arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1339日目と畑と秋田・庄内戊辰戦争⑥

2025/5/9金曜日

2時半に覚醒。

そのまま起床し朝食と長女のお弁当のおかず作り。

4時50分に畑へ。

まずは、残っていた早生玉ねぎを全収穫。

そして、続々苗が成長中なので、次の為にスコップで掘った。

もう一つの中生玉ねぎは5月下旬収穫でまだ葉も倒れていないけれど、十二分に大きく育って居るので収穫。

上の葉が枯れてきたニンニクは試し掘り。

底が平らだと収穫時期、とあった。

1番左は平ら。

だけれど、他は微妙なので今日の収穫は止めておく事に。

他にも人参やネギ、スイスチャード等を収穫。

週末は長男一家が食べに来る。

これだけあればおもてなし出来る。

7時過ぎに一度帰宅。

カートや収穫用のカゴ等を車に積み込み、再び畑へ。

大量の玉ねぎ等を家まで運んだ。

帰宅後、洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

合間にシャワー。

そして、米麹を出麹。

発酵機の部品等は仕舞う為、外で天日干し。

米麹をビニール袋に入れたら麹蓋も天日干し。

やる事やったらスーパーへ買い出しに。

11時に帰宅後、食材を収納していたら11時半に。

暫し休憩していると、夫が孫遊びから帰宅。

体調不良の嫁のヘルプで毎日のように孫達を公園で遊ばせている。

みんな、とっても助かっている。

その夫に採れたての新ニンニクとビーツの葉とスイスチャードでペペロンチーノを調理。

喜んでモリモリ食べていた。

午後は読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、郡義武著「秋田・庄内戊辰戦争

 

↓これは、わいの認識。
庄内藩は幕府から江戸市中取締役を拝命。これら放火犯や強盗殺人犯が三田の薩摩藩邸に逃げ込んでいる事を知り、容疑者を引き渡すよう薩摩藩邸に向かった際に起きたのが焼き討ち事件。

その前日には江戸市中取締役の番所で銃撃事件が起こり番所の者が1名死亡している。

庄内藩薩摩藩邸の責任者に容疑者引き渡しを要求したが、責任者は知らないと言い邸内に入った直後、出火。

その出火騒ぎで中の捕縛対象の浪人共が逃げ出したので、庄内藩は止むなく攻撃した。

庄内藩は正当な手続きの元、やっている。むしろ、薩摩藩は犯人隠匿の上、逃亡の手助けをし、重罪やないか。
そんな奴らが、秋田藩庄内藩を討て、と言ってるんよ。
で、この悪徳薩摩藩を後ろで糸で操っていたのがイギリスのフリーメイソン達。

奴らが日本を征服する為に薩長の朝鮮ルーツの下級武士を使って戊辰戦争をやらせた。

西軍にのみ最新兵器を売って。

↑これまで、新徴組やらフリーメイソンやらアーネスト・サトウやら何十冊も読んだ上での認識。

気に入った本は購入し、幕末・戊辰戦争関連の本だけで50冊はあるのでは。

夫の本棚が一杯に(殆どわいの本)なったので、今度、新たに本棚買うことに。

 

↓ここからは郡義武著「秋田・庄内戊辰戦争」からの引用。


当時、江戸市中取締の任務にあった庄内藩はこれらの鎮圧に向かい、賊の巣窟薩摩藩邸を砲撃焼き討ちし多数の浪士を捕殺。

これが有名な「薩邸砲撃事件」
この報告が上方に届くや大阪城に集まっていた旧幕府軍将兵二万は激昂。

京都目指し進撃を開始。

待ち構えていた薩長軍は鳥羽・伏見で激戦の上旧幕軍を破った。
これは大政奉還したにも拘らずあくまで武力討幕を目指す薩長の仕掛けた悪辣な罠。
いくら中央の情勢に疎い秋田藩でもこれくらいの事はわかっている。

天朝の命令には従うが薩摩藩の逆恨みのお先棒を担ぐわけにはいかない。
秋田藩が逡巡していると、参謀大山格之助桂太郎は次のような陰険な策略に。
折しも、仙台藩の使者志茂又左衛門一行11名が秋田城下に到着。

正副総督を仙台に返し、薩長兵を追い払うように迫っていた。
参謀大山・桂は砲術所の壮士を唆し7/4夜、仙台藩の使者一行をその旅宿に襲い、全員を惨殺し梟首するという暴挙をやらせた。
参謀大山格之助(綱良)はこの時43歳。

西郷隆盛の懐刀と言われ維新後鹿児島県令になるが西南戦争に関係し、また、公金横領の罪で斬首される。
↑公金横領て斬罪だったのな。

DSは事を成した後に証拠隠滅もするで。

 

そして、桂太郎は維新後、陸軍に入り山県有朋の下、ライバル児玉源太郎を蹴散らし、陸軍大将から大臣・首相にまで上り詰めた。

更に公爵位
しかも、この仙台藩士惨殺事件の時、若干20歳という若さ。


8/3晴天 院内・横堀に滞陣。

米沢藩の総引き上げ。
横堀の小野は小野小町の出身地。
二番大隊隊長吉之丞はこの朝早く横堀の一番大隊本営に向かい軍議。
前夜、米沢藩が本国からの緊急命令により引き揚げ。
それに追従してきた天童藩も。
実は越後口では7/25,奥羽列藩同盟の新発田藩が裏切り新潟松ヶ浜海岸に西軍を手引き。

上陸させた。
これにより米沢藩は越後に領有していた領土を失い、総督千坂太郎左衛門以下真っ先に引き揚げた。
その為、庄内藩からも越後へ応援に出兵していた中村七郎左衛門率いる小銃四小隊は引き揚げに苦労する。
やがて米沢藩は西軍の走狗となり黒田了介率いる薩摩隊を先導し庄内に進攻。
9/19、寒河江で包囲された七郎右衛門隊・桑名藩隊と死闘。

少し先の話である。

 

軍議の結果、米沢藩無くとも直ちに敵を追って湯沢(横堀北10キロ)に進撃するべしとの積極論も出たが仙台藩主力の到着を待って共に進撃する事に決定。


8/3夜から6日にかけて仙台兵が到着。

その兵力は資料によって違うのだが、鬼首口より上遠野伊豆四小隊(150名)柴田中務銃士五小隊(230名)瀬上主膳銃士三小隊(130名)伊達上野介手兵(170名)須川口より森文之助十二小隊、文殊口より安田鉄之助三小隊、ヌル湯口より遠藤文七郎三小隊。

大砲は計十九門という大部隊だが、動きは鈍く(←だけど逃げ足は速いんだろ?)全隊予定通り到着したかはわからない。

尚、鬼首口は庄内隊の役内攻略によって開けた道。
更に進撃の手配を次のように決定。
庄内一番大隊が主力として本道・羽州街道を進み、湯沢を攻略。
二番大隊は後続として須川(湯沢南六キロ)まで進む。
但し、二番大隊より相良惣右衛門、寺内権蔵の二小隊を応援に出す。
仙台兵は右翼として男安口より稲庭(湯沢南東7キロ)を攻略し、そのまま北上。


翌8/4は休養日に。
夜は全兵士に酒が振る舞われた。
清酒はなしといえども、諸味酒と云うのあれば、沢山に求めて渡しぬ」(『伝十郎日記』)
諸味酒というのは発酵させてまだ濾していない濁り酒。

どぶろくの事である。


8月5日(新暦9月20日)曇り 夜大雨
湯沢の守将は佐竹一族・佐竹三郎で、その居館があった。

東に名峰栗駒山、西に出羽丘陵を望み、南北に流れる雄物川沿いに開けた田園地帯。
惣右衛門と権蔵隊は未明に山形兵と共に横堀を出発。
本道左手の間道(雄物川の対岸)を密かに進み山田村(湯沢西3キロ)に出た。ここの備えに山形兵を残しここから川を舟で渡って湯沢に奇襲上陸。

守将佐竹三郎は既に横手に逃亡。

居館では若干の秋田兵が守備。
鬨の声を上げ一斉に打ち掛かるとたちまち秋田兵は逃げ去った。
先鋒惣右衛門隊の菅原久内が表門を打ち壊し分隊長長野沢権内が一番乗りで邸内を捜索。

敵は一兵も居なかった。
一番大隊が追々乗り込んできたので後はお任せ。

吉之丞に伝令を出しつつ引き揚げた。
午後より大雨。
この日鶴岡より甚三郎・吉之丞への院内攻略に対する御意が伝えられた。

 

「先月廿八日中村越之戦を始め、不日院内を乗取り候趣味、一同比類無き働き、諸藩之鑑にも相成、感悦不少候。此皆末々迄も洩れ無く申聞せる可く候」


吉之丞は新庄攻略についで2度目の感状であった。


8/6 昼まで大雨
二番大隊は院内を出発し須走へ移動。

直ちに吉之丞は相良鈔之助他一名を斥候に出し自身は湯沢の本営に出掛け軍議を行った。
明日の進撃の手配を次のように決定。

目的は一日も早い秋田の牙城横手城の攻略。

その間五里(約20キロ)ある。
東西に流れる皆瀬川雄物川支流)が横たわりこの川を防衛ラインとする西軍の激しい抵抗が予想される。
一番大隊は中央本道羽州街道を北上。

上山兵これに続く。

二番大隊は左翼の間道・浅舞道(現・県道13号線)を進撃し山形兵これに続行する。仙台兵は右翼隊としてそのまま稲庭から北上し増田を目指す。
が、この手配で一悶着起こる。
一番大隊参謀長坂右近之介が仙台本営に出向いて大将瀬上主膳にこれを伝えた。

が、瀬上主膳は「我が藩、敵無きの地に臨むは、欲する所にあらず」

右近之介は答えた。

 

庄内藩はこの春より、国境に天下の敵を受けて戦ってきた。我藩の男子たるもの武士の情けとして国境を枕に打死の覚悟であり、今このように大軍を進める時がくることは考えられなかった。高義により出兵された盟主の仙台藩と雖も、我藩の士卒断じて命を奉ずる事を得ず」

 

要するに、この戦いは庄内藩が攻められたから武人の名誉の為、全将兵が死ぬ覚悟で立ち上がった庄内藩主導の戦いである。

よって、盟主の大藩仙台の命であっても従うことは出来ない。
これを聞いた主膳は「夫ならば格別のこと也」と了解。

右近之介は「我藩寡く力の限り有り、若し時を得ざらんには、大邦の光を仰がん」(『庄内戦争録』)


庄内藩は力の続く限り戦うがもしも敗れた時は大藩仙台の力をお借りしたい、と主膳の顔を立ててその場を辞した。
尚、瀬上主膳は奥羽鎮撫総督下参謀・世良修蔵長州藩士)惨殺を命じた張本人として有名である。


閏4月19日、福島城下にいた世良は参謀大山あてに密書を書いた。

が、その密書を不審に感じた福島藩士が主膳に届けた。


「奥州皆敵と見て逆襲之大策に到度候云々」


この手紙を読んだ主膳は激怒。

直ちに部下の姉歯武之進らに命じ、旅宿金沢屋にて女と就寝中の世良を捕縛。

阿武隈川で有無をいわさず首を刎ねた。
世良は周防大島の庄屋の三男で元からの武士ではない。
成り上がりの典型的な虎の威を借りる狐で刀の錆にもならない男。この時33歳。

↑東北諸藩を煽る為に任命されたのでは、という人事よ。

フリーメイソンさんとその手先は兎に角、戦争やりたくてしゃーなかった。

戦争やれば武器が売れて大儲けするからね。

更に、日本侵略に邪魔な優秀な日本人を戦争にかこつけて殺せるからね。

今日はここまで。

 

17時から夕食作り。

玄米ご飯、蜆の味噌汁、豚と大根の煮物、イカと新ニンニクの炒め物、納豆オムレツ、納豆、サラダ、ローストナッツ、朝の残り、ウォッカ梅酒ロック。

19時に昨夜以来の食事をする事に。

 

歩数計は11033。

充実した一日だった。