藩の隊長柴田中務に託し、ここにて御藩は散隊を布いて暫時防ぎ呉れられよと頼みしかとも、大の男が聊か手負い血眼に成りて引き来たるが、役に立つべき容貌なるも、隊下に指揮する躰にも非ず、只跡じさりに引くのみなり」
不公平になるので『仙台戊辰史』も引用する。
「介川敬之進半小隊を以て、仙台兵の側面に突進して背後に廻らんとす、仙兵側面に転回して之を撃つ、秋田藩茂木秀之助之を見て其隊を他の側面に転廻し、三方より烈しく射撃せるを以て、柴田中務は大声叱咤ここを退けば仙藩の面目に関すとて、烈しく指揮しつつ戦う、長藩三原昌助は正面の兵を指揮し、仙台兵を蹴破れと叫びつつ一斉に鬨の声を揚げ暴進し来たる、ここに於て仙台兵は火を民家に放ちて将に退却せんとす」と、退却したのではなく、しようとした時に騎兵隊よろしく吉之丞が駆けつけてきたのだと言う。
↑ドンゴリした事を認めない、と。


その夜遅く郷右衛門の陣所へ仙台藩の使者がやってきた。

『郷右衛門日記』に依れば、

「番兵の出す場所を指図して呉れと頼む抔(など)云わる、序に弊藩は何分不練の兵卒なれば万事頼み度し庄内様は格別におわせりと謝して別る」


昨夜の態度とはうって変わり、しおらしくお世辞を言って帰って行ったという。
尚、一番隊は、この朝、横手を発して本道羽州街道を北上し、先鋒臼兵衛・小隼人隊は野荒(横手北9キロ)へ進み、二陣は金沢(横手北7キロ)、本営は谷地中(横手北4キロ)に移動。

従って角間川の戦いには参加して居ない。


〈難攻不落の神宮寺岳要塞〉
8/14(新暦9/29)晴
二番隊は朝、田村新町を発し昼前に角間川村に到着。

殆どの家屋は類焼し焼け残っているのは白壁の土蔵ばかり。

横手に続き、ここでも仙台兵が乱暴略奪や放火をして困っている、との訴えが住民より度々あった。

そこで吉之丞は抗議文を仙台藩本営に届けた。


「味方乱暴を為し、人民の艱苦(かんく)を察せざるは、盟約に背くの儀なれば締り向き堅く相立て度、此後訴出候わば速に召捕り、若し御藩の者ならば御引渡し申すべく、御互いに厳科に処すべし」


その後2名捕らえ仙台藩に引き渡したが仙台藩も止むを得ずこれを斬首。

ここでも西兵の死者は土民に衣類を剥ぎ取られ懐中の金品を略奪されたりの無残な姿。

如何に日頃から秋田藩佐竹家が苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行い住民に深く恨まれていたかがわかる。
吉之丞はこれを止めさせ土工兵に命じ西軍兵の死骸は全部集めて地元の寺に埋葬。
午後になりこのような雑務に追われていると西軍来襲の報あり。

吉之丞、直ちに采を取り手近にいた寺内権蔵に反撃を命じた。

そこへ六右衛門も大砲を引いてやってきた。
西兵は後方の小高い杉林に下がって激しく撃ちかけてくる。

六右衛門点、すかさず杉山を狙い20発ほど連続発射(後で調べると西兵2名が倒れていたという。)権蔵の半隊長村井敬治が半隊を連れて右手より川を渡って押し寄せた。これに気づいた西兵は背後に廻られるのを恐れ逃げ出した。
敗走する西兵を追って治郎右衛門の半隊や平三郎も半隊を率い元気よく川を渡り追分(角間川北2キロ)まで追撃。
ここで一番隊と合同。
聞けばこちらも仙台勢(伊達安芸八小隊)が先鋒を申し出たので任せたが敵の伏兵に会って忽ち得意のドンゴリ状態、8名の戦死と負傷25名を出した。
それでは、と庄内隊が代わって西兵を追い払い数名の負傷者を出したが今漸く追分に到着。
二番隊は後を平三郎隊に任せ、その他はすぐ角間川に引き揚げたが、こちらの損害は流れ弾に当たり軍夫 0  が一人負傷したのみ。

夜風雨強し。
翌8/15 晴れ 仲秋の名月
今日は休養整備の一日。
副将右膳は自隊と参謀善十郎を連れて六郷(追分東4キロ)の一番隊本営に軍議の為に出掛けたが昼には帰って来た。
角間川は守りに適せぬということで一部の兵をおいて、本隊は門ノ目(角間川南3キロ)に後退。尚、一番隊は本道を進み大曲に入り大川寺を本営とした。

今夜は仲秋の名月なので吉之丞は若い者に餅を搗かせ酒肴を求めて陣中慰労の月見を行った。
夕方、金蔵が負傷して後退後、空席だった第六小隊長として矢口惣四郎(御徒頭用人・350石)が張り切って着任。惣四郎は第三大隊大砲隊長として海道口にあったが、この度吉之丞に請われきたもので、その温厚な人柄は上下の人望も厚く、維新後、明治四年には鶴岡区長にもなっている。この時28歳。
翌8/16日薄曇り。この日も滞陣。斥候を四方に出し警戒は怠り無し。
この日、小隊長の物頭一同連名で安倍平三郎減刑の嘆願書を提出。
18日の軍議により翌19日を期して神宮寺岳(標高297m)とその南にある大平山(標高388メートル)を攻めて、謂わば軽く当たりを見ようということになった。
権蔵隊が先鋒で惣四郎隊との二隊が大平山の南側、熊沢から稜線沿いに攻め寄せた。
権蔵、峰伝いに400ヤード(約365m)まで接近し撃ちかけたが西軍は堅固な胸壁陣地内で逆に激しく射すくめられ攻めあぐねた。
更によく見ると山頂の周りに庇をつくり、その上に材木・岩石を載せ、釣り縄で釣り上げてある。

縄を切れば味方の頭上に落下するという楠公千早城のような凝った防御があった無理攻めは止め早々と引き揚げた。


翌8/20、伝十郎隊・郷右衛門隊は長躯し、南楯岡(大平山西5キロ)から神宮寺岳の西側へ大斥候に出た。

こちらも攻め登るのは少々無理な地形だった。

雄物川対岸の敵陣地より撃ち掛けられたので、味方も少し挨拶して引き揚げた。


8/22,再度神宮寺岳に揺さぶり。

仙台兵、一関兵の応援を受け二番大隊は「山狩り」と称し西側楯岡より攻め登る。既に土地勘のある伝十郎・郷右衛門・権蔵隊が先鋒。
今日は六右衛門の大砲隊も援護射撃が、自慢の長射程ライフル砲は四発発射しただけで車台の心棒が折れ役立たずに。
翌日、交換部品を取りに後藤清兵衛を庄内へ行かせた。
吉之丞も前線へ押し出し、今日こそは山を乗っ取るとの意気込みで指揮。

先鋒伝十郎隊も頂上まで約200mまで攻め上ったが西兵もしぶとく防戦。

朝8時から夕暮れまで攻め続けたがこの日の攻撃も失敗。

神宮寺岳は庄内隊の目の上のコブ。

旅順の二百三高地のような天然の要塞で、難攻不落。
兵糧攻めにしたいが眼下の雄物川に舟橋があり夜のうちに対岸の神宮寺本営からこっそりと運び込んている。

ここで1週間費やしている。

これでは菅実秀が言ったように「敵を致さずに致された」事になってしまう。
雄物川と玉川の合流点に聳えるこの山は天王山の如く重要に。
この間にも西軍には続々と増援部隊が到着。
①7/24長崎振遠隊約400
②7/29佐賀武雄兵839
③8/1佐賀兵200
④8/14大村兵324
⑤8/14島原兵357
⑥8/20薩摩五隊737
⑦8/22平戸兵400
⑧9/4福岡兵337
⑨9/8鳥取兵450
薩摩の五隊は西郷隆盛が鹿児島で自ら選び集めた精強な部隊。

 

今日はここまで。

17時から夕食作り。

 

玄米ご飯、ポークストロガノフ、タラコ長芋、納豆、サラダ、ローストナッツ、ビーツスープ、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

 

食後の後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は10831。

充実した一日だった。