2025/5/12月曜日
3時半に起床し朝食と長女のお弁当のおかず作り。
同時進行で納豆作り。
雨が上がった7時過ぎに畑へ。
まずはニンニクの芽の収穫。

ここ2, 3日で急成長した。
そして、支柱立て。
毎年苦労している。
雨の後で土が軟らかいうちにやる事に。
8時に帰宅後、玉ねぎの干し直し。
突っ張り棒にイタズラされ落ちかかっていた。
DS連中は嫌がらせを日夜研究している。
五千年の歴史があるから引き出しが一杯。
シャワーを浴びたら、読書と調べ物。
8/11 曇り時々晴 横手城攻略
早朝、一番大隊は十文字を発して羽州街道を北上、城の大手に向かった。
吉之丞率いる二番大隊は浅舞道を城の搦手に。
途中、敵の抵抗は全く無く予定通り赤坂(横手城西南2キロ)に到着しここに布陣。
吉之丞は斥候の情報により横手の西軍主力は既に逃亡。
守将大学が僅かな手兵と共に籠城している事は知っていた。
節義を守り大軍を前に潔く討死の覚悟をした若き大学の心情に深く感動。
出来れば彼の命を助けたいと甚三郎と相談。
投降勧告書を大学に送った。
本道村明専寺の住職と横手の役人を使者に昼前に城へ。
軍書を読んだが
「大学、答えず、其使者を拘留す」と『秋田戦記』にある。
午後4時になっても返事が来なかった。
痺れを切らした一番隊は太鼓・喇叭の音を合図に一斉に本道に繰り出した。
続いて二番大隊も。
先鋒は惣右衛門、権蔵、治郎右衛門隊で大手門を目指し攻め登った。
すると城内の柵中より火縄銃の反撃が。
更に近接するや弓矢を射掛けられた。
六右衛門の大砲で障害物を吹き飛ばし、ライフルポート砲の破裂弾(いわゆる榴散弾)が命中し二之丸が炎上。
丁度この頃頭上高く鶴の群れが飛んだ。『六右衛門日記』によれば
「戦争の最中に鶴十二羽飛来り、城の上高く舞ぬるとぞ、皆人之を吉瑞なりと悦びぬ」
遂に午後5時頃、遂に追手口より先鋒の権蔵隊が城内への討ち入りに成功、二番隊の中の一番乗り。
裏手より攻め込んだ人数の多い仙台の瀬上隊が「加勢を頼みたし」という。
惣右衛門は援護射撃し追い払った。
そこへ安倍平三郎(中川代官甚兵衛100石の嫡子、20歳)が第三小隊を率いて駆け付けてきた。
実は平三郎の配置は赤坂老ヶ森で敵の援軍に備える事で城攻めに参加する事では無かった。
が、砲声が轟くや若さと闘志に溢れる彼は怺えきれず部下少々を持場に残し自身はおっとり刀で駆け付けた。
所謂抜け駆け。
平三郎隊は呆気に取られた先鋒の惣右衛門隊を尻目に先登するや城門(一の木戸)に向かって撃ちかけた。
突如、城門が開いた。
かねて覚悟の横手兵20数名が怒号と共に刀槍を夕日に煌めかし吶喊(とっかん)してきた。
平三郎隊の一斉射撃で先頭の横手兵5,6名が撃ち倒された。
が、次発装填(次の弾を込めること)の合間に残兵が斬り込んできた。
残りの横手兵は脱兎の如く走り去った(この人数の中に大学も居たらしい)。
更に裏口の仙台兵の囲みも突破。
この勇気は褒められて良い。
これが、この日最後の激戦だった。
日が暮れたが城内の火勢いはますます激しく炎々と夜空を焦がし燃え続けていた。
全隊は元の赤坂に意気揚々と引き揚げた。
問題は安倍平三郎の処分。
この日抜群の働きは殊勲中だが持ち場を離れた事は重大な軍令違反。
一方、一番隊は本道より押し出し大手の長さ50間の大橋を渡って大手から本丸を目指した。
こちらは激しい敵の抵抗は無く一気に道を駆け登り城門を開いて本丸に突入。
大広間には家具・什器・蒲団が散乱。
この夜、一番隊は横手の町家に分宿。
横手城二之丸が火災を発した頃、城内では大学が最早これまでと自害しようとした。しかし、家臣に諌められ裏口から脱出。
横手城はかくて落城。
横手における討死21名(『秋田戦記』『久保田藩記』)手負いは8名(『幕末維新全殉難者名鑑』では横手の戦死28名、その域外田村で4名戦死となっている)
庄内隊の戦死2名、手負い1名、他に仙台藩が戦死5名、手負い9名を出している。
8/12 晴れ 夕方より雨 横手将兵の墓標を建てる
二番隊は横手の後始末は一番隊に任せ、早朝、赤坂を出発し進撃開始、左へ間道を取り昼前に田村新田(現・平鹿郡大雄村田村新町、横手北西6キロ)へ前進。
急ぎ転陣した理由は、味方の斥候によれば、昨日夕方より角間川村(田村新田北5キロ)付近に敵兵多数集結中との情報から。
退却した沢副総督は雄物川右岸の神宮寺に本営を置き一安心。
庄内隊の前進を阻止する為本道の大曲に兵力を配置。
更に間道角間川にも警戒部隊を集結させた。
主力は秋田兵でそれに新庄・小倉・佐賀兵各一小隊が応援。
一番隊は横手に残り残務処理。
両軍の戦死した者21体を城下の龍昌院に葬った。
初戦舟形以来全ての敵兵は埋葬してきた庄内隊だが、この横手の戦死者は特に哀れを感じた。
付近の寺から僧侶14名を集め黄金を与え盛大に読経回向を行った。
更に次のような墓標を建立し横手側戦死者の霊を弔った。
死者に敵味方は無い。
庄内隊の武士道精神の発露である。
慶応四年八月十一日
佐竹家名臣戸村氏忠士之墓
裏には「奥羽の義軍埋葬礼拝感泣して退く、惜哉此人々の姓名を弁ぜず。若し之を知る者あらば幸に追記せん事を希うのみ」と記した。
庄内一番隊の副将長沢金剛(組頭・軍事掛・600石)が横手で宿とした染屋某の亭主は「憎気なる男にて、何を申し付けるも穏やかに挨拶する事なく、不埒なる奴也と家来共よりの訴えも度々なり。生かして置かれぬ奴などと皆人の悪める者なる」(『庄内戦争録』)
その亭主を金剛が呼び出し、戦死者を埋葬し回向したいのでその手配を依頼。
勿論、回向料その他の費用は当方にてもつ、というが亭主はなかなか信用しない。武士に二言はない、などと説得すると亭主は大いに喜び「夫ならば誠に有り難気仕合せ重畳せり、敵ながら感服奉る」と言うや直ちに表に駆け出し「庄内様が御葬り下さり候と仰せ候ぞ、皆出て尽力せよ。敵の戦死者を斯く迄厚く成し下し候を、何も思わぬ事やある」と全く別人のようになって働いた。
そして、法要に参列し、墓標の傍らで落涙していたという。
始めは無愛想で頑固なこの亭主、実は反骨精神旺盛な誰にも真似できない律儀者だったのである。
〈海道口の戦況〉
三崎峠の防衛戦
酒田から日本海に沿って北上する国道7号線は別名「おばこおけさライン」とも呼ばれ、右に秀峰鳥海山、左に日本海の白砂青松が続く景勝の地。
12時に夫の昼食を用意。
午後は日が出てきたので洗濯。
干し終えたら再び読書と調べ物。
戊辰戦争について調べる事は大事だと考える。
何故なら、この時、日本は主権を失った。
まずはイギリスの植民地に。
しかし、直接統治ではなく、朝鮮ルーツの日本人による間接統治をした。
今もそう。
自分の国がまさか植民地だとは知らなかった。
調べれば幾らでも出てくる。
だからこその、税金地獄よ。
日本人の為の政治なんかしない。
白人様の為の政治をやってる。
戊辰戦争とは、日本が植民地になる過程の一つ。
だから、検証するの、大事。
徳川幕府や会津藩や庄内藩を朝敵とかフェイスニュースを流し、偽の錦の御旗を作り、人々を騙したんよ。
当時はネットとか無いから人々は真実を知りようが無い。
まんまと騙された。
奴らは平気な顔して言う。
騙される奴が悪い
そんな事は無い。
騙す方が悪い。
誰が何と言おうと騙す方が悪い。
神様も見てる。
17時から夕食作り。

大根サラダ、納豆、ご飯、味噌汁、プリ大根、ニンニク芽と鶏モモの炒め物、朝の残り、ナッツ、ウォッカ梅酒ロック。
19時に昨夜以来の食事をする事に。
歩数計は6223。
充実した一日だった。