2025/5/7水曜日
4時に覚醒させられた。
まずは最新情報をチェック。
4時半に起床。
まずは米麹の品温をチェック。

昨夜は27度設定にして就寝。
今朝は31度をヒット。
あと4時間は発酵機に留めて置くことに。
次に子供らの朝食とお弁当のおかず作り。
合間に2回の洗濯。
8時半に昨日ヨーグルトメーカーに仕込んだ納豆が完成。
そして、米麹の出麹を待ち、次は中華麹の材料を用意しヨーグルトメーカーへ。

中華麹で使用したミキサーで今度はドレッシング作り。
今回は鰹節の出汁ガラがあるので梅鰹ドレッシングを作成。
洗濯物を干し、ベランダガーデニングの水遣りを済ませたら、自分の時間。
読書と調べ物。
7/14に新庄城を攻略後、本陣を二間村の神社から桂岳寺に移動。
7/15、16と宿陣後、残党狩りをしつつ金山へ進撃。
次の目標は及位(のぞき)に。
二番大隊は西の漆野に前進。
途中、11日の戦いで潰走した仙台藩の荷物、馬具が散乱していたという。
7/21には本隊は下春木(漆野西2キロ)で宿陣。
新庄攻略後、庄内一、二番隊共に活発には行動していない。
政治的にも庄内軍のみで秋田領内へ侵攻する訳にはいかないので同盟軍の後続部隊の到着を待っていた(漸くこの日米沢勢が新庄へ。山形・上山・天童勢が舟形へ。仙台勢1千人は未到着)
7/21から、同盟軍の到着を待ちながら偵察と整備をしていたが、24日に吉之丞は一番隊本営に出向き、攻撃の再開を提案。
一番大隊も同意。
更に、一番大隊が是非先鋒を、と主張したので了承。
7/25, 朝霧深し、のち晴れ 夜雷雨
暁午前二時に一番大隊と二番大隊は下春木を出発。
釜淵、八敷代を経由し明け方大滝に。
ここを守備していた新庄兵は庄内隊が迫るや敗走。
大鍋にご飯を炊き、汁も煮てあったのは庄内兵が頂いた。
そのまま進撃し昼前に及位に到着するもここも蛻の殻。
敵は全て院内峠(雄勝峠)に引き揚げた。
一方、本道主寝坂の攻撃は猪太夫隊半隊長・白井兵介が10名の斬込み隊と10名の小銃手を付けて午前二時に先発。
秋田の番小屋を次々攻略。
峠上の西軍本営陣地に肉迫。
逃げ遅れた秋田兵が応戦。
白井兵介と後に続いた臼兵衛隊の若武者山田種吉(15歳)が銃弾に斃れた。
秋田兵による抵抗もここまで。
このあと及位に向かい山を転がるように敗走。
7/26午後、及位川の橋上で軍議。
28日に秋田領院内に攻め入る事に。
左から銀山越、雄勝峠、赤倉越、中村越、黒森越と大小五つの道があり何れも国境の山越えの険しい道ばかり。
本道雄勝峠は天然の要害。無理攻めはせず陽攻。
これには上山兵と仙台兵300と二番大隊の砲半隊。
右翼の赤倉越、中村越は庄内一番大隊。黒森越は米沢兵450。
左翼の銀山越に二番大隊が向かう事に。
院内銀山の歴史は古く1606年に採掘が始まり、天保年間には産出量が日本一に。
昭和29年に閉山となるまで採掘が続いた。
27日、二番大隊の進撃の手配を決定。
中村権太夫(吉弥組・150石)は新庄攻めで戦死した服部正蔵の代わりに新たに第三小隊長に。
半隊長も同じく戦死した大島武助にかわり宮坂顕蔵(供小姓・100石)が着任。
この日、郷右衛門隊などはのんびり川遊びや魚取り。
戦旅を楽しんでいる。
一方、日本海では次のような事件が。
津軽深浦港で庄内三本柱帆船を副督沢公が乗っ取り。
搭載のミニエー銃200余銃を没収。
7/28 晴天
午前二時、二番大隊は松明をかざし銀山越の山道に。
途中、小倉藩士や佐賀藩士の斥候に遭遇。斬り合いに。
やがて、銀山も近くなった谷間の各所で西軍の陣地が発見され佐賀兵自慢の後装式七連発・スペンサー銃(床尾弾倉式)による射撃が始まった。
佐賀藩は鉄砲の近代化に力を注ぎ、我が国初の後装施条式(砲身内に溝・ライフルがある)の大砲アームストロング砲を国産化。
上野彰義隊の潰滅に一役買ったのは有名だが、この奥羽戦線でも威力を発揮。
小銃は開発が間に合わず、前年にはアメリカ南北戦争で活躍した新型スペンサー銃を一挺37ドル80セントで2000挺購入。
スペンサー銃と庄内藩の標準装備ミニエー銃(後装単発式)の性能を比較。()内はミニエー銃。
口径12.5ミリ(14.5ミリ)
全長1187ミリ(1410ミリ)
重量4.6キロ(4.5キロ)
照尺900ヤード(500ヤード)
※1ヤード=91.44cm
スペンサー銃はミニエー銃より一回り小型で小柄な日本人に扱いやすい。
チューブ式七発弾倉を床尾から差し込み、レバーを押し下げれば装填完了。
単発と連発に切り替えも可能。
口径が小さい事から初速も速く射程(弾の届く距離)もミニエー銃の倍近く。
銀山口の西軍主力はスペンサー銃装備の佐賀兵の二小隊約80名。
強固な陣地内から撃ち出す80挺の七連発スペンサー銃の威力は庄内隊を寄せ付けない。
この日の銀山越えの戦いは勝敗の決着着かぬまま両軍引き揚げた。
〈一番大隊の激闘〉
最右翼の赤倉越の先鋒は石原藤助隊。
それに物頭山本丈右衛門率いる松山隊に附従隊が続行。
赤倉越えの峠を確保したなら中村越の本隊を支援する。
2つ目の中村越は本隊主力で先鋒は服部小隼人隊と黒谷市郎兵衛(市郎兵衛が鳥越で負傷後は半隊長本多丑弥太が指揮)。
猪太夫、臼兵衛隊、竹内大作隊が続く。
3つ目の黒森越は新着の米沢兵(450名)が金山の有屋口から攻め、中村へ押し下げる。
赤倉峠を越え1里下った前方に西軍の胸壁多数を発見。
散兵しつつ近寄る藤助隊を十分引きつけるや猛然と撃ってきた。
数時間耐久したが突破出来ないまま、死傷者を救出し引き揚げた。
中村越えに向かった本隊は午前二時に及位を出発。
塩根川を遡り昼前に峠へ。
東へ下り村落も見え始めた頃、西軍の胸壁を3カ所発見。
たちまち射すくめられ前進不能に。
銃撃戦は数時間続いた。
猪太夫隊の荻野勝蔵(新九流達人・12.石三人・37歳)が打ち入りを申し出、数名がこれに続いた。
次々と敵弾に倒れるも西軍は動揺。
その隙に猪太夫隊は高見から西兵を撃ち下ろすと胸壁へ捨てて退却。
勝蔵は深手を負い倒れていたが、自ら短刀を抜いて自害した。
一番隊はその夜、中村に宿陣。
黒森越えに挑んだ米沢兵450は峠を守備していた新庄藩一番隊(約200名)と激突。数で劣る新庄兵は程なく敗走。
後に敗戦の責任を薩長軍幹部より叱責された新庄隊長北条左金太は憤懣やるかたなく8/1に自刃。
意気上がる米沢軍は院内平野に進入。奥羽戦に於ける米沢軍最初で最後の勝利となった。
↑院内の山越えの5ルートの攻略は大変やな。
そら、他の藩の到着を待たないと進撃出来ないわ。
大砲持って山越えたの凄いわ。
今日はここまで。
17時から夕食作り。

焼き芋、ししゃも、鮭、鶏むね肉のビリヤニマサラ炒め、納豆、サラダ、残り物の煮物、味噌汁。
大好きな和食を堪能した。
お皿を洗ったら営業修了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は2517。
充実した一日だった。