2025/5/14水曜日
4時半に起床し朝食とお弁当のおかず作り。
ベランダガーデニングの水遣りをしようとベランダに出たら、母の日プレゼントの花が切られていた。

家の者に聞いても誰も切っていない。
誰が切ったんだろうね。
6時半に畑へ。
先ずはニンニクを収穫。

そして、持参した苗を移植。
8時に帰宅後、ニンニクを天日干し。
そして、洗濯。
9時過ぎに公園へ。
お孫ちゃん達と暫し邂逅。
9時40分に買い物へ。
10時40分に公園の前を通るとまだ遊んでいた。
自分も遊びたかったが、何せ背中に20キロ相当の荷物が。
バイバイして帰宅後、荷物を仕分け。
その後、白髪染めとシャワー。
12時から読書と調べ物。
同じく、8/5、本荘・矢島の藩境付近でも激戦が展開。
矢島奪回に燃える西軍は矢島道を南下。
例のごとく亀田兵を先鋒に矢島・本荘・秋田・福岡兵に新参の弘前兵の連合軍。
これを藩境の吉沢(矢島北西4キロ)で迎撃したのは矢島攻略で意気あかる庄内四番隊大隊。
ここは本荘に流れ込む子吉川が蛇行し地形が複雑な丘陵地帯。
おまけに西軍は頭数は多いが寄せ集めの部隊。
総指揮は軍監上田雄一。
他隊との連携や連絡も悪く臨時連合軍の弱体を曝け出した。
各隊が勝手に散ったので庄内隊に各個撃破されてしまう。
弘前兵などは街道上を突進し庄内陣地に斬込み新徴組と凄まじい斬り合いに。
が、迂回した庄内兵に脇腹を攻められ隊長成田求馬以下多数の戦死者を残し敗走。
ここで威力を発揮したのは庄内藩安藤定右衛門配下奇銃隊の七連発。
但し全員には行き渡らず半隊(25挺)のみ。
それでも西兵の突進を度々阻止。
戦いは夜まで続いたが損害続出に西軍は諦めて本荘方面へ引き揚げた。
この戦闘で福岡兵傷2、弘前兵戦死11,傷12、秋田兵戦死6、傷9を出した。
庄内兵は戦死2、傷7。
この夜(8/5)街道の西軍本営は本荘を放棄し、総退却を決定。
参謀前山精一郎の「賊多数襲来、既に本荘居城近く迫り候に付き、一ト先ず立退き候様」一時明け渡すだけという理由で本荘藩主六郷政鑑を説得。
止むを得ず、8/6, 城を焼き、藩主政鑑は一族と共に久保田へ脱出。
本荘藩も陥落。
亀田の使者が矢島の庄内軍本営に降伏の意を伝えたのは、8/4夜。
翌8/5、亀田兵は西軍先鋒で戦闘。
8/7, 全軍長浜(秋田南11キロ)に引き揚げたが亀田兵もそれに同行。
『秋田県史』に依れば、遊撃隊長荒川久太郎日記を引用し、
「五日吉沢進軍、夜中引揚げ。
六日朝亀田領石脇に到着、夜中に肥州(佐賀)一手の兵も本荘退陣道川村まで引揚げたる由を聞く、とある。
荒川も肥州も戦況不利による自然の退却であって、亀田藩の離反行動は我が方の軍行動に全然影響があった事とは見えない」
大山柏『戊辰役戦史』はこれに関し「(亀田藩は)遂に庄内降伏に踏切り、藩主と家族は庄内に至り、同盟軍に加わり官軍に抗した。誠に紙一重の差で所謂反逆者の群れに墜落してしまった。維新の論功に際し、本荘藩は一万石の加増を得て立直ったのに対し、亀田藩はのちに官軍によって藩城は焼かれたうえ、二千石の減封で一万八千石に低下させられた」(傍点筆者)
↑亀田藩の取った行動は正しいと思うよ。
8/8に庄内三番大隊の先遣隊が本荘に進撃し、13日には本隊も到着。
8/14に亀田入り。
四番大隊は本荘を通過し14日亀田入り。
両隊はここに集結。
尚、庄内藩は本荘でも亀田でも略奪していない。
↑軍規で禁止。
破ったら死罪。
一方、西軍は亀田藩で略奪。
後日、亀田藩での略奪品の掛け軸や刀や骨董品が多数売りに出されたそうな。
只の泥棒やん。
二 大曲・角館方面の戦い
〈角間川の戦い〉
8/13(新暦9/28)朝雨のち晴れ
その頃、山道口では、横手を脱出した沢副総督と西軍が神宮寺(大曲北5キロ)に後退し本営を置いた。
小倉・佐賀・秋田・新庄兵各一小隊を警戒部隊として角間川(大曲南六キロ)に配置。
東軍の北上を阻止。
更に12日には海道矢島方面から引き揚げた秋田茂木秀之助隊と矢島兵が加わり陣地を築いて守備。
8/12、田村新町にあった庄内二番大隊は角間川の西軍を打ち破る準備。
田村は征夷大将軍坂上田村麿が奥州平定の時に宿陣したところと言われ近くにはそれを祀った田村神社もある。
↑これの最後の坂上田村麿を入力中はスマホの縦横イタズラ大作戦やって来なかった。
興味深かったか。
勉強なるやろ?
仙台支藩の一関藩(藩主田村邦栄・三万石)峰岸兵左衛門率いる六小隊が二番隊と行動を共にし吉之丞の指揮を受けたいと再三の願いがあった。
二番隊より2名の周旋方(参謀)配属を約束。
一関隊は仙台隊の中では最も装備も優秀で練度も高かった。
↑しかし、このあと、刈和野で大ポカをやる。
8/12夜、仙台藩の本営に打ち合わせに出向いた吉之丞に対し物頭柴田中務が敷皮にふんぞり返って横柄に言った。
「明日の角間川の敵を我が仙台勢にて先鋒して打ち破りたい」
仙台は列藩同盟の盟主であり大藩である。戦争は弱いがプライドは高い。
断るわけにもいかないので承諾。
吉之丞は帰隊後、部下には、仙台藩が先鋒して攻め込むが、必ず手助けが必要になるから、その手配として郷右衛門・治郎右衛門隊は仙台隊に後続し、他隊もすぐ出撃出来るよう準備するべし。
案の定、その事態はすぐにやってきた。
翌8/13朝、仙台勢が出発して間もなく(田村から角間川まで5キロ)銃砲声が聞こえる。
が、たちまち本道上を仙台兵が敗走してくる。
『庄内戦争録』によれば「逃れ来る仙兵を引き留まれとも、耳にも入れず、道を塞げば畔に逃れて逃げ帰る」という全くのドンコリ状態。
これには流石の吉之丞も怒った。
「強いて先鋒を望める者が逃げ帰るという事やあるか、疾く馳せて(仙台)隊長共の模様を見よ」と側にいた石川与八郎(猪太夫嫡男・六小隊士)に命じた。
与八郎、直ちに馬に跨り前線へ駆け付けた。
見れば柴田中務負傷し既に後退。
仙台藩上遠野伊豆隊は庄内の郷右衛門の救援により、辛うじて踏み止まっている。
この日、郷右衛門隊は仙台兵の後詰めを命じられたが仙兵のお手並み拝見とのんびりと早目の昼食を取りながら見物。
間もなく仙兵が続々と引き揚げてくる、何故引き揚げるのか尋ねると「弾薬が尽きた為」「昼飯が来ないから」と口々に言い訳。
郷右衛門は後方の伝十郎隊に合図し右手横道へ押し出した。
角間川近く、本道上を調子に乗って追撃してくる秋田兵をいきなり至近距離から横撃。
本道上の庄内本隊は治郎右衛門を先頭に吉之丞自ら指揮し七星旗を風に靡かせ、太鼓、喇叭の音も勇ましく進撃。
これに気を取られた秋田兵は郷右衛門隊の奇襲に多数が打ち倒され大慌てで街中に逃げ込んだ。
今日はここまで。
14時にタイヤを購入し帰宅した夫に昼食を用意。
夫も、走れる状態で車検に入れた車がパンクで車検を通らないからタイヤ交換を、とディーラーに言われ、怒り心頭。
何で自分がタイヤの購入に奔走しないと駄目なのか、と。
聞くと走行距離は3年間で2万4千キロしか無いそう。
お孫ちゃん達が近くに住むようになってから三重に行く事も無くなったしね。
で、夫と車検の見積書を一緒に確認。
すると、何と27万の請求額だった。
初回の車検で、27万て。
タイヤ代9万円を含むとは言え、ぼったくりやないか?
一項目ずつ検討。
余計な物はお断りし、見積書も作り直して貰う事に。
17時から夕食作り。

ケールとソーセージの塩胡椒炒め、サーモンの新ニンニクカルパッチョ、玄米ご飯、ビーツのスープ、納豆、ローストナッツ。
ウォッカ梅酒ロックと共に食べる事に。
歩数計は8469。
充実した一日だった。