arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1343日目と畑と秋田・庄内戊辰戦争⑩

2025/5/13火曜日

3時半に起床し朝食と長女のお弁当作り。

5:45に畑へ。

畝を立てて夏野菜の瓜科の苗を植えた。

昨日立てた支柱の所にも。

7時に帰宅後、シャワー。

洗濯物を干したら8時半から読書と調べ物。

昨日に引き続き郡義武著「秋田・庄内戊辰戦争

 

一、二番大隊が攻めた院内方面が山道口と言うのでこれに対抗し海道口とする。

海道口の国境三崎方面には庄内藩の守備隊が少数駐屯。

 

7/9の夜、秋田兵を主力とする総勢1500の西軍が塩越(現・象潟)に集結中との情報が。
直ちに庄内藩三番大隊に出陣命令が下された。

7/10夜には先陣は吹浦(酒田北18キロ)に到着。

大隊長酒井兵部(御中老・800石)は病気療養中の為、第一小隊長杉山弓之助(右近・御組頭・1200石)が代理指揮をとり、鳥海山中腹の観音森から本道三崎峠に防衛線を敷いた。


7/13,早朝より亀田兵を先鋒にした西軍が来襲。

小砂川(吹浦北7キロ、三崎峠北3キロ)の前哨陣地にあった庄内三小隊は防戦しきれずに、昼頃には三崎峠まで後退。
三崎峠は鳥海山の溶岩流が日本海に流れ込んだ地形峻険な場所で防戦陣地として最良。

この地の守備隊と共に防戦。

敵はそれ以上強攻せず、日没と共に小砂川へ引き揚げた。
間道より観音森へ攻め寄せた敵は秋田藩の最強部隊とも言うべき遊撃隊・有志隊約200名が主力。

少数の庄内守備兵を追い払い同地を確保。


7/14,15は小競り合いのみで対峙。

16日、西軍は再び攻勢に。

西軍本隊は本道上の三崎峠を攻める一方で、秋田の遊撃・有志隊を主力に佐賀兵一小隊が遠く左へ迂回し、三崎峠背後の女鹿(三崎峠南1キロ)を襲った。
不意を突かれた庄内隊は大混乱に。

紀太総造小隊はろくに防戦せずに敗走。
老武士星川輿右衛門(小頭・60歳)は「己が守る処を破られては面目なくやありけん」と叫ぶやただ一人取って返し敵中に突入して壮烈な討死をした。

西兵は余勢を駆って女鹿村に火を付け、更に南下。

滝ノ浦(女鹿南1キロ)も焼き立て、佐賀兵は分かれ三崎峠を背後から襲う。

これで三崎口の庄内三小隊は袋の鼠、完全に包囲された。
吹浦の本営にいた大隊長代理杉山弓之助は初戦いきなりのピンチに動揺。

弓之助は吹浦で防衛するのが良いと考えたのか本営にも予備兵が少なかった為かすぐ増援隊を出さなかった。

見兼ねた大砲隊矢口惣四郎が真っ先に駆け出し応援に駆け付けた。

漸く西兵も深入りしすぎた事に気がつき、退路を断たれる事を恐れ引き揚げていく。

本道を攻めた西兵主力も三崎峠を奪取出来なかった。
更に敵の軍監山本登雲介(長州藩士)は全軍に総退却を命令。

折角占領した観音森の要地も捨てて塩越まで引き揚げた。
有志隊副隊長の豊間源之進もこの戦いで戦死。

彼は仙台使志茂又左衛門を殺害したので有名。
両軍の損害は秋田兵戦死7,傷8,亀田兵戦死1名、傷3名。

庄内兵戦死1名、傷3名。

 

〈鳥海越え・矢島攻略〉
7/20,家老松平権十郎に続いて藩主酒井忠篤自ら出馬し、吹浦方面の戦況視察並びに督戦を行った。更に軍議を開き、今後の反抗作戦を決定し新たに四番大隊が編成された。
両隊の作戦担当は、三番隊が海岸に沿って本道を北上。四番隊は右翼矢島方面から間道を北上しつつ、本道の三番隊を支援する。目指すは西軍の本拠久保田(秋田)城である。
この度、西軍の本土侵入を許した事は一日で撃退したとはいえ屈辱そのもの。攻撃こそ最大の防御なりを実践する事に。
四番大隊長には水野藤弥(御組頭・1200石)副将は都筑林太夫(御番頭文四郎400石嫡男・田宮流免許)が任命された。

更に7/25には三番大隊長酒井兵部が病癒えて復帰。

かくて陣容は整った。


7/27朝、四番大隊は二手に分かれて進撃を開始。

本隊は升田から鍋倉峠を越えて百宅へ出る間道を進む。

別に鳥海山の峻険を越えて矢島の背後を襲う奇襲部隊が編成され、これには精強な新徴組三小隊が充てられた。
本隊は予定通り夕刻、鍋倉峠(標高824m)に到着。

草原に野営。
↑寒そう。

 

奇襲隊は隊長林茂助(新徴組取扱頭200石)以下約200名だが、足弱は外した健脚揃い。
険しい山道をよじ登り夕方には鳥海山山頂の大物忌神社に到着。前日運び上げて置いた兵糧を喫し焚き火で暖を採り寒風の中で夜営した。
翌28日、本隊は峠を下り、昼前、百宅に到達。

ここで初めて秋田兵の激しい抵抗に出遭う。

約一時間の銃撃戦で漸く西兵は退散。
この手間取りで夕方5時過ぎ前之沢(矢島南方9キロ)に到着。

ここに宿陣。

遥かに矢島の方角に火炎が望見され新徴組に先駆けさせられたと切歯。
一方、奇襲隊は日の出と共に出発。

濃霧の中、方角を失せぬよう山を下り麓の濁川(矢島南西4キロ)で腰兵糧を使い一気に矢島に攻め込んだ。
矢島藩は生駒親政が八千石を領し陣屋が置かれていた。
装備はかなり揃っている方でゲベール銃160挺、新式野砲三門を含み各種大砲も計13門。

総兵力は354名(農兵80名含む)
しかし、主力は早朝矢島を発って百宅方面に応援。

矢島兵50と秋田古内隊200が居るだけだった。

数は多いが古内隊は数名の死傷者を出し早々と引き揚げた。
天然の要害鳥海山を越えて、背後から奇襲されてはたまらない。

更に新徴組は戦い上手であり、白兵戦では遺憾無くその実力を発揮した。
矢島兵必死の防戦虚しく軍監上田雄一(長州藩)の命により陣屋を自焼し領主一族は脱出。

矢島は陥落した。
矢島兵の戦死者4名。
新徴組は組頭林茂助以下4名負傷。
矢島の藩士98家全部焼失、町家も221軒が焼けた(焼け残りは171軒)この日から庄内藩の監督下に置かれた。

松山藩の家老永井丹治が任命され善政がしかれた。
尚、新撰組の天才剣士沖田総司の義兄、新徴組の沖田林太郎も林隊の伍長としてこの戦いに参加したが、ざんねんながらその詳細は伝わっていない。


〈亀田藩降伏、本荘落城〉
8/1,庄内三番大隊が海道を北上し進撃を開始。

払暁、小砂川を発し洗釜(小砂川北3キロ半)の敵前哨陣地を突破。

夕方、関(洗釜北2キロ)を占領。

たまらず西軍は金浦(塩越北5キロ)まで後退。


翌8/2, 三番大隊は更に北上し、敵の微弱な妨害を排し3日、塩越に。

西兵はこの日本荘(金浦北東15キロ)まで後退。
斥候の報告により三番大隊は更に進み翌4日には先鋒隊は金浦に到着。
進撃速度が早くて常に兵糧・物資の補給が追い付かなかったと言う。
西軍は本荘で踏み止まり態勢を立て直そうとした。
本荘は21歳の藩主六郷政鑑二万石の城下町。

藩論は早くから勤王だったが奥羽列藩同盟にも加盟。

その経緯や他藩の動向を沢副総督に報告。また、周囲の秋田、仙台、庄内藩などに絶えず機嫌を伺い、したたかで老獪。
同じ外様の小藩ながら北隣の亀田藩とは対照的。
総督府参謀・軍艦に賄賂を贈り、先鋒を免れたりした。

其の為、被害の多い先鋒の損な役は、いつも要領の悪い亀田藩に廻った。

亀田の隊長神谷男也は気骨のある男だから、この不公平を度々軍議の席上、軍艦山本登雲介に訴えた。
山本登雲介も短気な男らしく諸将並み居る面前で持っていた鉄扇でいきなり隊長神谷の脳天を殴打した(成り上がり者が信長にでもなったような気分だったのだろう)
のちに神谷はこの時の事を次のように語っている。


「此時に当りて一刀能く山本の頭血を濺(しず)くこと只瞬間のみ、然れども君主に及ぼす大なるを思い、忍ぶべからずを忍びたることは胯下の辱めのみならず」(『亀田藩戊辰戦記』)


男也は武士の意地で一刀の下に山本登雲介を斬り捨てようと思ったが、後難が藩主に及ぶ事を思い、怒りに身を震わせつつも辛うじて耐え忍んだ。

この出来事もやがて亀田藩が離反し庄内藩と行動を共にする一因にもなっている。

↑賄賂を贈る方も贈る方だが、それを受け取り不公平な采配を奮うような輩が軍監ですわ。

西軍の。


本荘の西軍本営には次々と援軍が到着。8/1, 弘前藩兵三小隊、続いて佐賀藩家老鍋島茂昌率いる武雄兵二大隊(アームストロング砲四門、七連発スペンサー銃450挺、レミントン銃100挺装備、兵839名)が8/4夕方到着。
西軍は翌8/5, 佐賀兵と新着の武雄兵の精鋭部隊が主力で反撃に。
早朝、平沢(金浦北東5キロ)にあった庄内斥候が西軍来るの急報を伝えるや金浦にあった先鋒隊は芹田(金浦北北東3キロ)に駆けつけ白雪川に沿って防衛ラインを築いた。
対岸に居た庄内前哨兵は佐賀武雄兵の七連発に射すくめられ逃げ戻る。

川を挟んでの激しい銃撃戦が展開された。
長射程のアームストロング砲弾が唸りを上げて庄内兵の頭上に炸裂。
一進一退、激戦は続いたが午後になって塩越から急を聞いて本隊と共に駆け付けてきた松山勢五小隊が川の上流の右翼を攻めた。
これで包囲される危険を感じた佐賀兵は忽ち退却を開始。

庄内隊は余勢を駆って平沢付近まで追撃したが、夕闇が迫ったので金浦、本隊は象潟まで後退。
佐賀兵は戦死6。庄内隊は戦死6、傷7と全くの痛み分けだった。

 

今日はここまで。

 

 

17時半から夕食作り。

焼き芋、鶏の酒粕塩麹漬け、ニラ豆腐、大根サラダ、納豆、味噌汁、玄米ご飯、朝の残り、昨日の残りのブリ大根、ウォッカ梅酒ロック。

19時に昨夜以来の食事。

良く呑み良く食べた。

 

夕方から夫の怒りにお付き合い。

5/12にディーラーに車を車検に出した。

受取は5/15。

めっちゃ時間掛かってる。

これまでは1日か2日で車検終了だった。

ま、それでも、ちゃんと15日までに終了するならいいや、と考えていた。

12日に車を持っていくと見積書を出したいので30分時間下さい、と言われ夫は孫達と遊び、30分後にディーラーへ戻り、見積書をもらった。

タイヤ交換を推奨されたが、新車で購入しまだ3年しか経ってい。

走行距離も3万キロ。

今回は見送る事に。

その日の夜19時に整備士から電話。

タイヤに釘が刺さっているのでタイヤ交換して下さい、と。

そうしないと車検が通らない、と。

ちょ、待て。 

午前中の見積の時、タイヤに釘が刺さってないかチェックしなかったん?

タイヤチェックて、基本中の基本やないの?

夫は点検パックに加入。

6カ月点検の時は真っ先にパンクを連絡してきたものだった。

ところが、今回は見積書を貰ったあとに後出しジャンケンのように連絡か。

午後7時に。

しかも、タイヤ4本代えるから9万円プラスに成る、と。

流石に高すぎるので夫は断り、自分でタイヤを購入し、持ち込む事にし、タイヤ探し。

一連の流れを見ていたが、突っ込みどころ満載。

何か怪しい商売しとる。

夫は本田宗一郎の本を持っている。

自分も読んだ事がある。

裸一貫からホンダを立ち上げた。

草場の陰で泣いとるよ。

 

後片付けを済ませたら、営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は10387。

充実した一日だった。