arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1338日目と畑と秋田・庄内戊辰戦争⑤

2025/5/8木曜日

昨夜23時過ぎに覚醒したあと、多種多様な攻撃で寝れなくなった。

止むなく読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、郡義武著「秋田・庄内戊辰戦争

 

一方、本道の雄勝峠の戦いは、というと、こちらは陽動作戦なので十二分に役目を果たした。
中央隊は上山兵70名と砲一門、仙台兵200名(先着した岩出山館主伊達弾正の三小隊)に庄内二番大隊の砲兵一分隊砲二門。
先鋒は上山兵で続いて神田六右衛門指揮する庄内大砲隊、後続は仙台兵だが待っていてもなかなか来ない。

止むなく二番隊の相良惣右衛門隊に応援を頼む。
夜明けに出発するが上山兵の歩みが遅い。何故かと問うに地理不案内と言う。

はっきり言えば戦意が無い。
それならと業を煮やした六右衛門、大砲率いて先頭に立つ。

登道になり雄勝峠の近く、敵の大砲が発砲。

味方も山に布陣し砲撃開始。
間もなく仙台兵が到着した為、惣右衛門隊は銀山越えに向かうと言う。

六右衛門は残って欲しいと言うが、行ってしまった。
案の定、銃撃戦が始まるや、仙台兵は見事な弱兵ぶりを発揮。
『六右衛門日記』に依れば
「仙(台)兵極めて脆弱、隊長(伊達弾正)たる人も銃丸来る毎に地に伏せ、恐れる躰見るに忍びず」

これは六右衛門がオーバーに表現しているわけでは決して無い。

仙台兵は白河口戦線でも「ドンゴリ」(大砲の音がドンとなるや、五里逃げた)と言われ、その弱兵ぶりには定評があった。
午後になり銃撃戦が激しくなると先鋒上山兵は引き揚げてくる。

六右衛門が訳を尋ねると「暮れには掛かりぬ。弾薬も尽きたれば怺え難し」と言う。
仙台兵は既に引き揚げてしまっていない。ここに本道上は砲兵が裸になるという事態に。
敵は余勢を駆って山を下って太鼓・喇叭を吹き鳴らし迫ってくる。

ここの西軍は長州一小隊と砲一門、小倉一小隊、新庄二小隊、秋田兵大山若狭の一隊。
止むを得ず六右衛門も及位まで後退。

しかし、ここを奪回されては一番大隊の後背を脅かされる。
一時は玉砕も覚悟したが日暮れと共に敵は引き揚げ窮地を脱した。
「今日の心配云うべくなし。斯る困難生涯有るべしとも覚えず」とは六右衛門の真実の心境。

夜遅く惣右衛門隊が応援に到着し一安心した。
西軍の状況に関して各藩大差ないので代表して長州藩『戊巳征戦紀略』を引用。
「賊雄勝峠を侵す、我兵及び小倉、新庄兵之を防ぎ、激戦賊を却く。中村口を告ぐ、我一小隊赴援す、及ばず、薩、肥の兵既に横堀に退く、故を以て銀山、院内峠の官軍、皆横堀に退く」
この秋田領内へ入る国境越えの戦いでの庄内藩の戦死者は一番大隊8名、二番大隊3名。
負傷者は一番大隊7名、二番大隊10名。
西軍の損害は秋田藩戦死3名傷1名。新庄藩戦死3名、小倉藩戦死1名、佐賀藩戦死1名、長州藩戦死1名傷1名、薩摩藩は無し。
銀山越えに挑むこの時の吉之丞の心境を詠んだ漢詩がある。

戊辰役 戊辰二十絶ノ内
    酒井 了恒

三軍策を決して 銀山に向かう
暁に轅門を出でて 意気閑なり
喇叭一声 千嶂の月
七星旌は動く 白雲の間


7/29 晴天
田代の二番隊本営の吉之丞は、一番大隊は中村越えに苦戦したが院内平野に攻め入ったとの報告を聞いた。
二番隊の応援が要るかどうかを尋ねさせる使者として、右膳隊の加藤鍾蔵と永原久蔵の両名を派遣。
すると、応援は要らないが一番大隊の横堀進撃次第に本道から攻め上がって欲しいと返答が来た。
既に一番大隊主力は寺沢村(横堀南3キロ)まで進撃。

敵の増援部隊と激戦中だった。

ここまでは西軍の抵抗も激しかったが午後3時頃、突然退却開始。

理由は今持ってわからない。
両名は午後6時頃、田代に駆け戻り、吉之丞に一番隊の戦況を報告。

結果、応援は取りやめ雄勝峠より繰り込む事に決定。

そのまま待機した。
一旦横堀に引き揚げた西兵はこの地も捨てて院内横堀の自陣にも火を掛け後退。
その情報により庄内軍は直ちに進撃を開始。


8/1、一番大隊は院内口より横堀へ入り、翌二日、二番大隊は雄勝峠を越えて意気揚々と敵地院内へと入った。
ここ上院内に本営を置き、惣右衛門隊、権蔵隊は先陣として横堀に到着し、一番隊の歓迎を受けた。

庄内隊は家を焼き払わないと安心した農民は喜んで芋汁の接待をしてくれた。
吉之丞は住民の慰撫を行い銀山の警備に伝十郎隊を派遣した。
院内は山形と秋田の国境の要地。

守将大山若狭(700石)の居館があった。8/1朝まで若狭が守備していたが横堀には早くも庄内兵進出の報を聞くや、居館を焼いて部下50名と共に裏山から湯沢へと脱出。

翌日、銀山の戦跡を訪ねた郷右衛門は西軍の巧妙な胸壁陣地や2,3人しか入れない散兵壕(旧日本陸軍の蛸壺陣地のようなものか)と散乱する夥しい七連発の撃ち殻に感心。

銀山の役人の話によれば西軍の為に難儀したが彼らは引き揚げる時、金倉を開けさせ中の金塊を全て持ち去ったとの事。
↑泥棒。

院内口敗れる、の報告が秋田の総督府並びに藩主義堯に届くや大いに驚き動揺。
総督府参謀は秋田藩重臣を開基所に呼び出すや「院内口の敗戦は秋田藩兵の士気振るわざるにあり。この上は速やかに藩主の出馬あって然るべし」と決めつけた。
新庄落城の責任は新庄藩の裏切りに転嫁したが、院内口敗戦の責任を秋田兵の犠牲によって乗り切ろうとしている。
↑DSだもの。トカゲの尻尾切りは常套手段。

 

更に、その後も敗戦の度に常に秋田藩が生贄。
↑な?言ったやろ!?

だから悪魔に魂売ったら駄目なんよ。

 

秋田県史・巻四・維新編』(編纂者山崎真一郎)が興味深いので少し長いが引用。
佐竹義堯はその言を聞き憤然色をなして、即座にその出馬を表明。義堯のこの憤慨は我が兵弱体なりとの評に対する爆発であった事は言うまでもないが、院内口先鋒を全責任をもって請け合いつつ出兵した西藩連合軍がその責任を悉く我が兵に転嫁しているその怯懦の風に対する憤懣も含んでいた事は覆うべくもない」と、義堯以上に編集者自身が立腹。

その鋭鋒は更に続く。
「事実、7/28に於ける中村口守警は薩・長・肥・小倉・新庄の兵を主力とし我藩(遊軍頭)中安泰治の率いる僅か100人足らずの兵が加わっていたに過ぎない(中略)その敗因を我藩の弱体に帰した事は寧ろ門違いの事と言わねばならない」
そもそも秋田藩は隣国庄内藩と戦う意志など毛頭無かった。

勤王藩の道を選んだとはいえ、一度は奥州列藩同盟にも加盟。
しかし、7/1, 薩長兵に守られた(担がれた)九条総督が秋田に入り、翌2日改めて庄内藩征討の先鋒を秋田藩に命じた。
秋田藩使節庄内藩討伐の理由を総督府に問い糾したが、その答は「慶喜の叛に与し諸藩(薩摩)邸へ砲撃焼払いを為したるに依る」という釈然としにいもの。
これは、前年暮れ、討幕を有利に進める為に薩摩藩は多数の浪士を集めて火付け、盗賊などをさせ、江戸を騒乱状態にした。

薩摩藩による"江戸騒擾作戦"ですわ。

火付けは江戸城にもしてるし幕府御用達の商家で強盗殺人までやっとる。

今日はここまで。

 

3時半に起床し家族の朝食と昼食作り。

6時に米麹の品温をチェック。

品音は43度越え。

麹蓋に分け入れて発酵機へ戻した。

洗濯とベランダガーデニングの水遣りを済ませると、ヨーグルトメーカーの納豆が完成。

直ぐ様、塩麹の材料をセットしヨーグルトメーカーに投入。

うちのヨーグルトメーカーは忙しい。

朝の家事を済ませたら6時45分に畑へ。

夏野菜の植え付けに備え肥料や苦土石灰を施肥。

綿花の種も蒔いた。

草刈りをすると、ミョウガが顔を出していた。

最後に収穫。

孫達も到来しコカブや玉ねぎを収穫体験。

お花も摘んで楽しく過ごした。

10時に畑を後に。

収穫した野菜を洗ったり干したり。

11時から読書と調べ物。

からの寝落ち。

もうね、眠れ眠れ爆弾攻撃炸裂で頭カックンしまくりの、入力したメモ書き消されまくりよ。

この、戊辰戦争の記録はホント知られたくない模様。

ま、「知る権利」あるしね。

 

17時から夕食作り。

ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック、納豆、キャベツのラザニア、小松菜のチャーシュー和え、鶏のネギ塩炒め、新玉サラダ、玄米ご飯、味噌汁。

お腹空いちゃって17時半からナッツをツマミに晩酌開始。

今日は畑の草刈りも頑張ったし、本も面白かったし最高ですわ。

本は購入したので、ガッツリ引用しているけど許して欲しい。

戊辰戦争で何が起きていたのか知れて嬉しい。

どうやって日本の主権が失われ、イギリスの植民地になり搾取される事になったのか知れて良かった。

主権を失って良くは無いけれど、どうやって失ったかを知らないでお花畑で居るよりは知れて良かった。

この税金地獄から抜け出す為には、まずは、主権を取り戻さないとなんだよね。

アメリカから独立しないと。

宗主国アメリカな。

第二次世界大戦後から。

 

歩数計は9518。

充実した一日だった。